1(来栖の走馬灯)
❖走馬灯/来栖❖
『ボクだけでいい。来栖くんは、ボクだけを見ていればいいの。来栖くん。ボクの、ボクだけの最高の幼馴染』
それは、ほとんど毒だった。
飲むものを虜にし、骨抜きにしてしまう猛毒。
六歳のとき、来栖はマリアに拾われた。
当時の来栖は『神童』とか『百年に一人の天才』とか『本家殺し』とか言われていい気になっていたクソガキで、退魔界隈の子供たちを率いて摩耶山で遊ぶ、まさしく西遊記の『孫悟空』だった。
釈迦の手の平のうえで遊ぶ子供。
そんなとき、来栖の前に釈迦が現れた。
釈迦は、名を『マリア』と言った。
『ヤッホー! 山猿くん、キミがこのへんを荒らし回ってる分家のクソガキってことでOK?』
『ボクに勝てたら、ボクがキミのお嫁さんになってあげる。その代わり、ボクが勝ったら、キミは一生ボクのペットね』
当時八歳のマリアは今よりもずっとずっと幼く非常識で、相手をいたぶることに容赦がなかった。
生意気な女をだまらせてやろう、と放った来栖の初級魔術【火球】は、マリアが放った中級魔術【大火球】に呑まれた。
山火事のただ中で、タガが外れたように笑うマリア。
そんな狂人に首根っこをつかまれ、来栖は『この女にだけは逆らっちゃいけない』と理解した。
それが、原風景。
異性だの恋だの性欲だの精通だの、といったあれこれを知らなかった来栖は、それから毎日『ボクのペット』としてマリアに連れ回されるようになり、それから数年のうちに異性だの恋だの性欲だのを知るようになり、小学六年生で精通し、そのときにはもう、マリアに性癖という性癖を破壊され尽くしていた。
同じベッドで毎晩寝ていた。
一緒にお風呂に入っていた。
互いの体の、ホクロの位置を完全に把握していた。
精通したときにはもう、来栖はマリアの術中に完全にハマってハマってハマりきったあとで、今さらマリア以外の女性のことなど考えられなくなっていた。
自分は将来、マリアと結婚するのだ――と、無条件に信じ込んでいた。
実際、すでに百万にも届きうる魔力総量を有していた来栖は、両親と阿ノ玖多羅本家の双方からマリアとの婚約を認められていた。
お小遣い程度の額ではあるが、互いに婚約指輪を贈り合ったりもしていた。
来栖は幸せだった。
たとえマリアに半ば洗脳され、操縦されたうえでの感情だとしても、マリアを愛していることに何の違いもなかったからだ。
だが、その幸せは、ある日突然、崩れ去った。
そう、メギドヶ丘学園中等部一年の冬、何の前触れもなく、体内霊脈が魔力を通さなくなってしまったのだ。
神童、阿ノ玖多羅本家嫡子の婚約者にして次期当主たる阿ノ九多羅来栖が、マッチの火程度の【火球】も使えないクソ雑魚になった。
とたん、マリアが冷たくなった。
分かっている。
理解できる。
マリアが欲したのは、最強の結婚相手。
ニ十歳以上も年上の男と結婚させられないための、防波堤になるに足る優秀な魔術師だ。
そのために幼少から心血注いで育て上げてきた来栖が、失敗作になってしまった。
期日の十八歳まで、もう数年もない。
すぐにも切り替えて、新たな結婚相手探しに勤しむのは当然のことだった。
頭では理解できる。
が、心で受け入れられるかどうかは、また別の話だった。
「ねぇマリア、僕はどうすれば……マリアのためなら僕、何でもする。だからマリア、僕を捨てないで」
ある日、来栖は避けるマリアに追いすがって、しがみついて、そう懇願したことがあった。
マリアは悩み抜いた様子のあと、こう言い放った。
血を吐くような壮絶な声で。
「だったら、ボクを連れて逃げて。
ボクと駆け落ちして。
来栖くんの人生をボクにちょうだい。
そうすれば、ボクはボクのすべてをキミにあげるから。
だから、ねぇ、お願い、ボクを連れて逃げて!
どこか遠い、阿ノ玖多羅家の手の届かない遠い国へ!」
無理だ、と来栖は思った。
当時中学一年生の来栖には、駆け落ちなんて想像力の外に位置することだった。
逃げる?
外国へ?
どうやって?
逃げられたとして、それでどうやって暮らすんだ?
どうやって仕事を見つけ、家を見つければいいんだ?
分からない。
怖い。
そもそも国外へ移住するための書類も手続きも、何が要るのかすら分からない。
怖い怖い怖い!
清水の舞台から飛び降りる、なんて生ぬるいものではない。
集団自殺の合意書に印鑑を押すように迫られているような、強烈な恐怖があった。
「ま、マリア、それはさすがに……」
次の瞬間、マリアから表情が消えた。
「……そう。さよなら、来栖くん」
(だからこれは全部、俺が悪い。
あのとき俺は、マリアの手を引いて逃げるべきだったんだ)
その後、なぜかその日のことは忘れてしまった。
あの強固な忘れ方は、恐らくマリアが来栖に【記憶処理】の術式を使ったからだろう。
だが来栖には、『貯金しなければ』という強迫観念だけは残っていた。
来たるべきマリアとの駆け落ちのために、来栖は貯金し続けてきたのだ。
(マリアに逢いたい……逢って、謝りたい)
ここは夢の中か、それとも死後の世界か。
来栖は真っ暗な空間で一人、たゆたっている。
『ねぇ、昔の来栖くんみたいに、格好つけたしゃべり方してみせてよ。「俺」って言ってよ』
『こうして髪を上げた来栖くん。最高にカッコ可愛いよ。ほら、昔みたいに「俺」って言ってよ』
『もっと自信持ってよ。昔みたいに「俺」って言ってよ』
(マリアはいつだって、怖がっていた。守ってもらいたがっていたんだ。なのに『俺』は、頑なに『僕』と言い続けて、マリアに守ってもらおうとしていた)
記憶が黄泉帰った来栖の、マリアに対する見方が変化する。
(そうだ、同じベッドで眠った夜。マリアの肩は震えてはいなかったか? シャワーを浴びたあと、マリアの目にはひどい隈があった。魔力体になってまで消えない隈。日常的に隈を作っていたってことだ)
『なんでかな、すごく美味しい。こんなに美味しいの、何年ぶりだろう。いつもは、味、しないから』
サインは、言動の端々に現れていたのだ。
けれど自分は、気づかないふりをしてきたのだ。
強いマリアに甘え、依存してきた。
(マリア……ごめん、マリア。俺、マリアに無理させてばかりだった)
いくら二歳も年上で優秀で強いとはいっても、マリアはまだまだ十八歳の女の子だ。
そんな少女が死を経験し、その直後から血みどろの戦争に巻き込まれたとしたら。
ヒステリックに泣き叫び、一歩も動けなくなるものではないか?
普通の女の子なら、そうなるものではないだろうか?
自分だってそうだ。
自分が泣き叫ばずに済んでいるのは、マリアという絶対的な支柱があればこそだった。
(俺、最低だ)
だがけっして、手遅れと言うわけではない。
まだやり直せる。
ちゃんとマリアに謝って、ありのままのマリアを直視して、『キミを守りたい』と告げればいいのだ。
だがそうするためにも、まずは生き延びなければならない。
ここで死んでしまったら、マリアに逢うこともできないのだから。
(戦え……戦え、俺! 正義とか大義とか、そんな難しい話は関係ない。これは恋のための戦いだ。惚れた女を取り返すための戦いだ)
へその下、魔力核が熱い。
今なら地獄級の魔術でも、神級の神術でも、何でも使える気がする。
(戦え、俺! 愛する女のために!)
来栖は地獄級防護結界魔術【ディースの城壁】で、ルーシャの爆炎から自身を守る。
来栖は地獄級暴風魔術【第二地獄暴風】で、ルーシャの炎を吹き飛ばす。
来栖はマリアが使っていた【パーフェクトヒール】をコピーして、欠けていた四肢や失われていた視力、そして蒸発しかかっていた脳を完全に元通りにする。
来栖は魔力体すら凍らせる地獄級凍結魔術【第九氷地獄第三楽章】で、ルーシャの全身を固定する。
『知らないよ。前世のキミが、十三歳のときにデビルに魂を売ったとかじゃないの?』
それから、来栖が前世のころから最も得意としていた地獄級火炎魔術の詠唱を始め、
「【三つの暴力・ハーピーに啄ばまれし葉冠・呵責の濠・苦患の森に満ちる涙よ雨となり・煮えたぎる血の河と成せ・パペサタン・パペサタン・アレッペ・プルートー】」
ルーシャに向けて、解き放った。
「【第七地獄火炎】」




