8(死闘の前触れ)
❖同時刻/ラブホテル/来栖❖
「なんか、変」
マリアが飛び起きて、そう言った。
「……何が?」
隣の来栖は、目をこする。
「なんだか様子がおかしいんだよ。来栖くん、すぐに身支度して」
「わ、分かった」
来栖は言われたとおり、素早く身支度する。
それから二人で部屋を飛び出した。
無人の受付を横切って、ホテルの外に出る。
来栖は周囲を見渡す。
確かに変だった。
早朝とはいえ都会のど真ん中なのに、誰も歩いていないし、車も走っていないのだ。
いや、
「マリア、あれ見て!」
コンビニの中で、人が倒れている!
来栖は両目に魔力を充填し、周囲を警戒しながら店内に入る。
倒れている女性を霊視して、すぐに分かった。
女性の体内を巡る魔力が、極端に低下している。
(魔力欠乏症だ。デビルに魔力を吸い取られたのか? だとしたら、敵はどこだ?)
見渡してみれば、店内にいる数名の客や店員が全員、魔力欠乏症で倒れている。
「来栖くん、ここだけじゃない! 街全体が、同じ状態に陥ってる!」
「なんだって!?」
マリアが来栖の手を取り、羽ばたく。
二人の体が大空に舞い上がった。
上空から見下ろしてみれば、街のあちこちで人が倒れているのが見えた。
それに、事故を起こした車が多数見受けられる。
恐らく、運転中に突如魔力を吸われ、気を失ってしまったのだろう。
この異常事態の範囲は分からない。
が、少なくとも地上百メートルから見渡す限り、無事な人はいないように思われた。
「マリアは大丈夫?」
「うん。昨夜、来栖くんからたくさんもらっておいてよかったよ」
「このまま魔力を吸われ続けていたら、衰弱死する人が出てしまう。早く原因の怪異を探さないと」
「その必要はなさそうだよ」
「どういうこと?」
「あれを見て」
マリアが指差す先――さらに上空に、巨大な竜がいた。
緑色の鱗を持った、典型的な西洋風ドラゴンだ。
(Aランクデビルだって!?)
Aランクデビルとは、一体でも現れたら街が壊滅しかねない存在だ。
ドラゴン、ケルベロス、フェンリルといった伝説級の魔獣群が、これに該当する。
神戸鎮台の第七旅団員たち数千人が総出で対処すべき、国家存亡の危機である。
(……でかい)
身の丈何百メートルあるのだろうか。
あんなのに踏み潰された日には、即死は免れないだろう。
「何あれ」
「明けの明星」
来栖は直感した。
「ルシファーだ!」
ドラゴンはサタンの化身であり、ルシファーの化身でもある。
東の空では、『明けの明星』と呼ばれるビーナスが、ひときわ怪しく輝いている。
「あのジジイ」
マリアが叫んだ。
「死ぬ直前に、ルシファーを完全召喚したんだ!」
「何って?」
「魔王召喚には二段階あるの。力を大幅に抑えた『半召喚』と、すべての力を開放した『完全召喚』」
「【プレゲトン】を連発できるような天使の状態ですら、力を抑えられていたってこと!? だとしたら、あのドラゴンはどれほどの……」
街の至る所から、薄っすらとした光が立ち上り、ドラゴン・ルシファーに吸収されていく。
(あいつが街の人々の魔力を吸収してるんだ!)
――ゴァアアァアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
耳をつんざく音。
ドラゴン・ルシファーが咆哮したのだ。
次の瞬間、太陽や街の灯りが消えた。
(違う。引きずり込まれたんだ。奴のワールド・オブ・グランドシジルに!)
見渡す限り、何もない空間。
薄暗いくせに、光源もないのに辺りが見渡せる意味不明な空間。
ドラゴン・ルシファーが生み出した、ワールド・オブ・グランドデビルである。
優れたデビルは、『印章』というものを持つ。
それは魔術の術式が編み込まれた魔法陣で、Aランク以上のデビルは必ずシジルを持つ。
シジルを持つ者と持たない者とでは、魔術の威力が決定的に違う。
だが、そんな恐るべき『シジル』の上位版が、この世には存在している。
それが、『グランドシジル』。
いわく、時の流れを加速させ、数千倍の速さで動くことができる。
いわく、大都市の住民全員を魅了し、自殺にすら追い込むことができる。
いわく、無数のイナゴを召喚し、一国の食物を食い尽くさせることができる。
いわく、巨大な移動城塞と無数の自動人形を生成し、意のままに操ることができる。
そういう、いともたやすく世界を滅ぼしえる力を秘めているのが、グランドシジルなのだ。
そんな、ただでさえ危険極まりないグランドシジルには、さらに凶悪な『基本性能』が備わっている。
それが、『ワールド・オブ・グランドシジル』だ。
それは、亜空間に自分専用の空間を生み出し、敵を引きずり込めるというもの。
そしてこの能力の最も凶悪な性能が、『自分にとって都合の悪い魔術をすべて無効化できる』というもの。
つまり、ワールドに引きずり込まれた魔術師は、ありとあらゆる魔術が使えなくなるのだ。
どれほど熟練の魔術師であっても――優秀な魔術師であればあるほど――何もできなくなる。
一方、ワールドの主のほうは、自由に魔術が使える。
まさに、蟻地獄。
まさに、魔術師を殺すことに特化した空間。
それが、ワールド・オブ・グランドシジルだ。
「マリア、すぐに僕を下ろして!」
「え、なんで? あ、これってまさかワールド・オブ・グランドシジル!?」
マリアは自身の翼で空を飛ぶことができる。
だが、来栖はマリアと手をつなぐことで、マリアの【飛翔】の魔術によって空を飛んでいる。
だから、魔術を無効化されてしまった場合、来栖は落下してしまうのだ。
「重いっ」
さっそく【飛翔】が強制解除され、来栖の体重が戻った。
マリアが必死に羽ばたきながら、来栖の体を持ち上げようとする。
ドラゴンが、大きく息を吸った。
強力無比なドラゴンブレスの予備動作だ。
「マリア、僕は大丈夫だから、放せ! 狙い撃ちにされる!」
「でもっ」
「信じろ!」
「分かった!」
ブレスが来た。
地獄級火炎魔術【プレゲトン】も霞むほどの、超・超・超高温かつ強大な炎。
色は、薄っすらとした紫。
人間が可視できるギリギリの色だ。
これ以上高温な炎は、人間には視認することができない。
家庭用のガスコンロで、せいぜい二〇〇度。
人類科学史上最高効率の燃焼機関と言われるガスタービン発電機で、一五〇〇~一六〇〇度。
ひるがえって、紫色の炎は、一〇〇〇〇度を優に超える、核融合ですら到達しえない極地だ。
その、かすっただけで灰の残らず消滅するほどの熱光線を、来栖たちは間一髪で避けた。
マリアはさらなる上空へと逃れることで、来栖は百メートル下の地面に落下することで。
(――今!)
老人との戦闘で生き延びたのと同じ要領で、来栖は十三ミリリットルの魔力を駆使して百メートルからの落下を『いなした』。
「大丈夫!?」
マリアが飛び降りるような勢いで戻ってきた。
「言ったろ、信じろって」
「さっすが来栖くん! でも、これじゃ魔術が使えない」
「悪いことばかりでもないさ」
震えそうになる足を必死に奮い立たせながら、来栖は微笑んでみせた。
「ワールド・オブ・グランドシジルに引きずり込んでくれたおかげで、一般人を戦いに巻き込まずに済む」
実際、ドラゴン・ルシファーのブレス一発で、何千人もの人々が死にかねない。
連発されれば、何十万人もの死とともに、神戸が滅ぶだろう。
そしてそれは、国内最大の防疫拠点である神戸を日本が失うことであり、西欧産怪異による攻撃に対する防衛力を日本が失うことでもある。
結果、遠からず日本は滅ぶ。
そういう究極的な心労を負わずに済むのは、エクソシストの端くれとして、ありがたい限りだった。
「来栖くんのそういうお人好しなところ」
マリアが最高の笑顔を見せてくれた。
「大好きだよ!」
「じゃあ、マリアにもっと好きになってもらうために、ちょっと頑張ってみようか」
死闘が始まる。




