↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/50

第40話 理想の男


廊下に出ると、四人がもう揃っていた。

クラウディアは、騎士服の上着を羽織っただけの姿で、抜き身の剣を手にしていた。黒髪は、解いたままだった。束ねる暇がなかったのだろう。

セラフィナは、法衣の上に、五本の鎖を巻き終えたところだった。縛られた手で、胸の前に聖具を握っていた。

リゼットは、寝間着の上に白衣を羽織って、記録板を抱えていた。三つ編みが、半分ほどけていた。

ロッサは、肌着一枚で、大剣を肩に担いでいた。裸足だった。


「聞こえたか」


ロッサが、短く聞いた。


「……聞こえました」


アルトが答えた。


「おいで、と」


四人が、顔を見合わせた。


「私たちにも、聞こえました」


セラフィナが、静かに言った。


「……とても、悲しい声でした」


彼女は、聖具を握る手に、力を込めていた。

その指先が、わずかに震えていた。


声は、まだ続いていた。

屋敷の壁越しに。窓の硝子越しに。霧の中から、途切れ途切れに。


「……おいで」


「……ひとりは、さびしいの」


「……だれか」


クラウディアの剣先が、ほんのわずかに下がった。

すぐに、持ち上げ直した。


「……行きます」


クラウディアが、言った。


「声の主を、確かめる」


「町の娘たちが、出てしまうかもしれません」


リゼットが、記録板を開きながら言った。


「声に呼ばれて。今夜のうちに、十二人目が」


「なら、なおさらだ」


ロッサが、大剣を担ぎ直した。


「先に行って、ぶっ叩く」


「フェンネル殿は、ここに」


クラウディアが、アルトを見た。


「危険です。若い騎士を、護衛に残します」


アルトは、少し考えた。

それから、首を振った。


「……一緒に、行きます」


「フェンネル殿」


「皆さんへの貸与は、離れていても続きます。ただ」


アルトは、四人を見回した。


「声を聞いて、皆さんの様子が、少し変でした。私だけが、平気でした」


四人が、黙った。


「理由は、分かりません。でも、平気な者が一人いた方が、いいのでは」


クラウディアが、何か言いかけた。

ロッサが、先に言った。


「いいじゃねえか。連れてけ」


「ロッサ殿」


「あたしが担ぐ。それなら、文句ねえだろ」


霧の町を、一行は北へ歩いた。

ロッサの肩の上で、アルトは霧を見ていた。

通りの家々は、どこも窓が閉まっていた。ただ、いくつかの窓の向こうで、人影が動いていた。窓辺に立って、北の方を見つめている影。

娘たちだった。

声に、呼ばれているのだった。


「急ぎましょう」


クラウディアが、足を速めた。

町の北の外れ。牧草地の向こうに、森の入口があった。

シュラーフヴァルト。

霧の中に、黒い木々が、壁のように並んでいた。

声は、そこから聞こえていた。


「……おいで」


一行は、牧草地の真ん中で足を止めた。

森の入口の、一番手前の木の下に。

誰かが、立っていた。


青年だった。

少年と言った方がよかったかもしれない。

十六か、十七か。細い体。白い肌。月の光を透かしたような、淡い色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れていた。

顔は、驚くほど整っていた。

整っていて、儚かった。

大きな目が、潤んでいた。怯えたように、こちらを見ていた。今にも泣き出しそうな顔で。

薄い衣を、一枚だけ纏っていた。裸足だった。霧に濡れた草の上に、細い足首が見えていた。

震えていた。

寒さにか、怯えにか。細い肩を、自分の腕で抱きしめるようにして。


「……たすけて」


少年が、言った。

か細い声だった。


「……ひとりは、こわいの」



セラフィナが、一歩、前に出た。


「……あ」


小さな声が、彼女の唇から漏れていた。

空色の目が、少年を見つめていた。潤んでいた。


「……あんなに、震えて」


聖具を握る手が、緩んでいた。

鎖が、しゃら、と鳴った。

クラウディアの剣先が、下がっていた。

さっきは、すぐに持ち上げ直した。今度は、持ち上がらなかった。

灰色の目が、少年を見ていた。


「……守らなければ」


彼女は、小さく呟いた。

騎士の声だった。

守るべきものを前にした、騎士の声。

リゼットのペンが、止まっていた。

記録板の上で。三つ編みのほどけかけた髪が、霧の中で揺れていた。

眼鏡の奥の目が、少年を見ていた。

まばたきを、していなかった。


「……記録、を」


彼女の唇が、かすかに動いた。

それきり、ペンは動かなかった。


三人が、少年の方へ、一歩、また一歩と、引き寄せられていた。

ゆっくりと。

自分でも気づかないうちに。

アルトは、ロッサの肩の上から、それを見ていた。


(……まずい)


三人の目が、同じだった。

濡れて、熱を帯びて、少年だけを見ていた。

守ってあげたい。抱きしめてあげたい。この子を、一人にしておけない。

そういう目だった。

この国の女が、心の底で望む、男。

色白で、儚くて、怯えた目をした。女が守ってあげなければ、すぐにでも壊れてしまいそうな。

それが、そこに立っていた。


(あれが、理想なのか)


アルトは、少年を見た。

細い腕。浮き出た鎖骨。透けるように白い肌。骨と皮ばかりの足首。


(あれが、この世界の女の人の、理想の男)


「……なんだ、あのヒョロいの」


アルトの下から、声がした。

ロッサだった。

肩にアルトを担いだまま、森の入口の少年を見ていた。

金茶色の目が、心底つまらなそうだった。


「あんなの、一発で折れるぞ」


ロッサは、鼻で笑った。


「抱いたら、骨が鳴るだろ。あんなの、守るもんじゃなくて、運ぶもんだ」


三人の足が、止まった。

ほんの一瞬だけ。

アルトは、それを見逃さなかった。

ロッサの声が、三人に届いていた。少年の声の隙間に、割り込んでいた。

アルトは、少年を見た。

月の光を透かした髪。潤んだ目。細い体。怯えて、震えて、今にも泣き出しそうな顔。

アルトの口が、勝手に動いた。

崩れるような気持ちではなかった。

もっと、素朴な気持ちだった。

前世で、部活帰りの痩せた後輩を見たときと、同じ気持ちだった。


「いや、もっと飯食えよ」


牧草地が、静まり返った。

少年が、目を見開いた。

潤んでいた目が、一瞬、乾いた。

怯えていた顔が、一瞬、何も映さなくなった。

まるで、仮面が、ずれたように。

それから、少年の輪郭が、揺らいだ。

霧の中で、細い体が、ゆらゆらと波打った。月の光を透かした髪が、霧に溶けていく。


「……あ」


少年が、何か言いかけた。

声は、もう、声になっていなかった。

ただの、風の音だった。

少年の姿が、霧の中に消えた。

最初から、そこに何もいなかったように。


セラフィナが、膝から崩れ落ちた。

鎖が、草の上でじゃらりと鳴った。


「……私、今」


彼女は、自分の手を見下ろしていた。

聖具を、取り落としていた。


「今、何を」


クラウディアが、剣を握り直した。

指の関節が、白くなるほど強く。


「……一歩、踏み出していました」


声が、低かった。


「騎士が、敵を前に、剣を下げて」


彼女は、唇を噛んでいた。

リゼットは、記録板を見下ろしていた。

ペンを、握り直していた。

記録板の上には、何も書かれていなかった。少年が現れてから、消えるまでの間の記録が、一行もなかった。


「……空白」


リゼットは、淡々と言った。

声が、少しだけ震えていた。


「記録が、空白です」


ロッサが、アルトを肩から下ろした。

草の上に、そっと。

それから、三人の方を見た。


「お前ら、大丈夫か」


ぶっきらぼうな声だった。

それでも、心配していた。


町長の屋敷の客間に戻ったのは、夜明け前だった。

霧は、まだ晴れていなかった。ただ、もう声は聞こえなかった。

リゼットが、机の上に記録板を広げていた。

空白の記録の、前と後ろ。

少年が現れる前の、最後の記録。少年が消えた後の、最初の記録。

その間を、思い出しながら、一行ずつ埋めていた。


「……幻影、です」


リゼットが、顔を上げた。


「本体ではありません。森の奥にいる何かが、自分の姿を、森の入口に映して見せていた」


「幻影」


クラウディアが、窓辺で腕を組んでいた。


「では、本体は」


「森の奥です。幻影は、本体の力の一部にすぎません」


リゼットは、記録板の別の頁をめくった。


「それから、一つ、気になることがあります」


「何だ」


「リース神官」


セラフィナが、顔を上げた。


「あの少年の髪は、何色でしたか」


「……金色、でした」


セラフィナは、少し考えてから答えた。


「柔らかい、淡い金色。……祈りを捧げるときのような、手の組み方をしていました」


「ヴァイス副長」


「……黒、だった」


クラウディアが、眉をひそめた。


「黒い、短い髪。それから、膝をついていた。こちらを見上げて」


リゼットは、記録板に書き留めた。


「私が見た少年は、灰銀の髪でした。手に、本を持っていました」


部屋が、静かになった。


「同じ少年を、見ていたはずです」


リゼットは、淡々と言った。


「けれど、細部が、見る者によって違う。……おそらく、幻影は、見る者の心の底にあるものを、少しずつ映して、形を変えている」


「ロッサ殿は」


アルトが聞いた。

ロッサは、窓際の床に、あぐらをかいていた。


「ヒョロいのだった」


「髪の色は」


「覚えてねえ。ヒョロいのしか覚えてねえ」


リゼットは、それも書き留めた。


「……それから、フェンネル殿は」


「月の光みたいな、淡い髪でした」


アルトは、答えた。


「細くて、白くて。……もっと食べた方がいい感じの」


リゼットのペンが、一瞬止まった。

それから、また動いた。


「魅了は、精神で抗えます」


リゼットが、記録板を閉じた。


「今夜、私たちは、抗えませんでした。ロッサ殿の声と、フェンネル殿の一言がなければ、三人とも、森へ歩いていたと思います」

誰も、反論しなかった。


「ロッサ殿だけが、惑わされなかった理由は」


リゼットは、ロッサを見た。


「……推定ですが、あの少年は、ロッサ殿の好みではなかったのだと」


「好みじゃねえな。全然」


ロッサが、あっさりと言った。


「ただ、本体は、もっと強い幻を見せてくるはずです」


リゼットは、淡々と続けた。


「幻影ですら、これです。本体の最大の魅了が、どれほどのものか。……ロッサ殿の好みに合わせた幻を、見せてくるかもしれない」


ロッサの眉が、わずかに動いた。


「そうなれば、四人の精神では、足りません」


客間が、静まり返った。

窓の外で、霧が、ゆっくりと白み始めていた。


「……では、どうする」


クラウディアが、低い声で聞いた。

リゼットは、記録板を胸に抱えた。

少しだけ、考えた。

それから、顔を上げた。


「まず、本体の位置と、性質を確かめる必要があります。データが、足りません」


彼女は、眼鏡を押し上げた。


「明日、偵察を兼ねた、第一戦を」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。