4.ピエールの幸せ
その日の朝、ミシェルは実家の雑貨屋の店先で、いつものように開店準備をしていた。木箱の上の石鹸と蝋燭を整列し、床に溜まった埃をかきだし、看板を表に出した。いつもと同じ朝のはずだった。
準備がひと段落して通りを眺めていたら、店の前に黒塗りの馬車が停まった。飾り気のない馬車だった。通行人が足を止めて見ていた。
馬車の扉が開き、白髪交じりの紳士が降りてきた。仕立ての良い黒の外套を纏うその男が貴族であることはわかった。男の顔を見て、ミシェルは息をするのを忘れた。ピエールの父、ウィルム男爵だった。
「ミシェル・ローゼン嬢で、間違いないかね?」
低い声だった。ミシェルは何も言えず、小さく頷いた。
「少し、話がしたい」
ウィルム男爵はミシェルを真っすぐに見据えた。ミシェルは唇を軽くかむと、ウィルム男爵を店の裏手の中庭へと案内した。
「単刀直入に言おう。私は、君とピエールの関係を知っている」
ミシェルは息を呑んだ。家人が親密な二人を見かけ、それが男爵の耳に届いた。男爵は人を雇って、ミシェルの素性を調べさせた。貴族の令嬢ではなく、雑貨屋の娘であること。招待状を持たずに舞踏会に忍び込んだこと。ミシェルがピエールに特別な感情を持っていること。男爵はすべて把握していた。
「怒ってはいない」
想定外の言葉に、ミシェルは顔を上げた。
「実は……ピエールと子爵家の令嬢との婚約を、私は内々に進めていた」
ウィルム男爵は疲れた、虚ろな表情をしていた。
「ピエールは次男だ。家督は長男が継ぐ。あの子には、婿入りという道が残されている。子爵家に迎えられれば、生涯食うに困ることもなく、爵位を得られる。それが、あの子にとって最善の人生だと、私は考えている」
男爵の言葉の節々には、息子を思う優しさが滲んでいた。
「ピエールの幸せを望むのであれば、どうか息子と別れてほしい。このとおりだ」
男爵は懐から布袋を取り出し、ミシェルに差し出した。ずっしりと重い袋だった。その袋から金属の擦れる音がした。
「せめてもの償いに、受け取ってほしい。中には、平民が十年は暮らせるだけの額が入っている。生活の足しにしてほしい」
手切れ金だった。ミシェルは何も言えなかった。
いつかこの日が来るとわかっていた。ピエールとミシェルとでは、住む世界が違う。生まれも、育ちも、これから歩む人生も。貴族の男が、平民の娘と添い遂げることなど、許されない。そんなことは、最初からわかっていた。
「わかりました」
震える声で、ミシェルは呟いた。それ以外の言葉が出てこなかった。
男爵は静かに頷き、布袋をミシェルの手に握らせると、馬車へと戻っていった。走り去る馬車を、ミシェルは立ち尽くしたまま見ていた。
布袋はずしりと重かった。これがピエールとの別れの重さ。そう思うと、目に涙が溢れた。
せめてもの強がりに、手切れ金を男爵に突き返したかった。ピエールと過ごした時間は金に換えられるはずがない。でも、それさえもできなかった。
店内には腰を痛めた父が働いていた。この金があれば、父が仕事を休んでも、家族は生活に困らない。安心して暮らしていける。
ミシェルは唇を噛みしめ、布袋を胸に抱えた。
その夜、ミシェルは手切れ金の半分を父に渡した。金貨を手にした父は目を大きく見開いたが、目を腫らした娘を見て、理由を訊かなかった。ただ、ミシェルを抱きしめた。
残りの金貨を布袋にしまい、ミシェルは荷物をまとめた。
ピエールには、何も告げなかった。告げれば、決意が揺らいでしまう。ピエールの顔を見れば、この選択を後悔してしまう。
翌朝、朝日が登る前に、ミシェルは王都を発つ馬車に乗った。
ミシェルは地方都市で雑貨店を開くつもりだった。誰も知らない土地で、一からやり直す。それが、ミシェルが決めた道だった。
馬車の上から振り返れば、見慣れた街並みと、憧れた上流階級の世界があった。ピエールとの思い出はこの街に置いていく。
ミシェルは馬車に揺られながら、心の中でピエールに別れを言った。
――さようなら、ピエール様。どうか、幸せになってください。
登り始めた朝日が、王都の輪郭を浮かび上がらせた。
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