↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/50

第42話 我慢が、消える


焚き火の前に、折り畳みの卓が置かれていた。

その上に、リゼットが記録板を立てかけていた。

黒板代わりだった。

白い炭で、表題が書いてある。定規を当てたように、まっすぐな字で。



『精神九十の配分案』



「魅了への抵抗力は、精神に依存します」

リゼットは、炭を手に、記録板の前に立っていた。

焚き火の明かりが、彼女の眼鏡に映っていた。


「本日の記録から、本体の魅了の強さを推定しました。抗うのに必要な精神の値は、およそ百三十から百五十」


彼女は、四人の名前を書いた。


「現在の、私たちの精神です」


セラフィナ、七十。クラウディア、七十五。リゼット、五十五。ロッサ、五十。


「全員、足りません」

誰も、反論しなかった。

今日、森の中で、四人ともそれを身をもって知った。


「一方」


リゼットは、もう一つの名前を書いた。

アルト・フェンネル、九十。


「対象の精神は、九十。一般男性の、六倍です」


彼女は、炭で、その数字を丸く囲んだ。


「これを、貸します」


「精神の、同種貸与」


リゼットは、記録板に式を書いた。


「現在の倍率は三。同種の場合、さらに一・五倍。つまり、対象の精神を一貸せば、受け取る側の精神は四・五上がります」


炭が、記録板の上を走った。


「対象の精神から、七十を貸し出す。四・五倍で、三百十五。これを四人で分ければ、一人あたり、およそ七十九」


四人の名前の横に、新しい数字が書き込まれた。


セラフィナ、七十プラス七十九で、百四十九。

クラウディア、七十五プラス七十九で、百五十四。

リゼット、五十五プラス七十九で、百三十四。

ロッサ、五十プラス七十九で、百二十九。


「ロッサ殿だけ、わずかに足りませんが、ロッサ殿はもともと幻影に惑わされにくい性質です。全員、抗えると推定します」


焚き火が、ぱちんと爆ぜた。


「……貸与の上限は」


クラウディアが、聞いた。


「現在、他の項目で、上限いっぱいまで貸していたはずでは」


「はい。ですので、他の項目からの貸与を、一時的に減らします」


リゼットは、記録板の端に、小さく書き足した。


「筋力、敏捷、体力の貸与を、それぞれ三割ずつ削る。その分を、精神に回す。戦闘力は少し落ちますが、魅了に呑まれるよりは」


「……理屈は、通っている」


クラウディアが、頷いた。

ロッサも、腕を組んで頷いた。

セラフィナは、黙って記録板を見ていた。


「ただし」


リゼットが、炭を置いた。


「一つ、問題があります」


全員が、彼女を見た。

リゼットは、眼鏡を押し上げた。

それから、焚き火の向こうのアルトを見た。


「比較実験の、四日目のことを、覚えておられますか」


アルトは、黙って頷いた。

忘れるはずがなかった。


「精神を、十だけ貸した日。対象の発言に、変化が出ました」


リゼットは、記録板の別の頁をめくった。


『十一時十四分。精神の貸与時、検体の発言に変化。通常の発言制御が、一時的に緩むと推定』


「精神は、意志の力です。忍耐の力。己を律する力」


リゼットは、淡々と言った。


「十を貸しただけで、対象は、普段なら口にしないことを、口にしかけました」


彼女は、少しだけ間を置いた。


「七十を貸せば、対象に残る精神は、二十。一般男性と、ほぼ同じ値になります」


「……一般男性と、同じなら」


セラフィナが、小さく言った。


「問題は、ないのでは」


「一般男性には、抑えるべきものが、ほとんどありません」


リゼットは、言った。


「対象には、あります」


焚き火の周りが、静まり返った。

三人の視線が、アルトに集まった。

ロッサだけが、にやにやと笑っていた。


アルトは、焚き火の炎を見つめていた。


(……分かってる)


(精神を、七十も貸したら)


十八年間、押さえつけてきたもの。

それを押さえていた力が、二十しか残らない。

二十では、押さえきれない。


(全部、出る)


(考えてることが、全部、口から出る)


(この四人の前で)

アルトは、顔を上げた。

四人を、見回した。

セラフィナ。クラウディア。リゼット。ロッサ。

今日、森の中で、四人とも声に呑まれかけた。ロッサは腕に傷を負った。セラフィナは魔力を使い果たした。クラウディアは剣を落としかけた。リゼットは記録を失った。

それでも、全員、ここにいた。


(……仕方ない)


(いや、仕方ないじゃない)


(これは、選ぶことだ)


「……やりましょう」


アルトは、静かに言った。

四人が、アルトを見た。


「ただ、一つだけ、お願いが」


「何でしょうか」


クラウディアが、聞いた。

アルトは、少しだけ目を伏せた。


「……これから、何を言っても」


穏やかな声だった。


「聞かなかったことに、していただけますか」


アルトは、目を閉じた。

胸の奥の、重くて、硬くて、冷たいものを、意識した。


(精神)


(十八年の)


(七十)


意図した。

硬いものが、ほどけていった。

比較実験の日とは、比べものにならなかった。

あの日は、端の方が、ほんの少しだけほどけた。

今日は、根元から、ほどけていった。

ほどけて、細い糸を通って、四つの方向へ流れていった。

神官へ。副長へ。研究員へ。冒険者へ。

体が、軽くなった。

軽くなって、何か大事なものが、抜けていく感覚があった。

いつも胸の真ん中にあって、全部を押さえていた、重しのようなもの。

それが、なくなっていく。

アルトは、目を開けた。


焚き火の炎が、明るかった。

四人が、こちらを見ていた。

セラフィナの、空色の目。クラウディアの、灰色の目。リゼットの、眼鏡越しの目。ロッサの、金茶色の目。

リゼットが、携帯の水晶板を差し出した。

アルトは、手を置いた。


精神素90/貸出−70現在20


「……配分、完了」


リゼットが、淡々と記録した。


「各人の精神を、確認します」


四人が、それぞれ自分の水晶板に手を置いた。

数字が、浮かんだ。


百四十九。百五十四。百三十四。百二十九。


「推定通りです」


リゼットが、頷いた。


「対象の、体調は」


アルトは、口を開いた。


「セラフィナの鎖、毎回最高だと思ってる」


焚き火が、ぱちんと爆ぜた。

誰も、動かなかった。

アルトは、自分の口を押さえた。

押さえた手の下で、口が、まだ動いていた。


「あれ、胸の上と下を通ってるの、最初の儀式の日から、ずっと気になってた。毎回、本数が増えるたびに、ありがとうって思ってた。今日も、五本。五本目のやつが、一番いい角度」


セラフィナが、固まっていた。

空色の目が、まん丸に見開かれていた。

それから、顔が、耳まで、真っ赤になった。

鎖を、両手でぎゅっと握りしめた。

縛られた腕で、精一杯に。


「……っ、あ、あの」


「何本にいたしましょうか、って聞かれるたび、毎回、心の中で手を合わせてた」


セラフィナが、鎖を握ったまま、俯いた。

肩が、小刻みに震えていた。


アルトの視線が、隣に移った。


「クラウディア、跪いたときの角度が完璧すぎる」


クラウディアの背筋が、びくりと伸びた。


「右膝の、地面への下ろし方。左の拳の置き方。背中が一本の線になって、首だけ少し上を向く、あの角度。毎日、訓練の最後の四分の一の体力、あれのためだけに取っておいてた」


「……っ」


「髪を解いたときも、すごかった。あの花の香油、一滴じゃなくて、部屋中に撒いてたの、知ってる」


クラウディアの顔から、表情が消えた。

それから、首筋から、赤くなっていった。

彼女は、剣の柄を握りしめていた。

握りしめたまま、言った。


「……集中、できません」


報告の声だった。

報告の声が、裏返っていた。


アルトの視線が、さらに隣に移った。

リゼットは、記録板を構えていた。

ペンを、握っていた。

眼鏡の奥の目が、まっすぐにアルトを見ていた。

淡々とした顔だった。


「リゼット、今日も脇がいい」


ペンが、記録板の上で、がりっと音を立てた。


「対照群、毎朝、洗面台の前で悩んでるの、知ってる。悩んだ結果、毎日、残してくれてる。ありがとう。三つ編みも、下手なのがいい。うなじのとこで跳ねてるのが、すごくいい」


リゼットの顔が、崩れた。

淡々とした顔が。

耳が、首筋が、頬が、一気に赤くなった。

それでも、ペンは止まらなかった。

震える手で、記録板に書き続けていた。


「……二十時、十一分」


声が、上ずっていた。


「対象の、発言……『脇が、いい』……」


ペンが、記録板の上を、がたがたと走った。


「……継続、記録、します」


最後に、アルトの視線が、ロッサに移った。

ロッサは、焚き火の前に、あぐらをかいていた。

にやにやと、笑っていた。


「ロッサ、担がれてるとき、実は一番幸せ」


アルトの口が、言った。


「肩の上、熱くて、汗の匂いがして、笑うと背中に響く。王都を出てから、毎日、担がれるの楽しみにしてた。歩けるけど、歩けないふりしたこと、二回ある」


ロッサは、笑っていた。

腹を抱えて、豪快に。


「知ってた」


「知ってたんだ」


「心臓、うるさかったからな」


ロッサだけが、少しも崩れていなかった。


アルトは、焚き火の前で、両手で顔を覆っていた。

覆った手の下で、口が、まだ動いていた。


「みんな、いい匂いがする。セラフィナは陽だまりのミルクで、クラウディアは革と花で、リゼットは日向の猫で、ロッサは土と草と焚き火。マルグリットは、香水の下に焼き菓子。全部、違う。全部、好き」


「……アルト、殿」


クラウディアが、絞り出すように言った。


「聞かなかったことにしてほしいって言ったけど、無理だよね、これ。ごめん。でも、止まらない。ずっと、言いたかった。十八年、ずっと」


焚き火の周りで、四人が、それぞれのやり方で撃沈していた。

セラフィナは、鎖を握りしめて、俯いたまま震えていた。

クラウディアは、剣の柄を握ったまま、焚き火の一点を凝視していた。

リゼットは、耳まで真っ赤になりながら、記録板にペンを走らせ続けていた。

ロッサだけが、笑い転げていた。


夜が、更けていった。

アルトの口は、止まらなかった。

焚き火の前で、天幕の前で、水を飲みに行った小川のほとりで。

目に映るもの、全部について。


「セラフィナ、祈ってるときの横顔、ずっと見てられる」


「クラウディア、見張りの交代のとき、一瞬だけ欠伸を我慢したの、見えた。かわいい」


「リゼット、記録板に書くとき、舌の先がちょっと出てる。気づいてないよね」


「ロッサ、骨付き肉の食べ方が豪快すぎて、見てるだけでお腹空く」


四人は、撃沈しながらも、決戦の準備を進めていた。

クラウディアは、顔を赤くしたまま、明日の陣形を地図に書き込んだ。セラフィナは、耳まで赤くしたまま、聖具に祈りを込めた。リゼットは、震える手で、計算の確認を三回繰り返した。ロッサは、大剣を研いでいた。ときどき吹き出しながら。

アルトは、焚き火の前に座っていた。

もう、口を押さえていなかった。

押さえても、無駄だった。


「明日、勝ったら、みんなで美味しいもの食べたい」


「町の宿屋の、羊の煮込み。あれ、絶対美味しい」


「みんなが、無事だったら、それでいい」


その最後の一言だけは、四人とも、手を止めて聞いた。


夜が、明けた。

森の縁に、朝の光が差し込んでいた。

霧が、薄く白んでいた。

四人が、焚き火の燃えさしの前に立っていた。

装備は、整っていた。

ロッサの大剣。クラウディアの剣と鎧。セラフィナの聖具と鎖。リゼットの記録板と計測器。

全員、目の下に、薄い隈があった。

一晩中、本音を浴びせ続けられていた。

それでも、全員、背筋を伸ばして立っていた。

アルトが、天幕から出てきた。

四人を、見た。

朝の光の中で、四人の顔を、一人ずつ。


「みんな、綺麗だね」


アルトは、言った。

四人が、同時に、目を逸らした。

それから、クラウディアが、咳払いを一つした。


「……出発します」


声が、まだ少しだけ、裏返っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。