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第39話 ネーベルフルト


霧の町だった。

昼を過ぎても、霧が晴れなかった。

石造りの家々が、白い靄の中に、輪郭だけを浮かべている。通りの向こうの建物は、もう見えない。十歩先の街灯が、ぼんやりとした光の玉になって滲んでいた。

辺境の町、ネーベルフルト。

王都を出て、六日目の昼だった。

幌馬車が、町の大通りをゆっくりと進んでいた。

先頭に、騎馬のクラウディア。馬車の横を、大剣を背負ったロッサ。幌の中に、セラフィナとリゼット。

荷台の上に、毛布にくるまれたアルト。


(……静かだな)


アルトは、荷台の上から、霧の通りを見ていた。

人が、いなかった。

いや、いないわけではなかった。

軒先に、年配の女が一人、腰掛けていた。井戸の脇で、中年の女が二人、水を汲んでいた。

ただ、若い女が、一人もいなかった。

王都の大通りなら、真昼には、若い女たちが溢れている。荷を運び、店を開け、日除けの帽子をかぶって、笑いながら歩いている。

この町には、その姿が、どこにもなかった。


「……若い方が、おられませんね」


セラフィナが、幌の中から、小さく言った。


「家に、閉じこもっているのでしょう」


リゼットが、記録板から顔を上げずに答えた。


「十一人が消えた町です。残りの若い女性は、夜どころか、昼も外に出ないのだと推定します」


町長の屋敷は、大通りの突き当たりにあった。

町長は、五十がらみの、骨太の女性だった。腕も肩も太く、顔は日に焼けていた。この町では、町長も畑に出るのだという。

その町長が、一行を出迎えて、深々と頭を下げた。


「王都から、よくぞ」


声が、かすれていた。


「どうか、娘たちを」


町長の屋敷の広間で、話を聞いた。

最初に消えたのは、二か月前。羊飼いの娘だった。十九歳。夕方、羊を連れて森の縁から戻る途中で、消えた。


「羊だけが、戻ってきました」


二人目は、その十日後。宿屋の手伝いの娘。夜、裏の井戸に水を汲みに出て、戻らなかった。

三人目。四人目。五人目。

町長は、一人ずつ、名前と年齢と、消えた夜のことを話した。

十一人。

全員が、十代の終わりから二十代の半ばまでの、若い女だった。


「消える前に、何か」


リゼットが、記録板にペンを走らせながら聞いた。


「何か、言い残してはいませんでしたか」


町長は、少しだけ黙った。


「……三人目の娘が、母親に言ったそうです」


町長は、膝の上で、太い指を組んだ。


「『森で、素敵な殿方に呼ばれたの』と」


広間が、静かになった。


「殿方」


クラウディアが、低い声で繰り返した。


「森の中に、殿方が」


「おりません」


町長は、首を振った。


「この町の殿方は、全員、町の中におります。家族が、一人ずつ確かめました。森になど、行くはずもない。殿方は、女が怖いのですから」


「では、その素敵な殿方とは」


「分かりません」


町長の声が、震えていた。


「五人目の娘は、消える前の晩に、姉に言ったそうです。『あんなに綺麗な殿方、見たことない。守ってあげたくなるの』と」


「守って、あげたく」


「七人目の娘は、『泣いてるの。森の奥で、一人で泣いてるの。行ってあげなきゃ』と」


町長は、組んだ指に、力を込めた。


「娘たちは、皆、自分から森へ行ったのです。誰かに連れ去られたのではない。自分の足で、喜んで」


リゼットは、記録板の上で、ペンを走らせ続けていた。

十一人の名前。年齢。職業。消えた夜。月の形。言い残した言葉。

一行ずつ、正確に。

全部を書き終えると、彼女は顔を上げた。


「現場を、見せていただけますか」


その日の午後、一行は霧の中を歩いて回った。

羊飼いの娘が消えた、森の縁の牧草地。宿屋の裏の井戸。三人目の娘が住んでいた家。その窓辺。

どこも、霧が濃かった。

森は、町の北側に、壁のように広がっていた。

霧の向こうに、黒い木々の輪郭が、ずっと続いている。高い。古い。枝が絡み合って、昼でも、奥は夜のように暗い。

シュラーフヴァルト。

眠りの森、と町の人たちは呼んでいた。

リゼットは、森の縁の牧草地で、しゃがみ込んだ。

草の上に、何かを探していた。

それから、立ち上がって、森の方を見た。


「足跡が、ありません」


「足跡」


クラウディアが、聞き返した。


「羊飼いの娘は、ここから森に入ったはずです。けれど、草が、踏まれていない」


リゼットは、牧草地の草を、指でなぞった。


「何かに抱えられて運ばれたのでもない。草の上を、まるで浮いて歩いたように」


彼女は、記録板に書き留めた。


「……意識が、半分ない状態で、導かれたと推定します」



その夜、一行は町長の屋敷の客間に泊まった。

客間の机の上に、リゼットが記録板と、それから王都から持ってきた分厚い書物を広げていた。

魔導院の書庫から借り出した、魔物の記録だった。

アルトは、客間の寝台に腰掛けて、それを見ていた。

荷台の上で毛布にくるまっていた昼より、少しだけ体が動いた。第七号のおかげだった。


「魅了の魔物、ですか」


アルトが聞くと、リゼットは書物から顔を上げずに頷いた。


「当院の記録に、似た性質の魔物が、三件あります。いずれも、百年以上前のものですが」


彼女は、書物の頁を指でなぞった。


「人の心に、幻を見せる。見せるのは、その人が心の底で望むもの。望むものに呼ばれて、人は、自分から魔物の巣へ歩いていく」


「心の底で、望むもの」


「はい。今回の場合、消えたのは全員、若い女性です。そして、全員が『素敵な殿方』に呼ばれた」


リゼットは、眼鏡を押し上げた。


「この国の若い女性が、心の底で望む、素敵な殿方の幻を見せている、と推定します」


「では、どうすれば」


セラフィナが、聞いた。

客間の窓際で、簡易の祭壇に祈りを捧げ終えたところだった。


「魅了に、抗う方法は」


リゼットは、書物の別の頁を開いた。


「記録によれば、魅了への抵抗力は、精神の値に依存します」


「精神」


「意志の力。忍耐。己を律する力。精神の値が高い者ほど、幻に惑わされにくい」


リゼットは、記録板に、四人の名前と数字を書き出した。


「現在の、私たちの精神の値です」


セラフィナ、七十。クラウディア、七十五。リゼット、五十五。ロッサ、五十。


「記録の魔物と比べて、この値で抗えるかどうかは」


リゼットは、ペンを止めた。


「……微妙です」


客間が、静かになった。

窓の外で、霧が渦を巻いていた。

アルトは、寝台に腰掛けたまま、記録板の数字を見ていた。

精神。


(精神って)


天賦の儀の日。水晶板に浮かんだ数字。記録係のペンが止まって、セラフィナの声が止まった、あの数字。

八十五。

今は、九十を超えている。


(……俺の、一番高いやつだよな)


十八年間の、我慢の数字。

アルトは、自分の胸に手を当てかけて、やめた。

まだ、何がどう繋がるのか、分からなかった。


翌日。

町の大通りを、一行が歩いていた。

町長の案内で、残りの現場を見て回るためだった。

アルトも、歩いていた。第七号のおかげで、町の中を歩くくらいはできるようになっていた。

その姿を、町の女たちが見ていた。

家の窓から。戸口の陰から。年配の女も、中年の女も。

それから、昨日は一人も見なかった、若い女たちも。

カーテンの隙間から。二階の窓辺から。家に閉じこもっていたはずの娘たちが、通りを歩く一行を、いや、一行の真ん中を歩く男を、食い入るように見つめていた。


「……殿方だわ」


「王都の」


「なんて、綺麗な」


囁き声が、霧の中に広がっていった。

窓が、一つ、また一つと開いた。

戸口から、若い女が一人、ふらりと出てきた。

アルトの方へ、一歩、二歩。


(……っ)


その瞬間、アルトの右に、セラフィナが立った。

左に、クラウディアが立った。

前に、ロッサが立った。

後ろに、リゼットが立った。

四人が、自然に、アルトの周りを固めていた。

誰も、合図をしていなかった。誰も、言葉を交わしていなかった。

ただ、気がついたら、そうなっていた。

若い女が、足を止めた。

セラフィナの鎖。クラウディアの剣。ロッサの大剣。リゼットの、眼鏡越しの淡々とした目。

娘は、一歩下がって、戸口の中に戻っていった。


(……守られてる)


(すごく、守られてる)


(この世界の男って、こういう感じなのか)


その夜。

町長の屋敷の客間で、アルトは眠れずにいた。

窓の外は、霧だった。

昼よりも、濃かった。屋敷の中庭の木々さえ、見えなかった。窓の硝子に、白い靄が張りついているようだった。

隣の部屋では、四人が休んでいるはずだった。

見張りの若い騎士が、廊下を行き来する足音が、ときどき聞こえた。

アルトは、窓辺に立って、霧を見ていた。


(精神、か)


リゼットの記録板の数字が、頭から離れなかった。

七十。七十五。五十五。五十。

微妙です、と彼女は言った。


(……俺のは、九十を超えてる)


(それを、貸せたら)


精神を貸すと、口が軽くなる。比較実験の日に、それを知った。


「その髪型……」


あのときは、十貸しただけだった。


(全部、貸したら、どうなるんだ)


アルトは、窓の硝子に額をつけた。

冷たかった。

そのときだった。

霧の中から、声が聞こえた。

か細い声だった。

風の音のような。遠くで、誰かが泣いているような。

いや、違った。

呼んでいた。


「……おいで」


アルトは、窓から顔を上げた。

霧の向こう。町の北。

森の方角から。


「……おいで」


甘い声だった。

儚くて、頼りなくて、どこか怯えたような。聞いているだけで、胸の奥が、きゅっと締めつけられるような。

守ってあげたくなるような、声。

廊下の向こうで、扉が開く音がした。

一つ。二つ。三つ。四つ。

四人の部屋の、扉だった。



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