第4章-79話「火矢の夜明け」
夜明け前の峡谷は、息をひそめていた。
崖の縁に伏せたカイは、腹の下の岩の冷たさを感じながら、谷底の街道を見つめていた。視界は暗い。松明は消してある。目が慣れると、街道の白い砂利が月明かりを反射して薄く光って見えた。百メートル下。馬車が通るにはちょうどいい幅の、一本道だ。
風の匂いが変わった。乾いた砂と岩の匂い。雨季の湿りはもうない。第七月の峡谷はすでに乾燥の季節に入っていた。石の隙間に顔を伏せると、岩の冷たさが頬に沁みた。乾いた草の匂い。遠い焚き火の煙。こういう匂いの夜は帝国の車列が動きやすい。セレスがそう教えてくれた。
「両翼、位置確認」
カイは低く囁いた。左右に伏せた二名が、無言で拳を上げた。既存の伏撃隊員、ヴォルフとマルクスだ。彼らの動きはなめらかで、崖の上に溶けているように見えた。三日前まで毎日訓練した成果だ。合図から動き出すまでの時間が、もう三秒縮まっている。
問題は右端だった。
傭兵のゴードンが伏せている位置から、微かな金属音がした。鎧の当たる音。カイの眉が動いた。ゴードンが手を上げて謝罪の合図を送ってくる。赤毛が月明かりに光った。その後ろで、傭兵のハンナが弓を構え直している。石の上に腰を据えるための小さな動き。それもカイの耳に届いた。
まだだ。まだ十分には仕上がっていない。
十日間の訓練で、傭兵たちの動きは絞られた。音が半分以下になった。反応速度は上がった。しかし正規の伏撃隊員との差は縮まったが消えていない。ヴォルフの無音の歩行には遠い。何より、実戦特有の緊張で訓練と異なる反応が出ることは分かっていた。
ただ、それでも今夜やるしかなかった。
帝国の攻勢が近い。セレスの分析では二週間を切っている。今夜の車列を逃せば、次はいつ来るか分からない。
* * *
作戦の打ち合わせは、前日の午後にやった。
詰所の壁に配置図を広げ、カイ、ゴードン、ヴォルフの三人で一時間以上かけて確認した。
「落とし穴の深さは一メートル五十。馬車の車軸が入れば動けなくなる。そこに火矢を集中する」
「馬は逃がさないのか」
ゴードンが腕を組んだ。太い腕だ。古い刀傷の痕が、革鎧の袖口から覗いている。
「馬は関係ない。荷台を焼けばいい。馬は結局帝国に戻るが、荷物が燃えれば補給は止まる」
「なるほどな。合理的だ」
「ゴードンの部隊は右翼。合図は煙火だ。一発目で仕掛ける。二発目で撤退する。撤退を迷ったら全員死ぬ。二発目が上がった瞬間に走れ」
「分かってる」
「分かってるじゃ足りない。昨日の訓練でも、三名が一拍遅れた。実戦で一拍は致命傷になる」
ゴードンが口を閉じた。反論したかったのかもしれないが、カイの目を見て思いとどまったようだった。
「……俺が遅れたら、どうする」
「諦めて走る。お前一人のために残ったら、二十人全員が死ぬ。それはお前も望まないだろう」
沈黙が落ちた。ゴードンが顎を撫でた。
「坊主。お前はずいぶんはっきり言うな」
「言わないと死ぬからだ」
ゴードンが笑った。口の端を上げる、値踏みする笑いではなく、どこか楽しそうな笑い方だった。
「気に入った。で、俺の弓兵の配置だが、右翼の崖が急すぎる。ハンナは石の上が苦手だ。もう少し内側に入れてくれないか」
「ヴォルフ、どうだ」
ヴォルフが地図を指でなぞった。細い指が、崖の線を辿る。
「ここに岩の出っ張りがある。二メートル後退すれば、射角は落ちるが足場は安定します。代わりに荷馬車の後方が死角になる」
「前方集中でいい。後方の護衛が逃げるのは構わない」
「了解です」
「右翼の位置取りだけ、もう一回確認しておきましょう。崖の角度が少し違います」
その通りだった。右翼の崖は傾斜が急で、傭兵たちが慣れていない地形だった。カイは地図を広げ直し、もう三十分かけた。ゴードンが文句一つ言わずに聞いていた。それが意外だった。
「……何だ」
カイが顔を上げると、ゴードンが口の端を上げていた。
「なんでもない。坊主が細かいから、感心してた」
「細かくないと死ぬ」
「また同じことを言う」
「事実だから」
ゴードンが鼻から息を吐いた。笑い交じりの短い吐息だった。
* * *
谷底に音がした。
馬の蹄。車輪の軋み。カイは息を止めた。
二両だ。荷馬車が二両、護衛に囲まれて街道を進んでくる。松明を持った兵が先頭に五名。荷馬車の左右にそれぞれ十名以上。後衛にも見える。計四十名以上。セレスの事前報告と一致している。護衛の歩き方が規則的で、訓練された動きだった。前回の伏撃より明らかに練度が高い。帝国は学習した。
先頭の荷馬車が落とし穴の手前二十メートルに差しかかった。カイは煙火の紐を握った。指が汗ばんでいる。岩の冷たさが腹の下から伝わってくる。心臓の音が聞こえる気がした。
十五メートル。
十メートル。
五メートル。
落ちた。
先頭の荷馬車の右前輪が穴にはまり、一瞬遅れて車体が傾いた。悲鳴のような木の割れる音が峡谷に響いた。護衛の兵が叫ぶ声。馬が嘶いた。後続の二両目が急停止した。護衛たちが慌てて散開し、周囲を警戒し始める。
カイは煙火に火をつけた。
一発目。
橙色の火花が闇に弾けた。
右翼から矢が降った。火矢だ。七本、八本が荷台の幌を貫いた。炎が上がった。帝国の荷馬車が燃えている。二両目の荷馬車の御者が飛び降りた。護衛が盾を構えながら隊形を整え始めた。
「持て!」
ゴードンの声が崖の上に上がった。
大きすぎた。
カイの腹の底が一瞬で冷えた。
帝国の弓兵が崖を見上げた。松明の光が崖に向いた。数名が弓を取り出した。照準が上がってくる。
矢が来た。
石壁をかすめる硬い音。風を切る音。カイの隣で、マルクスが低い声で「くっ」と言った。肩口に矢が刺さっていた。
「二発目!」
カイは叫んだ。
二発目の煙火を上げた。橙色の光が闇に弾けた。全員が動き始めた。崖の縁から一気に後退する。走る。足音は消せない。消すより速く動く。石畳に靴底が当たる音。革鎧の擦れる音。
右翼から叫び声が上がった。
カイが振り返ると、ゴードンの部下が一人、崖の縁で立ち止まっていた。男が崩れた。膝をついた。弓矢が右太ももに刺さっている。足が動かない。男の顔が青ざめている。ゴードンが走り戻り、男の腕を掴んで担ぎ上げた。一瞬の判断だった。
「ゴードン、走れ——!」
カイは叫びながら走った。ゴードンが男を担いで走っている。速い。荷物があっても速い。さすがに傭兵だった。
谷底から弓矢の音が続いた。石壁に弾け散る音。一本が足元の地面に刺さった。カイは跳び越えて走り続けた。崖の角を曲がる。
撤退路に入った。両側に岩壁が迫る、狭い獣道だ。帝国の矢は届かない。
カイは走りながら、後ろを数えた。
十七、十八、十九。
二十。全員いる。
* * *
砦の詰所に戻ったのは夜明けだった。
医療班がすでに待ち構えていた。ゲルトが手配していたのかもしれない。入ってくる隊員を次々と確認し、負傷者を誘導した。
マルクスの肩の矢を医療班が抜いていた。骨には当たっていないと言った。痛みを堪えるマルクスが、「大したことじゃないです」と絞り出す声で言った。嘘だと分かったが、カイは何も言わなかった。代わりに、マルクスの肩に一度だけ手を置いた。
ゴードンの部下、フィンという名の若い傭兵は重傷だった。右太ももを深く抉られていて、医療班が止血に手間取っていた。フィンは声を出さなかった。出せないのか、出さないでいるのか、カイには判断できなかった。ゴードンの仲間が廊下の外に集まって、扉の向こうを見ていた。声を出すでもなく、ただ立っている。
カイは壁に寄りかかって、詰所の外を見ていた。夜明けの空が白んでいた。空の色が灰から薄い青に変わっていく。ゆっくりと、止められない速さで。峡谷の向こうに、燃えた荷馬車の煙がまだ細く上がっているのが見えた。補給路は少し傷ついた。そして二人が傷ついた。
「坊主」
ゴードンが隣に来た。水筒を差し出した。カイは受け取って一口飲んだ。水の味がした。何も混じっていない、ただの水だった。
「フィンは」
「死なない。足は残るか分からないが、生きる」
ゴードンの声は平坦だった。報告するような声だった。それでいて、その声の底に何かが沈んでいるのをカイは感じた。水筒を持つゴードンの手が、普段より僅かに強く握られていた。
「申し訳なかった」
「謝るな。そういう仕事だ」
「ゴードンの声が上がった。大きすぎた」
カイが言うと、ゴードンが黙った。顔をしかめた。
「……そうだな」
「実戦で声を出す癖が出た。俺の訓練の詰めが足りなかった」
「俺の癖だ。坊主のせいじゃない」
「どっちもだ」
沈黙が落ちた。ゴードンが水筒を受け取り、自分も一口飲んだ。詰所の外で誰かが話している声が聞こえた。医療班の指示する声。傭兵の仲間が廊下に集まっているようだった。
「で、今日の成果は」
「二両に四割の火災被害。後方への補給は少し遅れる。大きくはない」
「こっちは二名負傷。釣り合いが悪いんじゃないか」
「悪い」
カイは認めた。ゴードンが眉を上げた。
「認めるのか、あっさりと」
「事実だから。二両で二名負傷は、今の練度では割が合わない。傭兵と既存の斥候隊を、同じペースで動かせると思ったのが間違いだった」
「じゃあどうする」
「混成チームの動きを一から見直す。傭兵が得意なのは正面の火力だ。音を消す動きじゃない。その強みを活かせる形にしないと、お前たちを無駄に消耗させるだけだ。今日がその答えを教えてくれた」
ゴードンが腕を組んだ。しばらく黙って、カイの顔を見ていた。
「坊主、お前……思ったより折れないな」
「何が」
「失敗したら落ち込むかと思った。若い指揮官はそういうもんだ。俺がいくつかの部隊で見てきた中でも、初陣の後に自分を責め続けた隊長が三人いた。全員次の戦いで判断が遅くなった」
「落ち込む前に次の手を考えた方が早い。落ち込んでいる間に帝国は動く」
ゴードンが鼻から息を吐いた。短い、乾いた笑いだった。
「赤毛が遅かっただろう。声を上げた後で」
カイが少し間を置いた。
「自分のことを言ってるのか」
「他に誰がいる」
今度はカイが少し笑った。意図していなかった笑いだった。腹の底から出てきた、疲れた笑いだった。
「思った」
「正直だな」
「事実だから」
「あー、そうか。坊主はそういう奴だな」
ゴードンが立ち上がった。革鎧の肩を回しながら、詰所の出口に向かった。扉の前で一度止まった。
「フィンが動けるようになったら、また組み直してくれ。俺の奴らは、使い方さえ合えばちゃんと動く。火力で言えば、今の斥候隊の倍以上を出せる」
「分かった。頼む」
ゴードンが手を上げた。それだけで、出て行った。
扉が閉まった。廊下に足音が遠ざかっていく。革鎧の擦れる音。ゴードンが仲間のところに戻っていく音。
カイは椅子に腰を下ろした。両肘をテーブルについて、顔を手のひらで覆った。三秒、数えた。それから手を離して、手帳を開いた。
書かなければならないことがある。
* * *
昼前、セレスが来た。
カイが一人で訓練記録を書き直していると、扉が開いた。振り返ると、セレスが入り口に立っている。外套の裾が埃をかぶっていた。夜通し峡谷に出ていたのかもしれない。袖を肘まで捲り上げていて、手首に細い引っ掻き傷がある。岩の角に当たった跡だ。
「カイ」
「ああ。何か」
「通信。増えた」
セレスが短冊形の紙片をテーブルに置いた。記号の列が三段に並んでいる。見慣れた帝国の暗号配列だ。
「通信量。跳ね上がった」
「昨日の伏撃の報復か」
「それだけじゃない。後方との往復が多い」
「どういうことだ」
「天候回復が早い。攻勢準備、前倒し」
カイの手が止まった。手帳の上のペンが、宙に止まった。
「いつだ」
「第七月に入ったら、いつでも動ける状態にある。今月の後半」
今月の後半。今は第七月の第一週。二週間もない。カイは息を吐いた。窓の外の空が、午前の白い光を帯びていた。
「ゲルト殿に報告するか」
「うん」
「ありがとう、セレス」
セレスは頷いた。出ていく前に、一度振り返った。
「今日、よかった」
それだけだった。カイが「何が」と訊く前に、扉が閉まった。
足音がほとんどしない。廊下に消えていく。
カイは手帳を見た。今日の記録を書き直している途中だった。右上に、今日の日付が書いてある。第七月、七日目。
よかった、とセレスは言った。二名負傷で、成果は補給路に二割程度の遅延をかけただけだ。客観的には失敗に近い。それでも彼女がそう言うなら、何かがあったのだろう。
何が。
全員生きて帰った。それだけかもしれなかった。
* * *
夕刻にゲルトに報告した。
セレスの情報と今日の伏撃の結果を両方伝えた。ゲルトは椅子に座ったまま、腕を組んで聞いていた。机の上の配置図に目を落とし、カイが話す間ずっと指で線をなぞっていた。報告が終わると、しばらく黙った。
「第七月後半か」
「はい」
「傭兵との混成は」
「仕切り直しです。動き方を根本から変えます。傭兵の強みは火力と突貫だ。音を消す伏撃には向いていない。正面の囮陽動と、火矢担当を分けた方がいい。一度やってみれば体で分かる。今日がそれでした」
ゲルトが顎を動かした。
「今日の伏撃は、必要な失敗だったということか」
「それを今日学ぶか、もっと大事な局面で学ぶかの違いだと思います。今日で良かったと思っています」
ゲルトが目を細めた。
「バルカス隊長と似たようなことを言うな」
カイの胸の奥が動いた。何か言おうとして、口を閉じた。ゲルトが続けた。
「悪い意味じゃない。お前が育っているということだ」
「……はい」
「第七月後半まで、残り二週間を切った。伏撃チームの組み直しに三日使え。四日目から実戦に戻す。急ぐな。丁寧にやれ」
「承知しました」
「マルクスとフィンの状態は定期的に報告しろ。フィンが動けるようになるタイミングは俺が直接判断する。ゴードンとの調整もお前がやれ。間に入るな。直接話せ」
「はい」
立ち上がって出ようとしたとき、ゲルトが言った。
「今日、全員生きて帰ってきた。それは忘れるな」
カイは振り返らなかった。
「忘れません」
* * *
夜になった。
壁の上に出た。
風が肌を撫でた。乾いた風。第七月の風はもう完全に雨季の匂いをしていない。岩と砂と、遠い草原の匂い。石壁の表面が昼間の熱を保っていて、手をつくと温かかった。季節が変わった。
峡谷の向こうは暗く、帝国の封鎖線の灯りが点々と見えた。三十、四十。先月より増えている。蛍のような小さな光が、稜線に沿って並んでいる。向こうでも誰かが夜の番をしている。
星が出ていた。
カイは星を見上げた。雲が少ない。バルカスが教えてくれた北の星座が、ほぼ全部見えていた。尻尾が長く、二つの前足を広げた形をしている。バルカスは「古い猟師の星座だ。獲物を待っている」と言っていた。「猟師が待つのは、焦ったら獲物が逃げるからだ。指揮官も同じだ」とも言った。
今日の伏撃を思い返した。
二名負傷。マルクスの肩。フィンの脚。火矢が荷台の幌を貫く瞬間の橙色の炎。ゴードンが怪我人を担いで走る背中。二発目の煙火が闇に弾けた光。
全員生きて帰った。
それは事実だ。ただ、フィンの脚が残るかどうかはまだ分からない。医療班は「最善を尽くす」と言った。最善がどこまでかも分からない。フィンは声を出さなかった。
カイは星に向かって、声に出して言った。
「隊長、俺たちは……やれてますか?」
風が吹いた。答えはなかった。当然だった。バルカスは今頃、西の海に向かっているはずだ。セレスの言葉によれば、燐殿たちは港町のどこかにいる。砦の壁の上に立っているカイには届かない。
聞こえるはずがない。
それでも、カイは星を見続けた。北の猟師が獲物を待っているように。答えを待つのではなく、ただ問い続けることそのものが、今の自分にできる唯一のことのような気がした。
二週間。
第七月後半になれば帝国が動く。その前に伏撃チームを仕上げなければならない。傭兵との混成を組み直し、フィンが動けるようになるのを待ち、ゴードンと直接話し、セレスの情報を拾い続ける。一つずつやるしかない。
壁の下で、篝火の音がした。薪が爆ぜる音。傭兵の誰かが火の番をしている。時折、低い笑い声と話し声。知らない言葉が混じっている。北の出身の傭兵は方言が強い。砦の夜は賑やかになった。三千の人間が息をしている音だ。
カイは目を閉じた。バルカスの顔を思い浮かべようとした。どんな顔をしていたか。真顔が多かった。でも、訓練場で「お前は無茶の仕方を知っている」と言った時、口の端がほんの少し上がっていた。あれが笑顔だったのだろうと今は思う。そう思うしかない。
壁の石が風に冷えていく。手のひらに当たる岩の感触が変わった。昼間の熱が抜けると、石はただの石に戻る。
星を見上げた。
「やってみます」
声は低く、壁を吹く風に溶けた。宣言でも報告でもなかった。バルカスへの、声に出さなければ保てない約束だった。
篝火の音が続いている。傭兵の歌声が混じった。聞いたことのない節回しだが、どこかで聞いたような懐かしさがある。遠い場所で生まれた歌だ。誰かの故郷の歌が、砦の夜を満たしている。
ゴードンが言っていた。「俺の奴らは、使い方さえ合えばちゃんと動く」と。今日、それを証明しようとして、二人が傷ついた。証明できたのかどうかも、まだ分からない。次の伏撃で証明する。それしかない。
風が吹いた。星が光っている。カイは壁の上に残った。答えのない夜が、ゆっくりと深くなっていく。




