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第34話 三百


七都商盟の総会は、年に二度開かれる。

夏と、冬。七つの都市の商会の会頭たちが、王都の本部の大会議室に集まる。

その夏の総会の、三日目の午後だった。

議題は、ほとんど片付いていた。

街道の補修の負担割合。港湾の使用料の改定。地方の市場の開催日の調整。どれも、例年通りの結論で決まった。

議長のマルグリットが、議事録を閉じかけたときだった。


「議長。一つ、よろしいかしら」


一番端の席から、声がした。

年配の女性だった。鋭い目つき。腕を組んで、議長を見据えている。

港湾都市の会頭、ベルナデット・デュマ。


「……どうぞ、デュマ会頭」


マルグリットは、穏やかに答えた。

ベルナデットは、腕をほどいた。

膝の上から、一冊の帳簿を取り出した。

革装の帳簿だった。

表紙に、七都商盟の紋章。その下に、議長の私的な印章。

ベルナデットは、それを高く掲げた。


大会議室が、ざわついた。


「これは、議長の帳簿の写しです」


ベルナデットの声は、よく通った。


「議長が、この二か月、商盟の金をどこに使ってきたか。その記録です」


マルグリットの表情は、変わらなかった。

ただ、帳簿を持つ指先が、わずかに止まった。


「どこで、それを」


「どこで手に入れたかは、問題ではありません」


ベルナデットは、帳簿を開いた。


「問題は、中身です」


彼女は、頁を読み上げ始めた。


「家庭教師への支払い。王立学院の元教授、法廷の元書記、学院の講師。三名、週五日。訓練の費用。騎士団の訓練に必要な装備、食事、医師」


会頭たちが、顔を見合わせた。


「受益者は、すべて同じです。準男爵家の子息、アルト・フェンネル」


ベルナデットは、帳簿を卓の上に置いた。


「議長は、商盟の金で、一人の若い男を育てています」


「それは、総会で承認を得た出資です」


マルグリットが、静かに言った。


「フェンネル卿の契約枠を、当盟が確保するための」


「承認したのは、出資の総額です。使い道の細目までは、承認していません」


ベルナデットは、帳簿の別の頁を開いた。


「それに、この項目は、商盟の出資ではありませんね」


彼女は、一行を指で叩いた。


「仕立て部への発注。濃紺毛織、上下揃い、細身仕立て。白麻の襟付き下着。黒絹の、極薄の脚覆い。黒革の、高踵靴」


会議室が、静まり返った。


「発注者、議長。……私費」


ベルナデットは、顔を上げた。


「議長。この服は、何のためのものですか」


マルグリットは、黙っていた。


「商盟の総会で、四つ目の枠は当盟が取る、と仰いましたね。当盟が、と」


ベルナデットの目が、細くなった。


「本当に、当盟が、ですか。それとも、議長ご自身が、ですか」



会頭たちのざわめきが、大きくなった。


「議長の私的な投資に、商盟の金を」

「出資の凍結を」

「少なくとも、使い道の監査を」


ベルナデットは、腕を組み直した。


「議長の育成計画への出資を、凍結することを提案します。監査が終わるまで」


マルグリットは、まだ黙っていた。

ゆっくりと、自分の帳簿を開いた。

本物の、帳簿だった。

一冊目。二冊目。三冊目。

三冊を、卓の上に並べた。

角を、きっちりと揃えて。

それから、顔を上げた。


「デュマ会頭」


「何かしら」


「その写しには、最後の頁が入っていますか」


ベルナデットの眉が、わずかに動いた。


「最後の、頁」


「ええ。仕立て部への発注の、三頁後です」


ベルナデットは、写しの帳簿をめくった。

仕立て部への発注。その後に、家庭教師への支払いの続き。それから。

白紙だった。

写しは、そこで終わっていた。


「……白紙ですね」


「そうでしょうね」


マルグリットは、穏やかに言った。


「最後の頁は、昨夜書きましたので」


マルグリットは、三冊目の帳簿の、最後の頁を開いた。

会議室の全員に見えるように、卓の中央に向けた。

頁には、表が書いてあった。


『フェンネル卿の技能を借りた場合の、当盟の制度改革試算』


「フェンネル卿は、異国の書物から、いくつかの商取引の仕組みをご存じでした」


マルグリットは、表の一行目を指さした。


「一つ目。手形」


会頭たちが、身を乗り出した。


「代金を金貨で運ぶ代わりに、署名した紙を渡す。紙を、商盟の別の支店で金貨に換える。金貨は、動かない。紙だけが、動く」


「紙が……」


「街道で盗賊に奪われる代金。年間、当盟全体で、銀貨にして二千四百枚。手形が使えれば、そのほとんどが、なくなります」


港湾都市の隣の都市の会頭が、息を呑んだ。


「二つ目。相互保険」


マルグリットは、二行目を指さした。


「船が沈んだ損を、一つの商会が背負うのではなく、多くの商会で積み立てて、割って負担する」


ベルナデットの指先が、写しの帳簿の上で止まった。

港湾都市。船の都市。


「港湾都市の商会が、海難で失う積荷。年間、銀貨にして三千八百枚。うち、一つの商会が潰れるほどの大損が、毎年二件か三件」


マルグリットは、ベルナデットを見た。


「デュマ会頭の商会も、五年前に、一隻」


ベルナデットの顔が、わずかに強張った。


「三つ目。度量衡と貨幣の換算の統一。四つ目。共同出資の組合。五つ目、それらを支える、商法の整備」


マルグリットは、表の最後の行を指さした。


「五つを合わせた、当盟全体の利益の試算。年間、銀貨にして、一万二千枚」


会議室が、静まり返った。

一万二千。

七都商盟の、一年の総利益の、四割に近い数字だった。


「これを実行するには」


マルグリットは、帳簿を閉じた。


「仕組みを作り、動かせる者が要ります。算術と、法学と、商取引の知恵を、持っている者が」


「……それが、フェンネル卿の」


「技能です」


マルグリットは、頷いた。


「フェンネル卿のスキルは、壁を越えれば、技能を貸せるようになる可能性がある。魔導院の研究と、当盟の記録で、そう推定しています」


「推定」


ベルナデットが、低い声で言った。


「推定に、商盟の金を」


「商人は、まだ誰も見ていない先に、賭けるものです」


マルグリットは、ベルナデットをまっすぐに見た。


「デュマ会頭。あなたの商会が、五年前に沈めた船の積荷。もし相互保険があったら、あなたの商会は、あの年、半分の倉庫を手放さずに済みました」


ベルナデットは、黙っていた。


「仕立て部への発注は、確かに私費です」


マルグリットは、続けた。


「フェンネル卿から、異国の装いについて伺いました。それを形にしたのは、私の個人的な関心です。商盟の金は、一枚も使っていません」


それから、彼女は少しだけ微笑んだ。

商談用の微笑みだった。


「……ただ、その装いを見たフェンネル卿が、いかに熱心に手形と保険の話をしてくださったかは、議事録には書けませんが」


総会は、議長の出資の継続を承認した。

ただし、条件付きだった。


「期限を設けます」


採決の後、ベルナデットが言った。

腕を組んだまま。けれど、さっきまでの鋭さは、少しだけ和らいでいた。


「この夏が終わるまでに、手形でも保険でも、どれか一つでいい。実際に動かして、成果を見せること。見せられなければ、出資は打ち切り」


「承知しました」


マルグリットは、即答した。

ベルナデットは、写しの帳簿を卓の上に置いた。


「それから、議長」


「何かしら」


「……保険の話。港湾都市の商会の会合で、もう一度、詳しく聞かせてもらえるかしら」


マルグリットは、少しだけ目を見開いた。

それから、微笑んだ。


「喜んで」


同じ頃。

王都大神殿の、小鑑定室。

アルトは、水晶板に両手を置いていた。

セラフィナが、数値を読み上げていた。


「筋力、二十九」


「体力、三十三」


「敏捷、二十六」


「器用、三十」


「魔力、二十」


部屋の隅に、もう一人いた。

リゼットだった。


「合計の計算が要るかもしれませんので」と言って、記録板を持って同席していた。


彼女の唇が、数値を聞くたびに、かすかに動いていた。

足し算をしていた。


「知力、七十二」


リゼットの唇が、止まった。


「精神、九十」


セラフィナが、最後の数値を読み上げた。

リゼットが、記録板から顔を上げた。


「……合計」


彼女の声が、ほんの少しだけ、震えていた。


「三百、ちょうど」


その瞬間、水晶板が光った。

白ではなかった。

金色だった。

天賦の儀の日、稀少度が測定不能と出たときと、同じ色。

いや、あのときよりも強かった。

小鑑定室の白い壁が、金色に染まった。窓から差し込む夏の陽射しよりも、明るかった。


「……っ」


セラフィナが、思わず一歩下がった。鎖が、しゃら、と鳴った。

リゼットは、記録板を握りしめたまま、水晶板を凝視していた。

水晶板の表面に、文字が浮かび上がっていた。

レベルの数字が、動いていた。


Lv19。

Lv20。


一瞬だけ、止まった。

それから、また動き始めた。


Lv21。Lv22。Lv23。


速かった。

溜まっていた経験値が、一気に流れ込んでいるのだった。三週間分。いや、壁で止まっていた間の、全部の分。


Lv26。Lv28。Lv30。


アルトは、水晶板に手を置いたまま、動けなかった。

手のひらの下が、熱かった。

体の奥で、何かが開いていく感覚があった。

閉じていた扉が、一枚ずつ。ずっと、そこにあったのに、開け方を知らなかった扉が。


Lv31。

Lv32。


数字が、止まった。



金色の光が、ゆっくりと収まっていった。

水晶板の表面に、新しい表示が残っていた。


アルト・フェンネル十八歳男

筋力29/体力33/敏捷26/器用30

魔力20/知力72/精神90(合計300)


スキル:【ステータス貸与】Lv32


【第一の壁を突破】

契約3/5

増幅倍率×3

貸与上限素の合計の六割

解放:【技能貸与】


小鑑定室が、静まり返っていた。

セラフィナが、表示を見つめていた。

リゼットが、表示を見つめていた。

アルトも、表示を見つめていた。


「契約、五分の、三」


セラフィナが、ゆっくりと読んだ。


「……枠が、二つ、増えました」

「倍率、三」


リゼットが、記録板にペンを走らせた。


「二から、三へ。推定と、一致」


ペンが、次の行に移った。


「技能、貸与」


彼女の手が、止まった。


「……解放」


アルトは、水晶板から手を離した。

手のひらを、見下ろした。

さっきまで熱かった手のひらが、今は静かだった。


(壁)


天賦の儀から、三か月半。

最初は、体力だった。体力さえあれば、と思った。救護室で、天井を見上げながら。

それから、合計だった。レベルが十九で止まって、壁があると知った。

あと五十四。あと十。

走り込み。素振り。算術。法学。地理。歴史。第七号。睡眠の欄のない、日程表。


(越えた)


崩れるような、喜びではなかった。

叫びたくなるような、興奮でもなかった。

ただ、静かに、胸の奥で何かが満ちていた。

天賦の儀の夜、自室の寝台で拳を握ったときと、少しだけ似ていた。


(壁、越えた)


アルトは、手のひらを、ゆっくりと握った。


その日の夕方。

七都商盟の大会議室で、総会が終わろうとしていた。

議長の出資の継続が承認され、期限が設けられた。会頭たちが、帰り支度を始めていた。

そこへ、一人の使いが駆け込んできた。

魔導院の、研究棟の若い研究員だった。

息を切らしながら、議長に一通の封筒を差し出した。

マルグリットは、封を切った。

中に、羊皮紙が一枚。

リゼットの、几帳面な字だった。


『本日十四時二十二分、フェンネル卿、素の力の合計三百に到達。第一の壁を突破。契約枠、五。増幅倍率、三。【技能貸与】、解放を確認。以上、取り急ぎ。研究棟リゼット・ハーシェル』


マルグリットは、羊皮紙を読み終えた。

一度。

それから、もう一度。

帳簿を、胸に抱いた。

深緑の目が、輝いていた。

彼女は、まだ席を立っていなかった会頭たちの方を向いた。

ベルナデットも、まだそこにいた。


「皆さま」


マルグリットは、穏やかに言った。

その声は、少しだけ、上ずっていた。


「では、契約の締結に入ります」



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