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第44話 そっちの方が、いい男だな


金属がぶつかる音が、森を震わせた。

大剣が、止まっていた。

アルトの頭上、拳ひとつ分のところで。

その刃を、一本の剣が受け止めていた。

クラウディアだった。

円の縁から、一息で跳んできていた。アルトとロッサのあいだに、体を滑り込ませて。

両手で剣を握り、大剣の刃を、真下から受け止めていた。

腕が、震えていた。

ロッサの大剣は、重かった。アルトが貸した筋力が、その刃に乗っていた。素の百四十に、百近くが上乗せされた力が。

クラウディアの足が、苔の上で、じりじりと沈んでいった。


「……っ、ロッサ殿!」


クラウディアが、叫んだ。


「目を、覚ませ!」


ロッサの金茶色の目は、空っぽだった。

何も、映していなかった。


「アルト殿!下がってください!」


クラウディアが、歯を食いしばって言った。

アルトは、下がらなかった。

下がれなかった。

体が、動かなかった。全部、貸していた。精神も、筋力も、敏捷も。

それに、下がりたくなかった。


「ロッサ」


アルトは、言った。

大剣の刃の向こうの、空っぽの目に向かって。


「ロッサ、そっちは、違う」


ロッサの目は、動かなかった。

円の中央で、偽物のアルトが笑っていた。

大きな体。厚い胸。日焼けした腕。大剣を担いで、にかっと笑っている。


「強い女って、いいな」


偽物が、言った。

ロッサの大剣に、さらに力がこもった。

クラウディアの膝が、折れかけた。


「……届かない」


アルトは、目を閉じた。

胸の奥を、意識した。

貸与の回路。四本の細い糸。

セラフィナへ。クラウディアへ。リゼットへ。ロッサへ。

その糸を通じて、契約者には、意図がかすかに伝わる。騎士団の詰所の朝、水が欲しいと思っただけで、クラウディアが杯を差し出した。

今、ロッサへの糸の先で、何かが詰まっていた。

霧のような。厚い、白い、壁のような。

夢魔の魅了だった。


「なら」


アルトは、三本の糸を、意識した。

セラフィナへ。クラウディアへ。リゼットへ。

その先に、自分が貸した精神が、流れていた。七十のうち、四分の三。


「それを、全部、ロッサに」


意図した。

三本の糸から、精神が、引き戻されてくる。

セラフィナが、円の縁で、聖具を取り落とした。リゼットが、記録板を胸に抱いたまま、膝をついた。

クラウディアの剣が、ぶれた。

三人とも、魅了の声に、一瞬、呑まれかけた。

その精神を、ロッサへの糸に、流し込もうとした。

詰まっていた。

糸の先の、霧の壁に。

流れていかなかった。


「……だめだ」


「この糸じゃ、細すぎる」


「声が、届かない」


「アルト殿、精神を、三人に戻してください!」


クラウディアが、叫んだ。


「このままでは、全員が!」


アルトは、目を開けた。

三人に、精神を戻した。

セラフィナが、聖具を拾い直した。リゼットが、立ち上がった。クラウディアの剣が、また大剣を押し返した。

ロッサへの糸の先は、まだ、詰まったままだった。


「どうすれば」


アルトは、ロッサの空っぽの目を見ていた。

担がれていた肩。響いていた笑い声。土と、焚き火と、汗の匂い。

強い男って、いいな。

あの朝、天幕の外で、あんなに晴れやかに言った人が。

今、偽物の強い男に、連れていかれようとしていた。


(届け)


アルトは、思った。

本音でも、内心でもなかった。

ただ、それだけだった。


(届け)


その瞬間、胸の奥で、何かが、鳴った。

体の奥で、閉じていた扉が、また一枚、開いていく感覚があった。

天賦の儀から、五か月。

騎士団の訓練場。家庭教師の書斎。遠征の街道。眠りの森。

体が、少しずつ、変わっていた。担がれながら、歩きながら、霧の中を走りながら。

筋力も、体力も、敏捷も、少しずつ。

そして、精神。

精神を手放して、本音を全部吐き出して、それでも、この場から逃げなかった。

大剣の前に、立っていた。

我慢を失くしたまま、それでも、踏みとどまっていた。

そのことが、何かを、押し上げていた。

リゼットが、円の縁で、携帯の水晶板を握りしめていた。

板が、金色に光っていた。


「……っ」


リゼットが、板を見下ろした。


「素の力の、合計」


声が、震えていた。


「三百、六十」


金色の光が、アルトの体から溢れた。

いや、アルトの体からではなかった。

アルトと、四人を繋ぐ、四本の糸から。

糸が、光っていた。

細かった糸が、太くなっていた。

太く、明るく、まっすぐに。

リゼットの手の中の水晶板に、文字が流れていった。


アルト・フェンネル十八歳男

筋力40/体力46/敏捷38/器用33

魔力25/知力74/精神104(合計360)


スキル:【ステータス貸与】Lv49→Lv55


【第二の壁を突破】

契約5/7

増幅倍率×4

貸与上限素の合計の七割

意図伝達:明瞭


ロッサへの糸の先の、霧の壁が。

光に、照らされていた。


(——届く)


アルトは、もう、目を閉じなかった。

ロッサを、まっすぐに見ていた。

口を、開かなかった。

声は、口からではなく、糸を通って、流れていった。

まっすぐに。

霧の壁を、貫いて。

ロッサの頭の中に、直接。


『そっちのでかいのは、偽物』


ロッサの目が、揺れた。


『本物は、こっち。ひょろいし、自分で歩けないし、すぐ倒れるし、全然強くない』

金茶色の目に、ほんの少しだけ、光が戻った。


『でも、担がれるの、好きだった』


建前は、なかった。

精神を、全部貸したままだった。押さえるものが、何もなかった。


『ロッサの肩の上が、一番よかった。熱くて、汗の匂いがして、笑うと背中に響いて。歩けるのに、歩けないふりしたの、二回。もう知ってると思うけど』


ロッサの大剣が、止まった。

クラウディアの剣を押していた力が、ふっと抜けた。


『だから、戻ってきて』


アルトは、まっすぐに、ロッサを見ていた。


『また、担いで』


ロッサが、まばたきをした。

一度。

二度。

金茶色の目に、焦点が戻った。

目の前に、クラウディアの剣があった。その向こうに、巨木の陰の、アルトがいた。

ひょろくて。自分で歩けなくて。すぐ倒れて。

全然、強くない男。

ロッサは、大剣を下ろした。

振り返った。

円の中央に、偽物が立っていた。

大きな体。厚い胸。日焼けした腕。アルトの顔で、にかっと笑っている。


「強い女って、いいな」


偽物が、また言った。

ロッサは、偽物を見た。

それから、巨木の陰の本物を、肩越しに振り返った。

声を枯らして。顔を赤くして。自分の頭の中に、恥ずかしいことを全部流し込んできた男を。

ロッサは、にかっと笑った。

いつもの、あの笑い方で。


「……そっちの方が、いい男だな」


ロッサが、苔を蹴った。

速かった。

アルトの貸した敏捷が。倍率四で、さらに増した力が。

円の中央まで、一息で。

大剣が、振り上げられた。

偽物の笑顔が、一瞬、凍りついた。

それから、霧に戻ろうとした。

遅かった。

大剣が、振り下ろされた。

偽物が、真っ二つに裂けた。

裂けた霧の中から、少年の姿が、一瞬だけ見えた。

月の光を透かした髪。潤んだ目。細い体。夢魔の王の、本当の姿。

その姿も、大剣の刃が、通り抜けていった。

声が、森を震わせた。

悲鳴とも、溜め息ともつかない、長い、細い声。

それから、静かになった。

霧の翅が、ほどけて、散っていった。


円の縁で、眷属たちが、揺らいでいた。

主を失って、形を保てなくなっていた。

ただ、まだ、十匹ほどが残っていた。

散る前に、最後の力で、円の中へ飛びかかってこようとしていた。


『クラウディア、右から三、左から二、後ろから五』


アルトの声が、糸を通って、クラウディアの頭に届いた。

口からではなかった。

クラウディアが、目を見開いた。

それから、動いた。

右の三匹を、一閃で。左の二匹を、返す刃で。


『ロッサ、後ろの五、まとめて』


ロッサが、振り返りざまに大剣を払った。

五匹が、霧に散った。


『セラフィナ、結界を、眠ってる人たちの上に』


セラフィナが、聖具を掲げた。

金色の光が、眠っている十一人の娘たちを、覆った。


『リゼット、残りは』


「……ゼロ、です」


リゼットが、記録板から顔を上げた。


「眷属、全滅。本体、消滅を確認」


クラウディアが、剣を下ろした。

荒い息をついていた。

それから、アルトを振り返った。

灰色の目が、大きく見開かれていた。


「……今の、は」


「意図伝達、です」


リゼットが、答えた。

記録板を、震える手で抱えていた。


「第二の壁を越えて、明瞭になった。フェンネル殿の声が、口を介さずに、契約者の頭に直接届く」


クラウディアは、自分の手の中の剣を見下ろした。


「……戦場で」


彼女は、呟いた。


「指揮官の声が、全員の頭に、同時に、直接届く」


灰色の目が、光っていた。


「これが、あれば」


アルトは、巨木の根元に座り込んでいた。

声が、出なかった。

一晩中、本音を吐き出し続けた。戦いの最中も、指示と本音を叫び続けた。

最後は、糸を通して、全部を流し込んだ。

喉が、からからだった。声が、枯れていた。

ロッサが、大剣を肩に担いで、戻ってきた。

アルトの前で、しゃがみ込んだ。

金茶色の目が、アルトを見ていた。


「担いでほしいんだろ」


アルトは、枯れた声で、何か言おうとした。

声にならなかった。

代わりに、頷いた。

ロッサが、にかっと笑った。


その時、円の中で、誰かが身じろぎした。

眠っていた娘たちの一人だった。

羊飼いの服を着た娘。

ゆっくりと、目を開けた。

二か月ぶりに。

娘は、ぼんやりと、天を見上げていた。

枝の隙間から、朝の光が落ちてきていた。霧が、晴れていた。

それから、娘は、首を横に向けた。

円の縁の、巨木の根元。

そこに、一人の男が座っていた。

声を枯らして。顔を赤くして。赤毛の女冒険者の肩に、今まさに担ぎ上げられようとしている男。

娘は、それを見て、目を瞬いた。


「……殿方?」


か細い声だった。

二人目の娘が、目を開けた。三人目。四人目。

十一人の娘たちが、次々と目を覚ましていった。

そして、全員が、最初に見たのは。

声を枯らし切って、女冒険者の肩の上で揺られている、その男の姿だった。



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