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第38話 抱かせろ


翌朝、野営地の真ん中の、折り畳みの卓の上に、日程表が広げてあった。

リゼットが作った、遠征中の供給の日程表。

横に日付。縦に、朝、昼、夜。二十一日分の升目に、細い字で名前が書き込まれている。

三日目、夜、「リース」。五日目、夜、「ヴァイス」。七日目、夜、「ハーシェル」。

それから、四日目、夜。

昨日までは、空欄だった升目に、字が書いてあった。

太い字だった。

炭で書いたらしい。升目からはみ出して、隣の升目まで侵食している。字の形も、ひどかった。ところどころ、字の向きが逆になっている。

それでも、読めた。


『ロッサ』


「……これは」


リゼットが、日程表を見下ろして、眼鏡を押し上げた。

朝の光の中で、他の三人も、卓の周りに集まっていた。

セラフィナ。クラウディア。それから、焚き火の燃えさしで指を黒くしたロッサ。


「あたしが書いた」


ロッサが、胸を張った。


「空いてたから」


「空いていたのは、休息日だからです」


リゼットが、淡々と言った。


「四日目の夜は、フェンネル殿の回復のための空欄で」


「じゃあ、回復のついでに」


「ついでに、とは」


「難しいことはいい」


ロッサは、卓に両手をついた。

それから、少し離れたところで、天幕の支柱にもたれていたアルトを見た。


「なあ」


ロッサは、まっすぐにアルトを見ていた。


「あたし、強くなりたいんだ」


朝の野営地に、その声がよく通った。


「王都で一番強いって言われてる。でも、一番強い魔物には、まだ届かない。もっと強い魔物を、狩りたい」


「……はい」


「お前の力を借りれば、もっと強くなれるんだろ。副長の剣筋、昨日の朝、見たぞ。別人みたいだった」


クラウディアが、わずかに眉を動かした。


「だから」


ロッサは、卓から手を離した。

アルトの方へ、まっすぐに歩いてきた。

一歩。二歩。

アルトの目の前で、止まった。

見下ろしていた。頭一つ分、高いところから。

土と、焚き火と、汗の匂い。


「難しいことはいい」


ロッサは、言った。


「抱かせろ。強くなるから」


野営地が、静まり返った。

見張りに立っていた若い騎士が、草地の端で、槍を取り落とした。

セラフィナの鎖が、鳴らなかった。

クラウディアが、腰の剣の柄に手をかけかけて、やめた。

リゼットのペンが、記録板の上で止まった。

アルトは、天幕の支柱にもたれたまま、ロッサを見上げていた。

いつもの台詞を、探した。

建前を。

「国のためなら」とか。「この身を捧げます」とか。十八年間、何百回と使ってきた、この国の男らしい言葉を。

震え声で、目を伏せて。嫌々ながら、という顔で。

アルトは、口を開いた。

閉じた。

ロッサの目を、見ていた。

金茶色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。

からかっている目ではなかった。試している目でもなかった。

ギルドで初めて会ったときと、同じ目だった。

見たままを言う目。思ったままを言う目。


(……この人の前で)


アルトは、思った。


(建前、意味ないな)


この人には、裏がない。計算もない。駆け引きもない。

欲しいものを、欲しいと言う。強くなりたいから、抱かせろと言う。

その人の前で、嫌々のふりをしたところで。

全部、顔に書いてある、と言われるだけだった。


(……初めてだ)


(建前を、演じなくていい人)


アルトは、支柱から背を離した。

まっすぐに、立った。

ロッサの目を、見上げた。

それから、何も言わずに、頷いた。


ロッサが、にかっと笑った。


「よし」


それだけだった。

彼女は、くるりと振り返って、卓の方へ戻っていった。

日程表の、四日目の夜の升目を、炭のついた指でとんとんと叩いた。


「決まりな」


三人が、それを見ていた。

セラフィナは、しばらく黙っていた。

それから、胸の前の鎖を、一本、ぎゅっと締め直した。

いつもより、少しだけきつく。

何も言わなかった。ただ、空色の目で、アルトを一度だけ見た。

困ったような、少しだけ寂しいような目だった。

クラウディアは、真顔だった。

卓の上の、野営地の配置図を引き寄せた。天幕の位置と、見張りの位置を、ペンで書き直し始めた。


「……今夜は、見張りの位置を変更します」


彼女は、淡々と言った。


「フェンネル殿の天幕から、離れた位置に」


若い騎士が、草地の端で、槍を拾い上げながら顔を赤くした。

リゼットは、記録板にペンを走らせていた。

一行ずつ。正確に。秒まで。


「八時十二分。冒険者ロッサ・グレイヴ、契約を申し出る。申し出の文言」


ペンが、一瞬止まった。

それから、続けた。


「……『抱かせろ。強くなるから』。対象、無言で同意」


彼女は、記録板から顔を上げた。

眼鏡越しに、アルトを見た。


「……対象が、建前を述べずに同意したのは、記録上、初めてです」


それから、少しだけ間を置いて、付け加えた。


「なお、七都商盟の議長殿は、五枠目について、帰還後に改めてご提案を、と仰っていました」


「知らん」


ロッサは、日程表の升目を指で叩いたまま言った。


「早い者勝ちだろ」


その夜。

四日目の夜。

野営地の、アルトの小天幕。

クラウディアは、見張りの位置を、天幕から一番遠い草地の端に移していた。セラフィナは、いつも通り、天幕の周りに結界を張っていた。二重ではなく、一重だった。リゼットは、天幕の中に、計測器を置かなかった。

天幕の入口の布が、めくれた。

ロッサが、入ってきた。

大剣は、背負っていなかった。

革の上衣を、脱いでいた。袖のない薄い肌着だけ。日焼けした腕。傷痕が、あちこちに白く走っている。

天幕の中に、土と焚き火と汗の匂いが満ちた。

ロッサは、アルトの前にどかりと座った。

あぐらをかいて。


「なあ」


「……はい」


「お前、最初、なんか言おうとしてたろ。朝」


アルトは、少し考えた。


「……国のためなら、とか。この身を捧げます、とか」


ロッサが、吹き出した。

腹を抱えて、豪快に笑った。


「なんだそれ」


「この国の男は、そう言うものなので」


「お前、全然そういう顔してないぞ」


「……そうですね」


アルトも、少しだけ笑った。

建前を、言わなかった。

ロッサの前では、言う必要がなかった。


(……楽だ)


(この人の前だと、楽だ)


十八年間、ずっと演じてきた。

家族の前でも。友人の前でも。神官の前でも。騎士の前でも。研究員の前でも。商人の前でも。

貞淑な男を。嫌々ながらの男を。

それが、この人の前では、要らなかった。


「ロッサ殿」


「ん」


「……ありがとう」


ロッサは、笑うのをやめた。

金茶色の目が、アルトを見ていた。

それから、にかっと笑った。


「礼を言うのは、あたしの方だろ。強くなるのは、あたしなんだから」


ロッサが、手を伸ばした。

大きな手だった。剣だこのある、硬い手。

その手が、アルトの頬に触れた。

荒っぽいくせに、驚くほど、そっと。


翌朝。

ロッサは、天幕の外で、伸びをしていた。

両腕を、空に向かって、思いきり。背中が、ぱきぱきと鳴った。

朝日を浴びて、日焼けした肌が光っていた。


「あー」


彼女は、空を見上げて、大きく息を吐いた。

それから、天幕の方を振り返った。

入口の布の隙間から、アルトが顔を出していた。

寝台代わりの毛布の上で、半分だけ体を起こして。起き上がれずにいた。

ロッサは、その顔を見て、にかっと笑った。


「強い男って、いいな!」


晴れやかな声だった。

野営地中に、響き渡った。

悩みも、後悔も、照れも、何一つない声だった。

見張りの若い騎士が、草地の端で、また槍を取り落とした。

クラウディアが、焚き火の前で、無言で朝食の粥をかき混ぜていた。少しだけ、かき混ぜる速さが上がった。

セラフィナが、祭壇の前で、朝の祈りを捧げていた。祈りの言葉が、一行だけ飛んだ。

リゼットが、記録板にペンを走らせていた。


「六時四分。ロッサ・グレイヴ、天幕より退出。第一声、『強い男って、いいな』」


ペンが、止まった。


「……『強い男』の定義について、追加の聞き取りを要す」


アルトは、天幕の中で、毛布の上に仰向けになっていた。

天幕の布越しに、朝の光が透けていた。

ロッサの声が、まだ耳の奥に残っていた。

強い男って、いいな。


(強い男)


この国で、男が「強い」と言われることは、まずない。

男は弱い。女は強い。それが、この世界の常識だった。

王都で一番強い女が。大剣で魔物を叩き斬る、S級の冒険者が。

自分のことを、強い男と。


(……そうか)


アルトは、天井の布を見つめていた。

セラフィナ。クラウディア。リゼット。マルグリット。ロッサ。

五人。

神官も、騎士も、研究員も、商人も、冒険者も。

寝所では、誰一人として、自分に勝てなかった。

前世の感覚と、第七号と、十八年分の我慢。それが、この世界の女たちに対して、どれだけのものだったのか。

ようやく、分かった気がした。


(この世界で)


アルトは、静かに思った。


(俺に勝てる女は、いない)


それは、慢心だった。

本人は、まだ、それに気づいていなかった。


水晶板の携帯版が、天幕の隅で淡く光っていた。

リゼットが、昨夜のうちに、そっと置いていったものだった。

計測器は置かなかった。ただ、鑑定の板だけは、置いていった。


【ステータス貸与】

契約成立:ロッサ・グレイヴ

契約5/5


五つの枠が、全部、埋まっていた。

アルトは、その表示を見て、それから自分の手のひらを見た。

握ってみる。

力が、ほとんど入らなかった。

貸せる量の上限まで、五人に貸し出していた。手元に残っているのは、素の力の、四割だけ。

その四割から、さらに疲労を引いた分しか、今の体にはなかった。


(……体、空っぽに近いな)


その日の昼。

一行は、街道を外れて、森の縁の道を進んでいた。

ネーベルフルトまで、あと一日。

道の真ん中に、大木が倒れていた。

何十年も前に倒れたらしい、苔むした巨木。幹の太さは、大人が三人で手を回しても届かないほどだった。

馬車が、通れなかった。


「迂回しましょう」


クラウディアが、地図を確かめた。


「半日の遠回りになりますが」


「いや」


ロッサが、背中の大剣に手をかけた。


「斬る」


「斬る、とは」


「斬るんだよ」


ロッサは、大剣を抜いた。

身の丈ほどの刃が、昼の陽射しを受けて光った。

彼女は、倒木の前に立った。

両手で柄を握る。

腰を落とす。

それから、ほんの一瞬だけ、首を傾げた。

自分の腕を見下ろしていた。握った手のひらを、確かめるように。


「……軽い」


彼女は、小さく呟いた。


「大剣が、軽い」


次の瞬間、大剣が振り下ろされた。

音が、遅れて届いた。

倒木が、真っ二つに割れていた。

切り口は、鏡のように滑らかだった。

一撃だった。

野営道具を積んだ馬車の御者台で、若い騎士が口を開けて固まっていた。

クラウディアが、無言で切り口を見つめていた。

セラフィナとリゼットが、幌の中から顔を出していた。

ロッサは、大剣を肩に担いで、振り返った。

晴れやかな顔だった。


「な?」


彼女は、馬車の荷台の上に座っているアルトを見た。

荷物のように、毛布にくるまれて。体に力が入らないので、もう歩くことも、担がれることも諦めて、荷台に積まれていた。


「強くなったろ」


アルトは、荷台の上で、穏やかに頷いた。


(強くなりすぎでは)



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