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第43話 最大の魅了


森の最深部は、霧が晴れていた。

晴れていた、というより、霧が、そこだけ避けていた。

古い木々の群れの、さらに奥。樹齢が何百年なのか見当もつかない巨木が、円を描くように立ち並んでいた。その円の内側だけ、霧がなかった。

円の中は、薄明るかった。

どこから光が来ているのか、分からなかった。空は、枝に覆われて見えない。それなのに、円の中だけが、夜明け前の空のような、淡い青白い光に満ちていた。

苔の上に、人が並んで横たわっていた。

若い女たちだった。

十一人。

羊飼いの服を着た娘。宿屋の前掛けをつけた娘。寝間着のままの娘。全員が、目を閉じていた。

眠っていた。

穏やかな顔だった。口元に、かすかな微笑みを浮かべている娘もいた。

幸せな夢を、見ているようだった。


遠征の、三週目の朝だった。

一行は、巨木の円の縁に立っていた。

ロッサ。クラウディア。セラフィナ。リゼット。

それから、アルト。


「……生きています」


リゼットが、記録板を握りしめて言った。


「呼吸が、あります。全員」


「眠らされてるだけ、ってことか」


ロッサが、大剣を肩から下ろした。


「なら、起こせばいい」


「本体を倒せば、魅了は解けると推定します」


リゼットは、円の中央を見た。

そこに、何かがいた。


最初は、霧の塊に見えた。

円の中央の、一番大きな巨木の根元。その根の間に、白い靄が、渦を巻いてうずくまっていた。

靄が、ゆっくりと形を変えた。

人の形に。

少年の形に。

幻影と、同じだった。

月の光を透かしたような、淡い髪。白い肌。細い体。怯えたような、潤んだ目。

ただ、幻影より、ずっと大きかった。

巨木の根の間に座っているのに、その頭は、一行の背丈の倍の高さにあった。

そして、少年の背中から、何かが伸びていた。

翼だった。

霧でできた、蝶の翅のような。薄く、透けて、ゆっくりと開いたり閉じたりしていた。

その翅が開くたびに、眠っている娘たちの寝息が、深くなった。


「……夢魔の王」


リゼットが、記録板に書き留めた。

ペンは、震えていなかった。


少年が、こちらを見た。

潤んだ目が、一行を、一人ずつ見た。

それから、唇が、動いた。


「……おいで」


声が、森全体を震わせた。

幻影のときとは、比べものにならなかった。

声が、耳からではなく、胸の奥から聞こえてくるようだった。心臓の、すぐ裏側から。

セラフィナが、聖具を胸に押し当てた。

クラウディアが、剣の柄を握りしめた。

リゼットが、記録板を抱きしめた。

ロッサが、大剣を構えた。

四人とも、足が止まらなかった。

一歩も、少年の方へ引き寄せられなかった。


「……抗えます」


リゼットが、言った。


「精神、百三十以上。推定通り」


「よし」


ロッサが、踏み込んだ。


「ぶっ叩く」


戦いが、始まった。

少年の翅が、大きく開いた。

霧が、円の外から流れ込んできた。流れ込んで、獣の形になった。

眷属だった。

一昨日より、ずっと多かった。

三十匹。四十匹。

円の縁を、ぐるりと取り囲むように。


「陣形、組みます!」


クラウディアが、叫んだ。


「ロッサ殿、前へ!私が左!リース神官、結界を後方に!ハーシェル殿、計測を!」


四人が、動いた。

一昨日の撤退のときより、ずっと滑らかに。

ロッサが、大剣を振るった。

眷属が、三匹まとめて裂けた。

精神に配分した分、筋力と敏捷は三割減っていた。それでも、速かった。

クラウディアが、左に回り込んだ。

剣筋が、乱れていなかった。

少年の声が、森を震わせても。一昨日、彼女の剣を苔に刺させた、あの声が。

今日は、届いていなかった。


「……効いてる」


アルトは、円の縁の、巨木の陰に立っていた。

セラフィナの結界の、内側。

四人の背中を、見ていた。


「みんな、効いてる」


声に、出ていた。

精神は、二十のままだった。


「右から来る!」


アルトが、叫んだ。

クラウディアの右から、眷属が二匹。

クラウディアが、振り返った。

一瞬、遅れて。

剣が、一匹目を薙いだ。二匹目の牙を、肩当てで受けた。


「……っ」


「あと今のクラウディアの踏み込み最高!」


アルトの口が、続けた。

クラウディアの剣先が、ほんの少しだけぶれた。


「……っ、今、それは」


「左足の、地面の蹴り方!訓練場で見てたのより、ずっと速い!かっこいい!」


「……集中、できません!」


クラウディアが、叫び返した。

叫びながら、眷属を斬り伏せた。

顔が、赤かった。


「ロッサ、後ろ!」


ロッサが、振り向きざまに大剣を払った。

眷属が、裂けた。


「ロッサの大剣の振り方、毎回見とれる!腰の回し方が、すごく綺麗!」


「知ってる!」


ロッサが、笑いながら叫び返した。


「もっと言え!力が出る!」


「背中の筋肉が、汗で光ってて最高!」


「おう!」


ロッサの大剣が、さらに速くなった。


「セラフィナ、結界、少し右が薄い!」


セラフィナが、聖具を右に傾けた。

結界の光が、右側で厚くなった。


「祈ってる声、すごく綺麗!鎖が光に照らされて、金色になってるのも最高!」


セラフィナの祈りの言葉が、一行だけ飛んだ。


「……っ、フェンネル様っ」


「ごめん、止まらない!」


「リゼット、計測、どう!」


リゼットは、記録板にペンを走らせていた。

円の縁の、結界の内側で。眷属の数、四人の動き、少年の翅の開閉の間隔、全部を。


「眷属、残り十八!」


彼女が、叫んだ。

叫ぶ声を、初めて聞いた。


「本体の翅、開閉の間隔、短くなっています!魅了を、強めようとしている!」


「リゼットの叫び声、初めて聞いた!かわいい!」


ペンが、記録板の上で、がりっと音を立てた。


「……記録、継続、します!」


指示と、本音が、混ざって飛んでいた。

右。左。後ろ。結界。計測。

最高。綺麗。かわいい。かっこいい。

アルトは、もう止めようとしていなかった。

止められなかった。

ただ、指示だけは、正確だった。

不思議なことに、本音が混ざるほど、指示の声がよく通った。

建前を挟まない声。考える前に、口から出る声。

それが、霧の中でも、まっすぐに四人に届いていた。

眷属が、減っていった。

十八が、十に。十が、五に。

少年が、巨木の根元で、翅を大きく広げた。

潤んだ目が、四人を見ていた。

一人ずつ。

神官を。副長を。研究員を。

それから、冒険者を。

少年の目が、ロッサの上で、止まった。


少年の翅が、ゆっくりと閉じた。

それから、もう一度、開いた。

今までで、一番大きく。

霧が、少年の体を包んだ。

少年の姿が、揺らいだ。

細い体が、霧の中で、形を変えていった。

月の光を透かした淡い髪が、色を変えていった。

濃い、焦げ茶の色に。

怯えた潤んだ目が、色を変えていった。

琥珀の色に。

細い腕が、太くなった。薄い胸が、厚くなった。

背が、伸びた。

肩が、広がった。

霧の中から、一人の男が、立ち上がった。

アルトだった。


いや、アルトではなかった。

アルトの顔をしていた。アルトの髪の色と、目の色をしていた。

けれど、体が、違った。

大きかった。

ロッサと同じくらいの背丈。ロッサよりも厚い胸。日焼けした肌。鍛え抜かれた腕。傷痕が、あちこちに白く走っている。

大剣を、片手で軽々と担いでいた。

その男が、ロッサを見た。

にかっと、笑った。

ロッサが、いつも浮かべている、あの笑い方で。


「よう」


男が、言った。

アルトの声だった。

ただ、低かった。太かった。


「強い女って、いいな」


ロッサの足が、止まった。

大剣を、振りかぶったまま。

金茶色の目が、男を見ていた。


「……あ」


小さな声が、ロッサの唇から漏れた。


「おい、ロッサ」


男が、手を差し伸べた。

大きな手だった。剣だこのある、硬い手。


「こっち来いよ。一緒に、もっと強い魔物を狩ろう。お前より強い男が、ここにいるぞ」


ロッサの大剣が、ゆっくりと下がった。


「……強い、男」


「ああ。お前が担がなくても、自分で歩ける男だ。お前と並んで、戦える男だ」


男は、にかっと笑った。


「そっちのヒョロいのより、ずっといいだろ」


ロッサの目が、揺れた。

金茶色の目が、男と、巨木の陰のアルトのあいだで、揺れた。

それから、焦点が、ぼやけた。


「ロッサ殿!」


クラウディアが、叫んだ。


「それは、幻です!」


ロッサは、聞いていなかった。

男の方へ、一歩、踏み出していた。


「……単純な人ほど」


リゼットが、記録板を握りしめて、呟いた。

声が、震えていた。


「欲求に、素直な人ほど、魅了にかかりやすい。……ロッサ殿の欲しいものは、強くなること。強い男。それを、そのまま見せられたら」


「精神は、百二十九あるはずでは!」


セラフィナが、叫んだ。


「足りません。……他の三人なら、ぎりぎり抗えたかもしれない。でも、ロッサ殿にだけは、あまりにも、まっすぐに」


リゼットのペンが、記録板の上で止まっていた。

ロッサが、男の前に立った。

男が、ロッサの肩に手を置いた。

それから、耳元で、何かを囁いた。

ロッサの体が、ゆっくりと、振り返った。

こちらを、向いた。

金茶色の目が、空っぽだった。


ロッサが、大剣を構えた。

一行の方に、向けて。


「……ロッサ、殿」


クラウディアが、剣を構え直した。

声が、かすれていた。

ロッサは、何も言わなかった。

金茶色の目が、円の縁を見ていた。

クラウディアを。セラフィナを。リゼットを。

それから、巨木の陰の、アルトを。

ロッサの足が、苔を蹴った。

速かった。

貸与の力が、彼女の脚に宿っていた。アルトが貸した、筋力と敏捷が。

その力で、ロッサは、まっすぐに。

アルトの方へ、跳んだ。

大剣が、振り上げられた。

身の丈ほどの刃が、淡い青白い光を受けて、冷たく光った。

アルトは、巨木の陰で、それを見上げていた。

逃げられなかった。

体の中に、何も残っていなかった。全部、貸していた。

ロッサに貸した力が、ロッサの腕の中で、大剣を振り上げていた。


「ロッサ」


アルトの口が、言った。

大剣が、振り下ろされた。



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