第4章-80話「追跡者、接近す」
麦の匂いがした。
赤土と岩礫ばかりだった南の荒野から二週間、土の色が変わった。黄みがかった砂が、黒みを帯びた耕作地に変わり、地平線の手前に低い家並みが見えている。遠目にも麦畑だと分かった。整然とした緑の縦縞が、朝の光の中に広がっている。
カゲツは街道脇の小丘から、眼下の集落を観察した。
グラーノ・ドーロ。金色の穀物、という意味の名を持つ農村。帝国と連合の緩衝地帯のさらに西、連合の支配域に入ってから最初の集落だ。規模は小さくない。家が五十軒以上。村の中央に水車小屋の影が見えた。教会の鐘楼らしき石造りの建物が一棟。街道沿いに小さな市場がある。朝の仕入れ時間が始まっているらしく、人の動きがあった。
マナ感知用の金属板を取り出した。掌に載せ、意識を集中させる。
南東方向。三日から五日前の痕跡。複数人。その中に、例の高密度反応がある。
指先が、板の上で止まった。
五日前。この集落を通過している。
金属板を革袋に戻した。フードを目深にかぶり直す。腰の短刀二振りが外套の下に収まっていることを、指で確かめた。鮫皮の柄の感触が、指に馴染む。
丘を下りた。
* * *
市場の入り口に近い井戸の縁に、男が腰を下ろしていた。
中年の農夫だった。手に小麦の穂を一本持ち、指でしごいている。作業着の肩に、泥が乾いた跡がある。今朝早くから畑に出ていたのだろう。カゲツは歩速を落とさず近づき、適度な距離で立ち止まった。
「失礼いたします」
声は低く、抑揚がなかった。農夫が顔を上げた。
「ラステルに向かっています。この先の道の具合を教えていただけると助かります」
「ラステルか」農夫は小麦の穂をしごく手を止めた。「街道をそのまま西に行けばいい。半日くらいだ。今なら昼過ぎには着ける」
「ありがとうございます。何か、道に障りになるようなことは」
「最近は変に物騒でね」農夫は少し眉を寄せた。「行き来する人間が増えた。どこの旗も持ってない連中が、ちょこちょこ通るんだ」
カゲツは相槌を打った。会話の流れに任せた。
「武装した人たちですか」
「まあ、そうだな。五日かそこら前にも、一組通った。何人かの連れがいてね——男と女と、あと子供が一人」
農夫が思い出すように天井を見た。
カゲツは表情を変えなかった。
「どんな子でしたか」
「銀の髪の女の子だよ。珍しい色だろう。フードをかぶってたんだが、脱げてたんだ。うちの倅が見て、あとで話してたよ。あんな色の髪は見たことない、ってね」
「方角は」農夫の言葉を遮らない程度のタイミングで、カゲツは続けた。「西に向かっていましたか」
「ああ、ラステル方面だな。間違いない。うちの市場に寄っていったんだ」
「市場に」
「そう。干し肉と穀物を少し買っていった。銭はちゃんと払ったよ。ちょうどうちの倅が店番をしていてね。倅が言うには——」
農夫が声を低くした。何か印象に残っていることを話す前の仕草だった。
「あの子が、花を見て笑っていたって」
カゲツの指が、外套の中で止まった。
「花」
「ああ。市場の端に、うちの女房が植えた花があってな。大した花じゃないんだ。野ばらの類の、小さい白い花。あの子が見つけて、立ち止まったんだと。で、しばらく眺めて——笑ったって」
農夫は穂をしごく手を再開した。
「倅が不思議がってたよ。何がそんなに嬉しかったのか、って。こんな道端の花に、ってな」
カゲツは短く礼を言い、市場の方に歩き始めた。
背後で農夫が「気をつけて」と言った声が、遠ざかっていく。
* * *
市場を通り抜けた。
干し肉の屋台。香辛料の山。縄と皮革を吊るした店。足が自然に進む。情報収集は終わった。次にすることは明確だ。送達地点を探し、現在の報告書を投函する。その後、ラステルへの最短経路を確認して——
足が、止まった。
端にそれがあった。石畳の際、日当たりのいい場所。小さな陶器の鉢がいくつか並んでいる。白い花。五弁の、小さな花。雑草に近い種類の、何でもない野ばら。農夫が言った通りだった。
カゲツは立ち止まり、その花を見た。
脳内で情報が整理されていた。
燐のパーティはラステルに向かっている。三日から五日前にこの集落を通過。少女の同行を複数の目撃者が確認。逃亡ルートは一貫しており、ラステルで船を取る意図と見るのが自然だ。ゲンゾウへの報告と、増援の要請。次の行動は——
白い花が、風に揺れた。
五枚の花びらが、朝の光の中で小さく動いた。道端の花。通り過ぎる人間のほとんどが気にも留めないもの。
少女は、これを見て止まった。
荒野の難民集落で聞いた声が、記憶の底から浮かび上がってきた。ジュードの声ではなく、農夫の倅が農夫に語り、農夫がカゲツに語った言葉として、二重に遠ざかった声。それでも内容は同じだった。
あの子が笑っていた。
荒野の街道で、難民集落のそばで、笑っていた。今度は麦畑の農村の市場の端で、野ばらを見て、笑っていた。
入力された情報は即座に分析され、任務との関連性を判定され、保持か破棄かが決定される。訓練で叩き込まれた手順。前回は「少女の精神状態は安定と推定」という文言に変換できた。今回も同じにするべきだった。
できなかった。
一度目の証言は、処理できなかった。分析の枠組みに収まらなかった、と記憶している。それが今、二度目だった。一度目と同じ情報が、別の場所から来た。別の証言者から。
なぜ処理できないのか、を考えた。
少女の精神状態が安定していること自体は、任務に関係する情報だ。逃亡者が精神的に安定していれば、行動が予測しやすくなる。理にかなった関心だ。だから記録した。報告した。
それは正しい。
だが、それだけではない、ということに——今、気づいた。
カゲツの目が花の上にあった。外套の下で指が伸びて、花びらの一枚に届きそうになった。届かなかった。届かせなかった。理由は分からなかった。
白い花が、もう一度揺れた。
少女が、この花を見て、笑った。
兵器が花を見て笑う理由が、カゲツには分からなかった。いや——分からないのはそこではない、とも感じた。分からないのは別のことだった。うまく言語化できなかった。ゲンゾウの指示書には「被検体」と書いてあった。皇帝直轄機関の命令書には「確保し、引き渡せ」と書いてあった。
花を見て笑う「被検体」。
その二つが、同じものを指しているかどうか、カゲツには判断ができなかった。
革袋の中の金属板を、外套の上から指で触れた。マナ反応の密度を思い出した。測定器具が示した数値。あれが戦略級に匹敵すると、最初に気づいた時の感覚。「想定を超えている」と判断した。
想定を超えているのは、マナ反応だけではないかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、カゲツは歩き始めた。
市場を抜け、西に向かう街道に出た。足を止めずに歩く。ラステルまで半日。午後には到達できる。急ぐ理由が、また一つ増えた。
ただ追跡の確信と急ぎ方だけが変わったのではない、ということは、カゲツ自身にも分かった。何かが、変わりつつあった。
何が変わったのか、を問う前に——足が砂利道を踏み続けた。
* * *
街道の二時間後、カゲツは脚を止めた。
腰の革袋から金属板を出した。今度は追跡のためではなく、計測のためだった。板を水平に保ち、両手で支える。意識を集中させる。こめかみの奥に針の先ほどの圧迫感。
金属板の表面が、熱くなった。
熱ではなかった。熱に似た何かだった。表面の格子状の刻印が、細かく振動するような感触。マナの変動を感知した時の反応とは違う。もっと大きな、帯域の広い揺れ。
カゲツは板を両手でしっかり握り、計測を続けた。
方角は西。ラステルの方向。
密度が、増えた。
数秒だった。急速に高まって、急速に収束した。一瞬だけ、金属板の表面が指先に焼きつくように熱くなり——それが消えた。後に残ったのは、微かな残留痕跡だった。
カゲツは板を革袋に戻した。掌の内側に、熱の記憶だけが残っていた。
戦略級のマナ変動。
ポルタ・ルイナ遺跡で測定した残留痕跡の密度を、大幅に上回る。あの時は五日以上前の残留だった。今のは、ほぼ現在に近い発生だ。ラステルの方角で、たった今、何かが起きた。
数秒で判断した。
足が動いた。歩法が変わった。音を消す慎重な歩き方から、速度優先の走法へ。外套が翻った。砂利道が靴底の下で速く流れていく。
ラステルへ。
送達地点での報告書投函は、後にする。今すぐ動く必要がある。道具として判断するならそれが正解だ。増援を待つのが合理的だが、情報を取るためには接近しなければならない。
走りながら、カゲツは別のことも考えていた。
あの少女は……何者だ。
ゲンゾウの指示書にある「被検体」という言葉が、白い花と笑顔の情報と並んで、脳裏で揺れていた。二つが同じ対象を指しているとすれば、何かが——根本的に、何かが——
考えを途中で停止させた。
道具は考えない。道具は遂行する。
それが御名方の訓練で叩き込まれた原則だった。カゲツはその原則を守り続けてきた。だが今、原則を繰り返すことで何かを抑えようとしている、という気づきがあった。
抑える必要があるものが、そこにある。
それが何かは、まだ言語化できなかった。
足が速くなった。街道の地平線の先に、海の光が見え始めた。
* * *
ラステルの城壁が、夕暮れの光の中に浮かびあがっていた。
外壁の高さが十メートル近い。石積みの古い城壁で、数箇所に修繕の跡がある。城門の前に衛兵が二名。旅人の出入りを確認している。
ヴァルドは馬を止め、城門を遠目に見た。
灰色の目が、城門の前を行き交う人の流れを読んだ。商人の荷車が一台、列を作って待っている。その後ろに、巡礼者の集団が数名。衛兵は荷物を軽く確認しているが、止めて詳しく調べる様子はない。
後ろでゼルギウスが馬を寄せた。
「閣下、先行した六名がすでに入城しています。先ほど連絡が来ました」
「場所は」
「港の西側の宿に分散しています。身分は商人と巡礼者で装っています」
「問題はないか」
「今のところは」
ヴァルドは視線を城門から港の方角に向けた。城壁の上から帆柱の先端が見えた。複数の船が停泊しているようだった。海の匂いが風に混じっている。潮と、魚と、焦げた木の匂い。港町特有の空気。
「マリウスは」
「聖堂に詰めているようです。主席審問官から先行連絡が来ていました。六日間、少女の観察を継続中、接触はしていない、との報告です」
「猊下には確認したか」
「観察のみという命令は変わっていません」
ヴァルドは一度、鼻から短い息を吐いた。
馬を進めた。ゆっくりと、城門に向かって。
衛兵が二人を見た。ヴァルドは法衣の内側から旅の証明書を出した。聖教の印章が押されている。衛兵が一瞥して、通した。
城門をくぐった。
石畳の通りが続いている。商店の列。荷物を運ぶ人。路地の角で老人が座っている。普通の港町の夕方だった。ヴァルドはそれを見ながら、馬を歩かせた。
「閣下、宿はどうされますか」
「精鋭たちと同じ場所は使わない。別に取れ」
「承知しました」
ヴァルドは先を見た。石畳の通りが緩やかに下り、その先に港の灯りが見え始めていた。夕方になって、港の漁船が戻ってくる時間帯だ。船の上で炎が揺れている。岸壁に沿って並ぶ篝火が、一つ一つ点灯されていく。
馬を止めた。
ゼルギウスも止まった。
「閣下?」
ヴァルドは港の灯りを見ていた。目を細めた。
風が、この町の空気を運んできた。潮の匂いの中に、微かに何かが混じっている。人々の暮らしの熱気でも、料理の匂いでもない。もっと薄い、皮膚の感覚に近い何か。
ここにいる。
ヴァルドには分からなかった——それが確信なのか、確認なのか。グレゴリウスの書面にある「原初の闇の発現体」が、この町のどこかにいる。それを言葉として知っているからそう感じるのか。それとも、ゼルギウスが聖炎を当てた時に感じた「吸われる感覚」を、今また、遠くから皮膚が読み取っているのか。
どちらでもよかった。
「着いたぞ」
ゼルギウスへの言葉だった。それだけだった。
馬が石畳を踏む音が、港の灯りの方向に向かっていく。篝火が一つ増え、岸壁の端まで光が伸びた。
ヴァルドは灯りの連なりを目で追いながら、馬を進めた。




