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第4章-78話「信仰と真実の間」

 夜明け前の港は霧が深い。


 石畳の上に白い水蒸気が這い、二メートル先の輪郭が滲んだ。波の音が霧に包まれ、どこか遠くから届くように聞こえる。岸壁に繋がれた船が揺れ、索具が低く唸っていた。


 マリウスは宿屋の向かいの路地に立っていた。


 民家の壁に背を預けている。法衣の胸元に畳んだ薄い紙が入っていた。今朝六時の観察記録。少女の散歩は毎朝七時前後。港に向かって東の路地を下る。護衛の男は一人、五歩後ろ。もう一人は宿屋の窓から見ている。宿屋の出入り口は二つ。正面と、厨房に続く裏口。厨房の窓は夜間に閉まる。


 六日で掴んだ情報だった。


 マリウスの目は宿屋の正面扉に向いていた。霧の中でも、扉の形は見える。朝の光が石畳に落ちる前、まだ街灯の油が燃え残っている時間帯。この時間に少女は動かない。分かっていた。それでも目が離せない。


 何故か、と問えば答えは一つだった。


 穢れの痕跡が近い。


 この六日で、マリウスは何度かその痕跡を感じた。最初は宿屋の前を通りかかった時。次は市場で、少女の背中が見えた瞬間。異端審問官として十三年、研ぎ澄まされた感覚が告げる。あの少女の内側に、何かがある。聖炎が届かないだけではない。聖炎を吸い込む何かが、まるで穴のように宿っている。


 マリウスは白い息を一つ吐いた。


 報告書は書いた。昨夜、宿房の机で三時間かけた。少女の行動記録、護衛の配置、宿屋の構造、聖堂の避難民施設との位置関係。グレゴリウス猊下の求める情報を、全て丁寧に記した。


 ただ一つを除いて。


 ペンを置いた時、マリウスは紙の上の最後の一行を眺めていた。その一行は書かれていなかった。書けなかった。「穢れの発現は確認。聖炎無効化能力の痕跡あり。浄化は可能と判断す」——書けば、猊下は次の指示を出すだろう。「観察のみ」の命令が「接触不可」に変わるかもしれない。あるいは証拠不十分として却下されるかもしれない。


 いずれにせよ、時間がかかる。


 マリウスは霧の中の宿屋の扉を見つめながら、舌の裏で祈りの一節を唱えた。神の意志は、遅れない。人の行政手続きが遅れるだけだ。


* * *


 八時過ぎ、少女と護衛の女が市場に向かった。


 マリウスは五十歩の距離を保ちながら、後をつけた。巡礼者が市場を歩くのは不自然ではない。帳簿を持ち歩く仕入れ係の格好でもなく、香辛料売りの格好でもない。普通の法衣と、小さな革袋。手には何もない。


 少女が立ち止まった場所を、マリウスは後で確認するために目に刻んだ。柑橘の屋台。香辛料の並んだ一角。魚屋の区画の手前で足がすくんだこと。その瞬間に、マリウスの感覚が鋭くなった。


 あの時だ。


 少女の体から、何かが揺れた。マナの乱れ、とも言い切れない微かな変動。聖炎が反応を示す、暗の気配。それがほんの一瞬、少女の輪郭に滲んだように見えた。見えたというより、感じた。審問官の訓練で研ぎ澄ました第六の感覚が、鈍く警鐘を鳴らした。


 護衛の女が少女を引いて、果物屋の前まで連れた。少女が立ち直るまで、数分かかった。


 マリウスはその一部始終を、六軒先の布地屋の前から見ていた。


 神の意志を肌で感じる時の、あの確信だった。


 穢れた魂は必ず自らを示す。生き物の血の匂いに反応した。それが証拠だ。吸血の衝動が、あの小さな体に宿っている。原初の闇の最も根源的な性質が。グレゴリウス猊下が「発現体」と呼んだものは、観念ではない。今ここに、この港町に、実在する。


 マリウスは布地屋の入り口の影から離れ、巡礼者の歩き方で市場を横切った。聖堂に戻る途中、石畳の角で一度だけ振り返った。


 少女の背中が見えた。


 小さかった。その小ささが、マリウスには何の意味も持たなかった。穢れは大きさで測れない。毒は一滴で命を奪う。神の正義は体格を選ばない。


「浄化しなければ」


 声にした時、霧の中にその言葉が消えた。


* * *


 その頃、ラステルから一日半の距離を、二騎が進んでいた。


 街道は海沿いを通り、右手に崖と波濤が続いている。雨季の雲が薄くなりかけていたが、まだ空は白く、遠くに見える海は灰色だった。馬の蹄が岩盤の道を叩き、潮の匂いが混じった風が正面から当たる。


 先頭を行く騎士は体格が大きく、鎧を脱いで簡素な旅装だった。それでも、その体に染みついた何かが通常の旅人と区別させた。姿勢か、視線の向け方か。


 後ろを走る若い騎士が、並んだ。


「ヴァルド閣下」


 先頭の男が応えなかった。海の方を見ていた。


「閣下」


「聞こえた」


 返事は短かった。声に疲労の色はない。感情もない。事実だけがある。


 ゼルギウスは馬の速度を合わせ、少し間を置いてから言った。


「残り二日で着きます」


「分かってる」


「後続の精鋭六名は半日遅れです。合流地点は」


「指示した通りだ」


 ゼルギウスは頷いた。報告事項の確認は終わった。それが分かっていても、馬の速度を落とさなかった。別のことを言わなければならなかった。三日間、言えていなかった。


「閣下」


「まだあるか」


「……一つだけ」


 ヴァルドが馬の手綱を引いた。速度が落ちる。崖の端に風が吹いて、馬の鬣が揺れた。ゼルギウスも速度を落とし、二騎が並ぶ形になった。


 ヴァルドがゼルギウスを見た。横顔だけ向けた。それだけだった。


「遺跡で」


 ゼルギウスが言い始めて、一瞬止まった。止めてはいけない、と分かっていた。


「遺跡で……あの子に聖炎を放ちました」


 ヴァルドの表情が変わらなかった。変わらなかった、ということを、ゼルギウスは見ていた。


「効きませんでした」


 崖の下で波が砕けた。一呼吸分の間が、二人の間にあった。


「知っている」


 ヴァルドが言った。


「報告書は読んだ」


「はい。ですが——」


「言いたいことがあるなら言え」


 命令ではなく、許可だった。ゼルギウスには分かった。ヴァルドが何かを待っている声だった。


「私は……聖炎が届かないことがある、とは思っていませんでした」


 言葉が出てきた。止めたかったが、出てきた。


「これまで、闇に堕ちた者に聖炎を当てれば、必ず届きました。当たり前のことでした。神の力は、穢れに効く。それが——揺らぎました」


 ヴァルドは何も言わなかった。


「届かなかったのです。あの子の前で、私の炎は……消えました。弾かれた、とも違います。吸われたような感覚でした。聖炎が触れた瞬間、あの子は痛そうにしていませんでした。怯えてはいましたが、聖炎の痛みではなく——私への恐怖だったと、今になって思います」


 馬が歩き続けていた。ゼルギウスは手綱を握り直した。


「信仰は正しい、と思っています。今も。ですが……あの時の感覚が、頭から離れません。聖炎が届かなかったという事実が」


「それは感傷か」


 ヴァルドが言った。


「感傷……ではないと、思います。事実の確認です」


「事実」


「はい。あの子に聖炎は届かない。それが事実です。なぜ届かないかを、私はまだ理解していません」


 ヴァルドが鼻から短い息を吐いた。馬が崖の突き出た箇所を避け、内側に寄った。


「グレゴリウス猊下は何と言った」


「『原初の闇の発現体』と。聖炎を超えた存在である、と。だからこそ閣下が——」


「それが猊下の解釈だ」


 ゼルギウスが目を向けた。ヴァルドは前を見ていた。


「猊下の解釈は聞いた。俺が言っているのは、お前の話だ」


「……私の、話ですか」


「お前自身は、どう解釈する」


 ゼルギウスは少し沈黙した。


「分かりません。猊下の解釈が間違いとは言えません。ですが、正しいとも——今の私には、言えません」


「それが正直な答えだ」


 ヴァルドが言った。断定だったが、咎めではなかった。


「閣下は」


 ゼルギウスが言いかけた。


「俺が何だ」


「閣下は……あの子が、何だと思っておいでですか」


 今度の沈黙は長かった。波の音が三回分、あった。


「まだ分からん」


 ヴァルドが言った。


「だから会いに行く」


* * *


 街道が海から離れ、低い丘の間に入った。


 風が弱くなった。木の葉が動かず、馬の足音だけが砂利道を踏む音に変わった。ゼルギウスは手綱を持ったまま、前を行くヴァルドの背中を見ていた。


 広くはなかった。肩幅は並の騎士と変わらない。それでも、あの背中の前に立った時の圧力は尋常ではなかった。敵としてでも味方としてでも。ゼルギウスはそれを知っていた。聖罰騎士団に配属される前から、名前は聞いていた。ヴァルド・シュトライヒャー。聖罰騎士団長。


 今のヴァルドを、ゼルギウスは観察していた。


 この三ヶ月で、変わったものがある。疲労ではない。ヴァルドは疲れを顔に出さない。変わったのは目の奥の何かだった。グレゴリウス猊下と話す時と、それ以外の時間に、僅かに違う。遺跡の報告書を読んだ夜、ヴァルドは一時間、窓の外を見ていた。何を考えていたのか、ゼルギウスには分からなかった。


「ゼルギウス」


 唐突にヴァルドが呼んだ。


「はい」


「さっきの話は」


「はい」


「俺だけに言っておけ」


 ゼルギウスは背筋が伸びた。


「承知しました」


「報告書に書くな。事実の確認だ。それで十分だ」


「……はい、閣下」


 少し間があった。


「閣下」


「何だ」


「なぜ、私に……」


「続けろ」


「なぜ、私にそのようなことをおっしゃるのですか。命令であれば、報告書に書くなとだけ言えばよいはずです。ですが閣下は、私の話を聞いてくださいました」


 ヴァルドが答えなかった。前を向いたまま、馬が進んだ。


「閣下も——」


「よせ」


 声が遮った。


「余計なことを言うな」


 ゼルギウスは口を閉じた。遮られて、安堵した。言ってしまえば、引き返せなくなる言葉があった。それを、ヴァルドは遮った。


 二騎は黙って進んだ。丘の間の街道は静かで、鳥の声だけがある。


 ラステルまで、あと一日半。


* * *


 日が落ちた頃、ヴァルドは街道脇の岩に腰を下ろし、地図を広げた。


 焚き火の小さな光が羊皮紙の上に落ちている。ゼルギウスが少し離れた場所で馬の世話をしている。音が聞こえた。馬の嘶き、水を飲む音、ゼルギウスが低い声で何かを言う声。


 地図の上にラステルがある。港町の印。その周囲に、いくつかの記号が書き込んであった。情報提供者の位置、聖堂の位置、避難民救護施設の位置。グレゴリウス猊下が書面で知らせてきた情報だ。


 ヴァルドは地図を眺めた。眺めながら、別のことを考えていた。


 遺跡の報告書を三回読んだ。ゼルギウスの証言の部分を中心に。聖炎が届かなかった。吸われた感覚。痛がっていなかった。


 グレゴリウス猊下は「原初の闇の発現体」と名付けた。原初の闇とは、神話の記述の中にある創世以前の虚無だ。信仰の敵対概念として経典に記された、抽象的な悪の根源。猊下はそれに、銀髪の少女という具体的な顔を与えた。


 ヴァルドはそれを受け取った。受け取って、ここまで来た。だが遺跡でゼルギウスが聖炎を放った時の記述を読むたびに、何かが引っかかる。


 拭えない問いが一つある。


 猊下は、全ての情報を持っているか。


 聖教の大司教が持つ情報と、現場にいた人間が持つ情報は、同じではない。報告書は事実の一部だ。ゼルギウスが感じた「吸われた感覚」は、報告書に書かれていなかった。今日、初めて聞いた。


 ヴァルドは地図を畳んだ。


 焚き火が風に揺れた。煙が流れ、遠ざかった。星が出ている。雲の切れ目から、一つ、二つ。ラステルの方角の空が、わずかに明るい。港町の灯りが霧に反射しているのかもしれない。


「閣下」


 ゼルギウスが近づいてきた。


「馬の水を確保しました。明朝の分もあります」


「よし」


「お食事は」


「要らん」


 ゼルギウスが頷いた。立ったまま、ヴァルドの近くにいた。


「明日の夜明けに出ます」


「分かっている」


 ゼルギウスが少し迷う気配があった。言うか言うまいか、ということが体に出ていた。ヴァルドはそれが見えた。


「言うなら言え」


「……はい。到着した後のことです。マリウス殿が先行していると聞きました。あの方は——」


「猊下から話は来ている。観察のみ、だ」


「マリウス殿が、それを守るかどうか」


 ヴァルドは答えなかった。


 答えない、ということが答えだった。ゼルギウスにも分かっただろう。


「閣下は、どう対処されますか」


「着いてから考える」


 それだけだった。ゼルギウスは頷き、焚き火から一歩引いた場所に腰を下ろした。


 ヴァルドは空を見た。雲が動いている。南から吹く風が雲を北に送り、星の見える範囲が少しずつ広がっていた。


 ラステル。


 その名を、頭の中で繰り返した。


 遺跡の壁画。崩れかけた石の顔。「原初の闇」か、全く別の何かか。グレゴリウス猊下が見せた書類の中に、銀髪の少女が遺跡でパーティを守るように動いた、という記述があった。猊下はそれを「本能的な防衛反応」と解釈した。


 ヴァルドはその解釈が正しいとも間違いとも判断していない。


 ただ、直接確かめていない。


「原初の闇……」


 呟いた。焚き火の音が少し大きくなった。


「もうすぐ、この目で確かめる」


 炎が揺れた。ゼルギウスが聞こえたとしても、何も言わなかった。夜の街道に、二人の沈黙だけが続いた。

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