4(最初の死闘)
❖同刻/メギドヶ丘学園・校舎裏/来栖❖
「悪魔の臭いがすると思って来てみれば」
来栖が振り向くと、そこに老人が立っていた。
場違いな外套と三角帽子に身を包んだ、ゲームや寓話の中から出てきたような魔術師然とした格好の老人だ。
西洋人の顔立ちだが、流暢な日本語。
好々爺といった様子で、温厚そうな見た目。
「お前、ベルフェゴールの召喚者ではないな? どの魔王を召喚した? 暴食のベルゼブブ? 嫉妬のリヴァイアサン? 金欲のマモン? いや、この青臭さは、この街と同化した年若き魔王、色欲のアスモデウスか?」
「な、何を言って――」
「まぁよい。殺してみれば分かることじゃ」
うって変わって残忍な表情になった老人が、杖を振り上げた。
すると、再び大蛇が襲いかかってきた。
「しょ、【小十字結界】!」
来栖は牙王からもらった十字架を掲げた。
光の盾が発生し、来栖を蛇の攻撃から守ってくれた。
これは、来栖の魔力によるものではない。
牙王があらかじめ充填しておいてくれたのだ。
盾で防御しながら、来栖は逃げまどう。
逃げながら、考えていた。
(どうして逃げるんだ? マリアが死んだ。殺された。マリアは僕にとって、世界そのものだった。マリアのいないこの世界で、生きる理由なんてないのに)
足が止まりそうになる。
だが、
(いいや、違う!)
来栖は必死に走り続けた。
(マリアはまだ、死んだと決まったわけじゃない! どんな怪我でも一瞬で治せるアイラム師匠なら、あるいはマリアの肉体を持っていけば治せるんじゃないか!?)
だが、そのためにはまず、あの大蛇を倒さなければならない。
そして、あの大蛇を使役しているのであろう老人も。
校庭に到達した。
振り向くと、大蛇が追いつきつつあった。
だが、その姿がずいぶんと縮んでいるように見える。
「もう魔力不足か」
老人が言った。
「ルシファーは地水火風全属性の地獄級魔術が扱える最強魔王の一角じゃが、燃費の悪さが悩みの種じゃな。しかし」
大蛇が無数の蛇に分裂し、校舎の中へと散っていく。
とたん、あちこちから悲鳴が上がりはじめる。
蛇が生徒や教師を襲っているのだ。
「こうして集めればよいだけのことじゃ。ほれ、さっそく力が戻ってきた。【ファイアボール】!」
拳大の火の玉が老人の杖から発せられ、来栖の足元の地面をえぐった。
来栖は思わず尻餅をつく。
恐怖で体が震えている。
「魔術を見るのが初めてと言うわけではあるまい? 今のは火属性の初級魔術じゃ」
来栖は、こんな魔術は知らない。
来栖の知る初級魔術【ファイアボール】は、たかだかライター程度の火を生じさせるだけのものであり、地面を焦がすほどの威力もない。
ましてや、えぐり取るなど。
つまりこの老人は、常人とは一線を画す大魔術師ということになる。
「【オン・アハラシャノウ――文殊慧眼】! あぁぁ……」
とんでもない魔力総量を見て、来栖は絶望した。
魔力総量とは、ファンタジーゲームで言うところの『最大MP』だ。
一般人で、一単位。
『視える』系、つまり霊視が可能な霊能力者や霊感の強い人で十単位。
未受肉の低級悪霊を祓うことのできる、第七旅団の尉官・准士官で数百単位。
数千単位もあれば一騎当千のエリートだ。
ちなみに、マリアは実に一万単位あった。
だが、来栖の鑑定術式が看破した老人の魔力総量は、そんなものではなかった。
「お主、よい目を持っておるのぅ。そう、儂の魔力総量は、前人未到の十万単位じゃ」
稀代の天才と謳われるマリアの、実に十人分。
(勝てるわけがない!)
「さて、お次は中級魔術の【ファイアウォール】じゃ」
また、省略詠唱。
とたん、炎の壁が立ち上がった。
三階建ての校舎と同じくらいの高さがある、あまりにも巨大な壁だ。
通常、結びの句のみを告げる『省略詠唱』は、術式の威力が極端に下がる。
中級魔術で、ましてやこれほどの炎を生み出すには、普通は長々とした詠唱が必要になるはずなのだ。
――ジュッ
と、グラウンドの土の水分を蒸発させながら、炎の壁が猛スピードで迫ってくる!
「うわぁあああああっ!」
叫びながら、来栖は必死に避ける。
壁は幅がそれほど広くなく、意外とあっさり避けることができた。
「ひゃっひゃっひゃっ。怖かろう怖かろう」
(いや、違う。手加減されているんだ! 僕という獲物を追い回して、楽しんでいるんだ)
炎の壁がそのまま進んでいき、校舎に叩きつけられた。
窓という窓が割れ、校舎が火災に見舞われる。
「さて、一瞬で大火災を起こせるほどの魔術でも、まだ中級。魔術には、さらに上級が存在するのじゃ」
老人が杖を振り上げた。
ドイツ語で詠唱しはじめる。
(あの詠唱――まさかっ!? まずいまずいまずい!)
来栖は牙王からもらった十字架を掲げ、ありったけの祈りを捧げる。
「【エクスプロージョン】!」
老人の成句とともに、大爆発が起きた。
グラウンドに巨大なクレーターを作り、校舎の旧棟をまるまる吹き飛ばすほどの大爆発が。
牙王が込めてくれていた魔力のおかげで、来栖は辛うじて死を免れた。
だが、気がつけば来栖は、校舎の屋上よりもなお高い夜空へと放り上げられていた。
一瞬、来栖の体は夜空の中でピタリと止まった。
だが次の瞬間、重力に引かれて落下しはじめた。
(このままじゃ、墜落死する! いや、それよりも先に――)
ぐんぐんと迫ってくる、屋上の避雷針。
(串刺しになる!)
頭は下、脚は上。
幸いにして、都合のいい体勢になっている。
来栖は十三ミリリットル分の魔力を右手の親指と人差し指に集中させた。
十メートルの高さから落下した場合、その速度は秒速十数メートルにも達する。
来栖は猛烈な風圧の中、まばたきせずに避雷針の先端を見つめる。
(今!)
来栖は、二本の指で避雷針の先端をつかんだ。
魔力とは、力だ。
瞳にまとえば、霊視したり相手のステータスを見抜く力を得ることができる。
耳にまとえば、異界の音を聴くことができる。
体表を覆えば、霊障から自身を守る防壁になる。
そして、指や拳にまとえば、
――ギギギギギギギギギギッ!
来栖の指先と避雷針が、火花をちらしながら摩擦する。
三十センチ分ほど摩擦してから、来栖の落下がピタリと止まった。
避雷針がチリチリと煙を上げている。
その煙が、避雷針の先端から一センチ先にある来栖の眼球に入った。
来栖はようやく、まばたきした。
魔力とは、力だ。
魔力を指や拳にまとえば、このとおり比類なき筋力を得ることができる。
来栖は今、二本指の力だけで逆立ちしている。
操作できる魔力量のすべてを二本指に振っている。
避雷針のうえで逆立ちしている体感のよさや筋力は、来栖の素の身体能力が成せる技だ。
この三年間、来栖は何もお金儲けだけをしていたわけではないのだ。
「ひゃっひゃっひゃっ。お前、前世は猿か何かか? 【ファイアアロー】!」
灼熱の矢が、避雷針を溶かして折った。
来栖は今度こそ、グラウンドに向かって落下を始める。
だが、焦りはなかった。
(今!)
来栖はあらかじめ、右手の人差し指と薬指に十三ミリリットルの魔力を集めていた。
頭を下にした来栖は、その指先が地面に着いた瞬間に前回り受身を取った。
と同時、魔力を二本指の指先から第一関節、
第二関節、
第三関節へと超高速で移動させ、
さらに右手首、
前腕、
肘、
上腕、
右肩の順に魔力をまとわせ、地面に接する体の各部位を、その瞬間瞬間に、神業と言うほかない精度で保護した。
こうして、曲芸じみた魔力操作によって、来栖は十数メートルからの落下を『いなした』。
この三年間のうちに磨き上げた、来栖の技の粋だ。
無傷で立ち上がった来栖を前にして、老人が目を見開いた。
マリアの十倍――つまり世界最強レベルの魔力総量を持つ大魔術師が、来栖を正式に『敵』と認めたのだ。
「いいだろう。儂の奥の手を見せてやる。初級・中級・上級魔術のさらに上。人類ではけっしてたどり着けない魔術の最高到達点、地獄級火炎魔術を!」
校舎中から無数の蛇が集まってきた。
ものすごいスピードで宙を這う蛇たちが、老人の隣に集まり、寄り合わさり、圧縮されていく。
再び大蛇になるのでは、と来栖は警戒したが、違った。
蛇たちが圧縮されていく。
何万匹もの蛇の集合体がぎゅっぎゅっと圧縮されていき、最後には光り輝く天使の姿になった。
マスコットキャラのような、三等身の天使だ。
目を閉じている。
「紹介しよう。このお方こそは七大魔王の最強格、堕天使の長、明けの明星、ルシファーじゃ」
その天使が、目を開こうと――
「待て待て待て!」
そのとき、空からアイラムが降ってきた。
「お前さん、テンプル騎士団の『明けの明星』ヴェヌスだろう!? 戦争参加者以外への手出しはルール違反だよ!」
「何を言う。こやつは百年戦争の参加者じゃろう?」
来栖は混乱する。
(テンプル騎士団? 百年戦争? 何の話だ? いや、それより今はマリアのことだ)
来栖は声を張り上げようとした。
だが、横隔膜が痙攣して、上手く呼吸できない。
魔力を使っていなしたとはいえ、空からの落下でダメージを受けているのだ。
「こいつは――いやいや、学生たちを襲っている蛇と炎を今すぐ消せって言っているンだよ!」
「何を甘いことを。『ジ・アース』さえ手に入れてしまえば、大規模記憶改ざんも、死者蘇生すら可能じゃろうが」
来栖が必死に息をすおうとしている間にも、アイラムと老人の間で話が進んでいく。
「分からず屋のクソジジイめ!」
アイラムが拳銃を取り出し、容赦なく老人を銃撃した。
が、銃弾は老人の額に当たった瞬間、勢いを失って落ちた。
優れた術師に銃器の類は通用しない。
常に身にまとっている多量の魔力が、物理的なダメージを吸収するからだ。
それでも、音と衝撃で多少は老人を驚かすことができたようだった。
アイラムがその隙にもう一丁の銃――牙王が持っていたものと同じ種類の退魔拳銃を取り出し、素早く魔力を込めた。
「【AMEN】!」
アイラムが引き金を引くと同時、牙王や学生たちのときとは比べ物にならないほど巨大な光の槍が放たれた。
老人が慌てて手をかざし、無詠唱で結界を生じさせた。
(違う。あれは事前詠唱だ)
事前に詠唱を済ませておいた術式をストックしておくという、魔術の奥義の一つだ。
老人の結界はアイラムの光の矢を防いだ。
が、同時に砕け散ってしまった。
さしもの大魔術師も、ストックしておける魔術は一つが限度らしい。
老人が次なる結界魔術を詠唱しはじめた。
その隙に、アイラムが動いた。
「【アイテムボックス】!」
亜空間に物を収納したり、亜空間から物を取り出す魔術だ。
アイラムが虚空から引きずり出したのは、全長三メートルの十字架が四本。
アイラムがそれらを軽々と空に放り投げると、十字架が学校の敷地の四方に刺さった。
「【大十字結界】!」
アイラムの省略詠唱。
次の瞬間、校舎の炎が消え、棟内からの悲鳴が止んだ。
恐らく、生徒や教師たちを襲っていた蛇たちも消えたのだろう。
だが、
「【エクスプロージョン】!」
間髪入れず、老人が再び大爆炎の魔術を使った。
結界魔術を唱えているように見せかけつつ、途中から詠唱を爆炎魔術に切り替えていたのだ。
大爆発が生じ、来栖たちを襲う。
来栖はとっさに十字架を使おうとしたが、結界は発動しなかった。
先の【エクスプロージョン】を防いだときに、魔力を使い切ってしまったのだ。
だが、来栖は間一髪で焼死体にならずに済んだ。
アイラムが無詠唱の【小十字結界】で守ってくれたからだ。
だが、光の盾はボロボロと崩れて消え去ってしまった。
結界で弾いた余波が校舎に降りかかり、再びあちこちで火災が発生し、樹木が灰になり、フェンスがドロドロに溶けてしまっている。
「おやおや。戦争参加者への運営の肩入れこそ、ルール違反ではないのかな? 【エクスプロージョン】!」
老人が、さらに省略詠唱。多少威力は下がったが、再び爆発が生じた。
「何度でもやるぞ。【エクスプロージョン】! 【エクスプロージョン】! 【エクスプロージョン】!」
あえて校舎を狙う老人。
「くそぉっ、こうなったら――」
アイラムの体がぐにゃりと歪み、薄い膜に変じて校舎を覆った。
アイラムだったはずの膜が、爆発から校舎を保護する。
「魔力体じゃと!?」
老人が驚愕する。
「ひゃっひゃっひゃっ。ならば、今度こそ地獄級火炎魔術を見せてやろう。ルシファー!」
天使が、目を開いた。
とたん、とてつもない量の霊圧が天使からほとばしり、来栖の体を打った。
来栖は震える。
心臓をわしづかみにされたような恐怖。
「【三つの暴力・ハーピーに啄ばまれし葉冠・呵責の濠】――」
天使が詠唱を始めた。
(あぁぁ……間違いない)
来栖は絶望する。
(地獄級の火炎魔術だ!)
一発あたり一万総量もの魔力を消費する、世界で最も火力のある攻撃魔術だ。
ゲームで言うところの、
『マダンテ』、
『アルテマ』、
『メギドラオン』、
『ティルトウェイト』。
現実世界で言うところの、戦術核。
「来栖!」
どこからか師匠の声がした。
「今のアタシは動けない。お前さんがなんとかしな!」
「なんとかって、どうすれば!? いや、そんなことよりマリアが――」
「【苦患の森に満ちる涙よ雨となり】――」
天使の詠唱が進んでいく。
膨大な量の魔力が、天使と来栖の間の空間に練り上げられつつある。
土をえぐり取る、初級火炎魔術。
一瞬で大火災を引き起こす、中級火炎魔術。
大爆発で鉄すら溶かす、上級火炎魔術。
その上級魔術【エクスプロージョン】ですら、消費魔力はたったの数百単位なのだ。
ひるがえって、今、眼の前の天使が放とうとしているのは、たった一発に一万総量もの魔力を注ぎ込む地獄の業火だ。
【小十字結界】も失ってしまったこの身では、炭化するどころか灰も残らないだろう。
(なら、逃げるか!?)
どこへ逃げるというのか。
十数秒後には詠唱が終わる。
そうすれば、この学校はもちろん、周辺地域一帯までもが消し飛ぶだろう。
直撃を受ける来栖はもちろんのこと、メギドヶ丘学園の学生や教職員たちや、近隣住民も大勢死ぬ。
そもそも、ここで逃げてしまっては、マリアの命は永遠に失われてしまう。
今ここで老人と天使を倒し、
マリアを飲み込んだあの大蛇を再び召喚させ、
マリアの亡骸を取り出し、
アイラムに蘇生してもらう。
それしか、マリアを救う方法はない。
(なら、どうしろって!?)
戦うのだ。
逃げずに、戦うのだ。
今ここで、天使が放とうとしている地獄級火炎魔術と同威力の魔術を唱え、天使の攻撃と相殺させるのだ。
それしかない。
それしか、この場を切り抜け、マリアを救う方法はない。
(十三ミリリットル分の魔力しか扱えない、この体で?)
いや、使えるはずだ。
だって自分は、三年前より以前は――。
来栖は、覚悟を決めた。
「【三つの暴力・ハーピーに啄ばまれし葉冠・呵責の濠・苦患の森に満ちる涙よ雨となり】」
得意の超高速詠唱。来栖はものの数秒で、天使の詠唱に追いついた。
地獄級魔術の詠唱なら、お手の物だ。
幼いころ、何度も何度も練習した。
【第七地獄火炎】も、
【第二地獄暴風】も、
【第三地獄貪食】も、
【第九氷地獄】も、
来栖は詠唱をすべて暗記している。
「「【煮えたぎる血の河と成せ】」」
来栖と天使の声が重なった。
来栖はここから、天使と同じテンポでゆっくりと詠唱した。
高速詠唱の代償として不十分だった魔力の練り上げを、この時間でしっかりと行うためだ。
来栖は天使に向けて両手を掲げた。
「「【パペサタン・パペサタン・アレッペ・プルートー】」」
いよいよ、成句が目前に迫る。
今や天使ルシファーの前には、目もくらむほどの超高温の火の玉が生成されていた。
これが解き放たれた瞬間、メギドヶ丘学園を中心とした周辺地域は消し飛ぶ。
果たして――
「「【第七地獄火炎】ッ!」」
果たして、来栖の両手から超極大の火炎が解き放たれた。
来栖の炎は天使の炎を絡み取り、来栖の意図に沿ってはるか上空へと飛んでいった。
上空で目もくらむような大爆発が生じ、夜空が真っ赤に燃え上がった。
一瞬遅れて、熱風が来栖たちを襲った。
爆発の高度があと少しでも低かったら、来栖や外を歩いている住民は肺を焼かれて死んでいただろう。
(できた……できたできたできた! 三年ぶりの【プレゲトン】だ!)
来栖は、地獄級魔術を地獄級魔術で相殺することに成功したのだ。
前人未到の快挙だった。
「ば……馬鹿な」
老人が目を見開く。
「人間が、地獄級魔術を使うじゃと!? 欧州最強のこの儂ですら使えないのに!?」
来栖と天使の視線が交錯する。
堕天使ルシファーが、ニヤリと嗤った。
「【三つの暴力・ハーピーに啄ばまれし葉冠・呵責の濠】――」
(二発目だって!?)
来栖はすくみ上がる。
だが、向こうがやるならこちらもやるしかない。
来栖は再び、天使に向かって手を掲げる。
そうして、気づいた。
いつの間にか、自分が膝を突いていることに。
全身が震えている。
「げぇっ……」
胃から大量の異物がせり上がってきた。
血だった。
天使の詠唱が続く。
来栖は倒れそうになりながらも、必死に天使を睨みつける。
口が上手く動かない。
それでも、脳内で詠唱しようとする。
だが、体中の霊脈が激痛を発していて、何も考えられない。
(くそ……マリアを助けるんだっ。マリアを黄泉帰らせるんだ!)
ついに、天使の詠唱が完成した。
巨大な炎が、破裂する。
ゆっくり、ゆっくりと熱が膨張する。
来栖の知覚が極限を超え、一秒が十秒に、ゼロコンマ一秒が百秒に引き伸ばされる。
天使に向けて掲げた、来栖の左手。
その皮膚が焦げ、蒸発していく。
指先が溶けていく。
手の平が崩れていく。
(死ぬ……死んでしまう……)
人生最後のゼロコンマ一秒、来栖は左手薬指の指輪を見つめていた。
マリアからもらった婚約指輪。
マリアとの思い出を。
(死んでしまう……マリアが、永遠に死んでしまう!)
今際の際で思うのは、
自分の命についてではなく、
マリアの命についてだった。




