3(マリアの受難)
❖翌二十八日/摩耶山の麓・阿ノ玖多羅本家屋敷・当主の間/マリア❖
「きゃははっ、コクリってば弱すぎ」
褐色肌の天使ことルーシャが、コクリをチェスでボコボコにしている。
コクリが将棋板を取り出し、逆にルーシャをボコしはじめた。
ここは、阿ノ玖多羅本家の屋敷の一室。
畳敷きの部屋の真ん中で、阿ノ玖多羅コクリとルーシャがイチャついている。
「ねぇねぇコクリぃ、それ、僕様ちゃんにも吸わせてよ」
将棋に飽きた様子のルーシャが、コクリにダル絡みをしている。
どうやらこの天使、阿ノ玖多羅コクリにお熱のようだ。
「げぇっほげっほ」
コクリのキセルを吸ったルーシャが、むせた。
「コレの何がそんなに美味しいの?」
「ふふん。お前にはまだ早いようだな」
「はぁ? 僕様ちゃん、これでも旧約聖書の時代から、ざっと数千年生きてるんですけど。コクリなんて赤ちゃんも同然なんですけどっ」
「そうかね。では、長生きで聡明なルーシャ様ならば当然、これをご存知かな?」
コクリが戸棚からとある板を取り出した。
『Yes』と『No』とアルファベットと数字が描かれた板だ。
英語版の『こっくりさん』を彷彿とさせる板。
「何かと思えば、ウィジャ盤じゃん。降霊術に使うボードでしょ。それがどうかしたの?」
「こっくりさん」
「んぇ?」
「キツネ、イヌ、タヌキ。狐狗狸の名を持つ動物霊を降ろす儀式を、この国では『こっくりさん』と言うのだ」
「コクリの名前に似てる」
「似せたのさ。日本人は、昔からキツネを特別視してきた。荼枳尼天信仰、九尾狐伝説、稲荷信仰、そしてこっくりさん。護国拾家の九番目にして一等一位の阿ノ玖多羅家は、その名のとおり『九』が付く家だ。九尾狐の九だよ。阿ノ玖多羅家はキツネにまつわる様々な信仰心を介して人々の魔力を集め、栄えてきたのだ」
「名前、かぁ」
ルーシャがフワフワ浮きながら、うなずいてみせる。
「確かに、名前は大事だよね。僕様ちゃんも『ルシファー』と『サタン』という二大魔王の名前を冠しているからこそ、こうして無類の力を振るうことができているわけだし。じゃあ、『狐狗狸』という名前は、阿ノ玖多羅家の中でもかなり禁じ手というか究極の名前なんじゃないの?」
「そのとおりだ。実際、『狐狗狸』の名は本家直系の中でも、とびきり魔力総量が突出した子供にしか与えられない最強のカードだった。だが、身共の母は傍系の出にもかかわらず、その禁を破った。結果として、身共が生まれた。直系のサトリとマリアをすら優に追い越す、この世界最強の魔術師が」
「自分で言っちゃうの?」
「逆に聞くが、身共に敵う魔術師が他にいるか?」
「うーん、どうだろ。強いて言うなら、あの子供? マリアと一緒にいた」
「分家のガキか。あんな子供に身共が負けるとでも?」
「そうじゃなくて、なんかいい匂いがするんだよね」
コクリとルーシャ。
一人と一柱のサイコパスたちが、仲よさげにじゃれ合っている。
その様子を、マリアは絶望的な気持ちで眺めている。
ここは、学校の教室くらいの広さがある、大きな和室。
摩耶山の麓に皇居並みの敷地を誇る阿ノ玖多羅家本家屋敷の、さらにど真ん中にある重要な部屋。
阿ノ玖多羅家当主の間だ。
この辺りの霊脈の中心に位置するパワースポット。
その真上に作られた部屋だ。
この部屋を制するものは世界を制すると言っても過言ではない、大事な部屋。
いずれはマリアが継ぐはずだった部屋だ。
その部屋に今、マリアの婚約者を名乗るサイコパスが君臨している。
阿ノ玖多羅コクリ、四十歳。
魔力総量五十万。
傍系の出でありながら我が物顔で君臨するその男が、高級なソファでふんぞり返っている。
一方の、この部屋の本来の所有者であるはずの父――阿ノ玖多羅里々はと言うと、まるで召使いのようにコクリの背後に立っている。
代々当主が使ってきた由緒ある部屋を奪われておきながら、文句の一つも言わない。
それどころか、喜んですらいる始末だ。
父は阿ノ玖多羅本家の嫡男でありながら、生まれつき魔力総量が少なかった。
訓練しても伸びなかった。
千五百単位程度だ。
それでも第七旅団に入ればエリート扱いになるし、生前のマリアの数分の一もの魔力総量を誇っている。
だが、歴史と栄光を誇る阿ノ玖多羅家の当主としては、あまりにも少ない。
明治時代の当主で魔力総量二千万超えという伝説があり、その息子などは数億とも数十億とも言われている。
もっとも、億超えのその男は阿栖魔大明神と駆け落ちして、阿ノ玖多羅家を出ていってしまったのだが。
その男が子孫を遺していてくれたら……というのが、明治期を知る阿ノ玖多羅家のおじいさんおばあさんたちの大きな後悔なのだ。
父は、千五百単位。
生前のマリアは一万単位。
ひるがえって、阿ノ玖多羅コクリは五十万単位だ。
コクリは父の数歳年上。
父にとっては幼いころからのヒーローだったわけだ。
そして、父がコクリに向ける眼差しは、今も変わっていない。
そんな父の娘であるマリアは今、部屋の隅で椅子に座らされ、縄で体を拘束されている。
他ならぬ父の手によって縛り上げられたのだ。
マリアは魔力体だが、未だ習熟の最中であり、手首を細くして縄抜けするような器用な真似ができない。
もっとも、そんなことをしたところで、コクリとルーシャに押さえつけられて終わりだろうが。
『生意気な女は好かん。身共の奴隷になるよう改造しろ』
コクリのそんな一言によって、マリアは洗脳魔術を施されることになった。
父が自ら、その手配を行った。
マリアは、八歳のころにはすでに、父からの愛を諦めていた。
『自分は達観している』
『今さら絶望したりはしない』
そう感じ続けて十年を過ごした。
だが、自分はまだまだ、本物の絶望というものを知らなかったのだ。
そうして、今。
すべての望みを絶たれたマリアは、椅子に縛りつけられ、地獄級の洗脳魔術を施されている。
「はぁ……このようないたいけな少女をいたぶる趣味など、余にはないのじゃが」
マリアの額に触れて洗脳魔術を使っているのは、父が召喚した魔王・阿栖魔大明神。
金髪赤瞳で隻腕の、ぞっとするほどの美女だ。
着物に袴という出で立ち。
「命令だ、アスモデウス」
父が冷たい声で言い放つ。
「んんんんっ、ぐぎぎぎぎぎぎ……」
阿栖魔大明神が父の命令に逆らい、マリアの額から手を引き剥がそうとした。
だが、
「はぁっ、はぁっ……洗脳魔術の名手たるこの余をすら縛るとは。大魔術【七大魔王百年戦争】とは、かように強力なのか」
阿栖魔大明神の手はマリアの額にピッタリとくっついており、洗脳魔術の効果を発揮し続けている。
(召喚魔王は召喚師に逆らえない……そういうルールなのね)
「余もほとほと運がない」
阿栖魔大明神が鼻で笑った。
「あやつの生まれ変わりを引けるかと思うて楽しみに待っておったのに、斯様な小物に召喚されてしまうとは」
「口ではなく手を動かせ」
「小言すら許さぬとは、器の小さい男じゃのぅ」
「私に器は必要ない。玉座に座るのは、我らが王、コクリ様なのだから」
「父さん」マリアは父に語りかける。「こんなことはやめて」
「…………」
父は返事をくれない。
「父さん、何をするつもりなの?」
「偉大な阿ノ玖多羅家を取り戻すのだ。そのためには、コクリ様の力が必要不可欠なのだ」
マリアはコクリを睨みつける。
コクリが穏やかに微笑んだ。
「身共が王となり、全人類を教導するのさ」
目だけは笑っていない。
「この世界には下らないしがらみが多すぎる。衆愚に媚びる政治屋どもも、我々退魔師を怪異調伏の道具としてしか見ていない国際ルールも、国と国を仕切る境界線も」
「それで、世界征服ごっこを始めるって? できると思ってるの? 馬鹿みたい」
「できるとも。『ジ・アース』さえ手に入れられればな」
「父さん、こんな世界中を敵に回すようなやり方、上手くいくはずがないよ」
父はマリアのほうを見てくれない。
「父さん、目を覚まして。父さんはこの男に操られているんだよ」
父は、マリアのことを、見ては、くれない。
マリアの胸の中で、『終わってしまった』という感覚がジワジワと広がりはじめた。
自分の恋は、終わってしまったのだ。
来栖くんは、もういない。
自分の戦いは、終わってしまったのだ。
あとはコクリの奴隷として使い潰されるのみ。
自分の人生は終わってしまったのだ。
思えば、来栖と一緒にいた小・中学生時代が人生の絶頂期だった。
(……逢いたい)
来栖のために来栖を諦めたはずなのに、マリアは狂おしいほどに来栖を求めている。
長すぎたのだ、十年は。
徹底的に避け続けた三年の間ですら、ともすれば来栖のことを考えていた。
今さら、他の男を愛するなどできるはずがない。
ましてや、婚約者を平然と洗脳しようとするようなサイコパスなど。
(逢いたい……来栖くん)
阿栖魔大明神の強烈な洗脳魔術に当てられて、マリアの意識が曖昧になっていく。




