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第35話 条項第十四条


七都商盟本部の最上階に、議長の私室があった。

広い部屋だった。

壁一面の書架に、帳簿がぎっしりと並んでいる。大きな窓の外には、夜の王都の灯りが広がっていた。

窓際に、机が一つ。

その机の上に、分厚い書類の束が置いてあった。

紐で綴じた羊皮紙。表紙に、マルグリットの几帳面な字で件名が書いてある。


『七都商盟とアルト・フェンネル卿との協力契約付属書:寝所に関する取り決め』

アルトは、扉の前に立ったまま、その表紙を見つめていた。


(寝所に関する、取り決め)


(契約書が、ある)


(寝所の)


付き添いのエルゼは、一階の応接室で待っていた。

「議長と、協力契約の締結を」と言ったら、姉は少し考えてから頷いた。それから、真顔で付け加えた。


「契約書は、ちゃんと読むのよ」


(読みます)


(たぶん、今夜は、一行残らず読まされます)


「お掛けください」


マルグリットが、机の向かいの椅子を示した。

彼女は、いつもの深緑の上衣を着ていた。

スーツでは、なかった。


(……少し、残念)


(いや、何を考えてるんだ)


アルトは椅子に座った。

マルグリットも、向かいに座った。

二人のあいだに、机と、分厚い契約書。


「本日は、協力契約の締結にお越しいただき、ありがとうございます」


マルグリットは、穏やかに言った。

商談用の、隙のない声だった。


「本契約は、本体と付属書の二部構成です。本体は、技能の貸与に関する条項。こちらは、当盟の法務担当と、魔導院の研究員の助言を得て作成しました」


「ハーシェル殿の」


「ええ。貸与の仕組みについては、あの方が一番正確ですので」


マルグリットは、本体の頁をめくった。


「技能の貸与は、七日で減衰が始まる。ですので、週に一度の更新が必要。貸与する技能は、算術と法学を基本とし、必要に応じて追加。……ここまでは、よろしいですか」


「はい」


「では、付属書に入ります」


マルグリットは、本体を脇に置いた。

付属書を、手元に引き寄せた。

その手が、ほんの少しだけ、止まった。


「第一条」


マルグリットが、読み上げ始めた。


「本付属書は、本契約に基づく技能の貸与の、発動条件の履行に関する取り決めを定める」


(発動条件の、履行)


(言い方)


「第二条。履行の日時は、双方の合意により定める。原則として、週に一度」


「……はい」


「第三条。履行の場所は、当盟の議長私室とする。ただし、双方の合意により変更できる」


マルグリットの声は、淡々としていた。

商談で条項を読み上げるときと、同じ調子だった。


「第四条。履行に要する時間は、二刻を上限とする」


(上限)


「第五条。履行の手順は」


マルグリットの声が、そこで一瞬止まった。

それから、続けた。


「……双方の合意により、事前に定める」


(事前に)


「第六条。履行の前に、双方は体調を確認し、不調がある場合は延期を申し出ることができる」


「第七条。履行の際の着衣については」


マルグリットの指が、羊皮紙の上で止まった。

一呼吸。


「……別紙に定める」


(別紙)


(別紙があるんだ)


(何が書いてあるんだ、別紙)



条項は、続いた。

第八条。第九条。第十条。

事後の扱い。体調の確認。次回の日時の調整。秘密の保持。商盟の内部での記録の扱い。他の契約者との日程の調整。

マルグリットは、一条ずつ、正確に読み上げていった。

ただ、少しずつ、声が変わっていた。

最初は、商談の声だった。

第八条のあたりで、ほんの少しだけ低くなった。第十条のあたりで、言葉と言葉のあいだに、短い間が入るようになった。

アルトは、気づいていた。

彼女の指先が、羊皮紙の上で、かすかに震えていることに。


「第十一条」


マルグリットが、顔を上げた。


「……この条項は、特に重要ですので」


彼女は、立ち上がった。

付属書を手に持ったまま、机を回り込んできた。

アルトの椅子の横に、立つ。

それから、身を屈めた。

彼女の唇が、アルトの耳元に寄った。


「第十一条」


囁き声だった。


「履行の最中において、いずれかの当事者が中断を求めた場合、他方はただちにこれに応じるものとする」


吐息が、耳の縁をくすぐった。

羊皮紙とインクの匂い。高価な香水の匂い。

その奥から、焼き菓子の匂いが、ふわりと立ち上ってきた。


(……っ)


「第十二条」


マルグリットは、身を屈めたまま、続けた。

耳元で。


「本付属書に定める事項は、双方の書面による合意によってのみ、変更することができる」


(っ、っ)


彼女の声が、少しずつ、掠れていった。


「第十三条」


アルトの肩に、彼女の指先が触れていた。

羊皮紙を持っていない方の手。インクの染みのついた、細い指。


「本付属書に定めのない事項については」


彼女の声が、止まった。

耳元で、浅い呼吸が聞こえていた。

焼き菓子の匂いが、濃くなっていた。香水の匂いを、押しのけるように。

体温が、上がっているのだった。


「……定めの、ない、事項については」


(耳元で)


(条項)


(耳元で、条項を、読まれてる)


(この人、条項を読むふりをして、ずっと、俺の耳に)


(あ、だめだ)


(条項って、こんなにいやらしいものだったっけ)


「……双方、誠実に、協議して、定める」


マルグリットは、最後の一語を、ほとんど息だけで言った。

それから、付属書を机の上に置いた。

置いた手が、震えていた。


「以上、です」


アルトは、椅子の上で、穏やかな顔をしていた。


「……ご説明、ありがとうございました」


マルグリットは、身を起こさなかった。

アルトの肩に手を置いたまま、耳元に顔を寄せたまま。


「……署名を、いただけますか」


「付属書の、ですか」


「本体と、付属書の、両方に」


アルトは、ペンを取った。

本体の末尾に、署名した。付属書の末尾に、署名した。

マルグリットが、それを見ていた。

すぐ横から。

署名が終わると、彼女は自分の署名を、その下に書き入れた。

いつもの、几帳面な字だった。

ただ、最後の一画が、ほんの少しだけ、揺れていた。


「では」


マルグリットは、ペンを置いた。

アルトを見た。

深緑の目が、燭台の灯りを映して、揺れていた。


「第二条に基づき、履行の日時を、定めます」


「……はい」


「本日、ただいまより」


アルトは、少しだけ間を置いた。


「……双方の合意により」


「双方の合意により」


マルグリットは、燭台の灯りに手を伸ばした。


翌朝。

議長の私室の窓から、朝の光が差し込んでいた。

アルトは、寝台の上で、天井を見ていた。

体が、重かった。

ただ、以前ほどではなかった。壁を越えて、体の奥の何かが変わった気がしていた。倍率が上がったぶん、同じ量を貸しても、相手に届く力が大きい。その代わり、貸すものが増えた。


(技能貸与……)


(算術と、法学を、貸した)


(……どういう感覚なんだろう、貸された方は)


窓際の机に、マルグリットが座っていた。

ペンを、握っていた。

付属書を、開いていた。

その手が、震えていた。

アルトは、首だけを動かして、彼女を見た。

赤褐色の髪が、ほどけていた。いつもきっちりとまとめている髪が、肩の上に落ちて、乱れていた。

深緑の上衣は、羽織っているだけだった。

彼女は、付属書の最後の頁に、何かを書き足していた。

ペンが、何度も止まった。止まって、また動いて、また止まった。


「……マルグリット殿」


アルトが声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。

振り返った。

顔が、真っ赤だった。

耳も、首筋も、頬も。


「お、おはようございます」


声が、上ずっていた。

商談の声では、なかった。


「……何を、書いておられるのですか」


マルグリットは、付属書を胸に抱いた。

それから、深呼吸を一つした。

もう一つ。


「昨夜」


彼女は、言った。


「付属書に、定めのない事態が」


「……はい」


「定めのない事態が、たいへん、多く、発生いたしました」


アルトは、黙っていた。


「第五条の、事前に定めた手順は」


彼女は、付属書の頁を見下ろした。


「……三行目で、守られなくなりました」


「三行目」


「第四条の、二刻の上限は」


「……」


「……守られませんでした」


マルグリットの耳が、さらに赤くなった。


「第十一条の、中断を求める権利は、行使されませんでした。どちらからも」


「……どちらからも」


「ですので」


彼女は、付属書を机の上に置き直した。

ペンを、握り直した。

震える手で、最後の頁に向かった。


「条項第十四条」


マルグリットは、言った。

帳簿の上で、商談を決めるときの声ではなかった。

もっと、ずっと、切羽詰まった声だった。


「……追加、させてください」


顔を上げる。

深緑の目が、潤んでいた。


「今すぐに」


その週のうちに、七都商盟は動き始めた。

マルグリットは、算術と法学の技能を借りていた。

借りた技能は、彼女の頭の中で、彼女自身の知恵と混ざり合った。

手形の書式。署名の照合の手順。七つの都市の支店で、紙を金貨に換えるときの割引の率。

相互保険の積立の割合。海難の損失の査定の方法。積立金の運用。

度量衡の換算表。貨幣の純度の基準。

それらを支える、商法の条文。

彼女は、それを一晩で、帳簿に書き起こした。

翌朝、会頭たちを集めた。

ベルナデットも、その中にいた。


「港湾都市から、始めます」


マルグリットは、相互保険の草案を、ベルナデットの前に置いた。

ベルナデットは、それを読んだ。

一頁。二頁。三頁。

それから、顔を上げた。


「……これを、一晩で」


「ええ」


ベルナデットは、草案を見下ろした。

しばらく、黙っていた。

それから、腕を組んだ。


「港湾都市の商会の会合を、今週末に開くわ」


縁談審議会の事務室。

ペトラ・ノイマンの机の端に、書類の山があった。

一段目。二段目。

その上に、新しい束が置かれた。


「七都商盟から、正式な契約報告です」


若い事務官が言った。


「フェンネル家の案件。四つ目の契約が成立したとのことです。添付で、契約書の写しが」


ペトラは、束の一番上の頁をめくった。


『七都商盟とアルト・フェンネル卿との協力契約』


付属書は、ついていなかった。


「……四つ目」


「はい。神殿、騎士団、魔導院、それから七都商盟」


「縁談の申込みは」


「今週だけで、六十通。壁を越えたという話が、もう広まっているようで」


ペトラは、束を山の上に乗せた。

書類の山が、三段目の高さに届いた。

彼女は、眼鏡を押し上げた。


「前例は」


「……ございません」


「でしょうね」


冒険者ギルド王都本部。

一階の酒場の、依頼の掲示板に、新しい一枚が貼り出された。

ギルド長のハンナ・クロイツが、自ら貼ったものだった。

赤い縁取りの羊皮紙。指名依頼の印だった。


『辺境の町ネーベルフルトにて、女性の失踪が相次ぐ。すでに十一名。いずれも、夜のうちに森へ。原因の調査と、討伐を求む。指名:ロッサ・グレイヴ』

酒場の奥の卓で、赤毛の女が、骨付き肉を齧っていた。

依頼書が貼られる音に、顔を上げた。

金茶色の目が、羊皮紙の文字を読んだ。

ロッサは、骨を皿に置いた。

指についた脂を、ぺろりと舐めた。

それから、にかっと笑った。


「……辺境、か」



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