第4章-77話「甘い匂い」
朝の光が宿の石畳に落ちていた。
雨季の雲が薄くなっている。昨日より白い光が路地に差し込み、石の隙間に溜まった水たまりが小さく輝いていた。ラステルに来て初めて、空が明るかった。
ロリはリディアと並んで歩いていた。
新しい靴の革底が石畳を踏む感触が、まだどこか新鮮だった。踵に当て革があるから、靴擦れがない。足の裏が石の凹凸を拾うのに、痛みが来ない。それだけのことが、ロリには不思議なほど足を軽くした。
「あれ、なんですか」
ロリが指さした先に、果物を積んだ荷台があった。橙色の丸い実が山盛りになって、麻袋の端から溢れそうになっている。
「柑橘ね。南の方の果物よ」
「かんきつ」
「食べたことない?」
「ないのです」
「甘くて、少し酸っぱいやつ。香りが強いわよ」
リディアが一個手に取り、ロリの鼻先に近づけた。皮の表面から、鋭くて明るい匂いが立つ。ロリの目が丸くなった。
「甘いです。でも、この甘さは……パンと違います」
「そうね、果物の甘さよ。みずみずしい、っていうか」
「ふれっしゅ」
「……まあ、今度食べさせてあげるわ」
屋台の主人が笑いを堪えた顔をしていた。リディアが一枚硬貨を置くと、柑橘を一個紙に包んでくれた。ロリはその包みを両手で持ち、歩きながら時々においを嗅いだ。
「リディアさんは、香辛料の名前をたくさん知っているのですか」
「一応ね。研究で各地を回る時に覚えたの。産地と交易ルートって、地域の経済を読む手がかりになるから」
「こうえき……交易が分かると、何が分かるのですか」
「人の動きが分かる。物が動く方向に、お金が動いて、力が動く。世の中ってそういうものよ」
「すごいのです。リディアさんは、そういうことを何でも知っているのですね」
「何でもじゃないけど、まあ」
「燐は戦うことを知っていて、バルカスさんは道を知っていて、リディアさんは世の中の仕組みを知っていて……ロリは」
「ロリちゃんは?」
「匂いを嗅ぐことが得意です」
言ってから、ロリ自身がわずかに沈んだ顔をした。リディアはそれを見た。何も言わなかった。
「香辛料屋があります」
ロリが路地の先を指した。袋から粉末が溢れそうになっている屋台で、赤と黄色と茶色が並んでいた。匂いが手前から飛んでくる。
「本当ね。行きましょうか」
* * *
市場は昨日よりも賑わっていた。
晴れ間が出たからだろう、昨日まで雨を嫌って閉じていた屋台がいくつか出ていた。干物の屋台、焼き菓子の屋台、麻布を売る屋台。路地が細く、人が擦れ違うたびに腕と腕がぶつかりそうになる。ロリは人の流れに押されないよう、リディアの袖をつかんでいた。
「この黄色いの、昨日むせた粉ですか」
「そうそう、ターメリックね。土みたいな匂いがするでしょ」
「はい。少し、泥の匂いに似ているのです。でも泥より甘い」
「鼻が良いのね」
「……昔から、匂いが分かるのです」
ロリの声が少し低くなった。リディアは気づいたが、黙って次の袋を見ていた。
「これは何ですか。白くて細いのです」
「それはクミン。煮込み料理に使うやつよ。匂い嗅いでみる?」
「いいですか」
屋台の主人がうなずいた。ロリが袋に顔を近づけて吸い込んだ。
「……鋭い。でも、丸い感じもします」
「うまいこと言うわね」
「本当にそう思うのです。鋭くて、でも丸い」
リディアが屋台の主人を見た。主人が肩をすくめた。「嬢ちゃん、鼻が良いね」と言った。ロリが小さく会釈をした。
「それと、あの赤いのは昨日と同じですか」
ロリが少し先の屋台を指した。赤い細長い実が束になって吊るされている。
「昨日のは乾燥させた粉だったけど、あれは生のやつ。唐辛子の生ね」
「生だと匂いが違うのですか」
「全然違う。昨日のがくすんだ感じなら、あれはもっと青くて、刺激が強い。香りも立ってるわ」
ロリが頷いた。一歩踏み出して、生の唐辛子の吊るされた屋台に近づいた。鼻腔がゆっくりと動く。
「本当に違います。昨日のより、刺すような匂いがします。でも昨日のより……近い感じ。何に、かは分からないのですが」
「何に近い感じ?」
「……生き物、みたいです。昨日の乾いたのより、生き物の匂いが残っている感じがします」
リディアが少し黙った。
「面白い言い方ね」
「変ですか」
「変じゃない。正確だと思う」
リディアはそう言って先に歩き出した。ロリは屋台を一度振り返ってから、追いかけた。柑橘の包みをまだ大事に持っていた。
路地の突き当たりを曲がると、魚屋の区画に入った。
石畳に並んだ木の台の上に、朝の漁で揚がった魚が並んでいる。鱗を光らせた魚が、氷の板の上に整然と置かれていた。太い手をした漁師が、大きな包丁で作業している。手際よく魚を裁いて、内臓を脇に分けていく。海水と生臭さと潮の混じった匂いが、区画全体を覆っていた。
ロリの足が、止まった。
一歩、止まっただけだった。歩調が狂って、リディアの袖から手が離れた。
「ロリちゃん?」
リディアの声が遠かった。
鼻の奥に、匂いが来た。
鉄ではない。甘い。蜂蜜のように、熟れた果物のように、鼻腔の奥深くに滑り込んでくる。昨日も感じた。昨夜も感じた。それよりずっと強い。足の下の石畳が揺れる気がした。揺れていない。揺れているのは自分の体だ。
犬歯が疼いた。
奥歯の横、尖った歯の根が、じんと疼く。それまで感じたことのない感覚だった。疼痛というより、何かに引っ張られているような感覚。喉が締まって、呼吸が浅くなる。
「ロリちゃん」
リディアが戻ってきた。ロリの肩に手を置いた。ロリは口を押さえた。両手で口を覆って、うつむいた。石畳の目地が視界に広がっている。息を吐く。吸う。匂いがまだある。
「こっちに来て」
リディアの手が肩を引いた。ロリは目を閉じたまま、リディアに引かれて歩いた。二歩、三歩。石畳の感触だけを足の裏で追う。
「ここで止まりましょう。果物屋の前よ」
柑橘の強い匂いが来た。さっきの甘さとは全く違う、刺激的で明るい匂いが鼻を叩いた。ロリは深く吸い込んだ。もう一度。鼻の奥の、別の甘さが、少しずつ薄れた。
しばらくして、ロリは口から手を離した。
「……大丈夫ですか」
自分で言ってから、おかしいと思った。大丈夫かを訊かれる立場は自分だった。
「大丈夫よ。私は」
リディアが静かに言った。ロリを見ていた。研究者の目ではなく、もう少し別の目だった。
「ロリちゃんは?」
ロリは少し考えた。
「……今は、大丈夫です」
今は、と言ったことに気づいていた。
リディアが荷物の中に手を入れた。端末を取り出し、ロリに背中を向ける角度で少し操作した。ロリにはそれが分かった。リディアがロリに見えないように何かをすることは、もう何度かあった。いつも声をかけずにいた。
「ねえ、ロリちゃん」
「はい」
「さっき、犬歯が疼いた?」
ロリが息を詰めた。
「……分かりましたか」
「口を押さえた後に、少し触れてたから。察しはついてたわ」
ロリが自分の口の横を無意識に触れた。
「はい。疼いたのです。引っ張られるような感じで。前には、なかったのです。足が勝手に動きそうになることはありましたが、歯は……今日が初めてで」
リディアは何も言わなかった。端末を荷物に戻す音がした。
「怖かった?」
「……怖い、とは少し違います。自分のものではないような感じがして。気持ち悪いというよりも、知らない何かが自分の中に入り込んでいるみたいで」
「うん」
「それが、怖いのです」
リディアが隣に立った。声は出さなかった。果物屋の前で、二人はしばらく並んでいた。屋台の主人が怪訝な目を向けてきたが、リディアが視線で黙らせた。
* * *
バルカスが路地の角に立っていた。
朝から情報収集に出ていたはずが、市場の外れで二人を見つけて立っていた。腕を組み、柱に背を預けている。腰の短刀だけを帯びているから、遠目には物売りか船乗りと区別がつかない。
「早いですね」
リディアが言った。
「宿の主人から聞いた。嬢ちゃんたちが市場に出たってな」
「監視?」
「心配しただけだ」
バルカスが一語で返した。リディアが何か言いかけて、やめた。
「何か分かったの、今日の調査で」
「少し。港の東側、聖教の関連施設が二棟増えてる。去年から今年にかけて建ったらしい」
「避難民救護施設の追加?」
「そうとも言える」
バルカスの声が平板だった。それ以上言わないつもりの声だった。リディアは目だけで頷いた。ロリは二人の話を聞いていたが、何かが省略されていることに気づいた。大人が子供の前で言葉を選ぶ時の、あの間だった。
「嬢ちゃん、もう宿に戻るか」
バルカスがロリを見た。
「……少し、港の方を歩いてもいいですか」
ロリが言った。市場ではない。人が少ない方が、今は良かった。
「構わん。俺が一緒に行く」
リディアが「私は宿に戻って計算の続きをするわ」と言い、踵を返した。ロリはその背中を見送ってから、バルカスと並んで歩き始めた。
二人は黙って歩いた。バルカスは何も言わなかった。何かを言おうとして、言わないのではなく、最初から言うつもりがなかった。ロリが歩くことを望んでいると分かっているから、歩いている。そういう歩き方だった。
「バルカスさん」
「ああ」
「市場は、今日も怖かったのです」
「そうか」
「でも、香辛料は面白かったのです。リディアさんがたくさん教えてくれて」
「そうか」
「バルカスさんは、香辛料は好きですか」
バルカスが少し間を置いた。
「飯に入ってれば食う」
「好きというわけではないのですか」
「好き嫌いを考えたことがない」
ロリがそれを聞いて、少し口を閉じた。それから言った。
「ロリもそうかもしれません。好きというより、知りたいのです。どんな匂いか。どんな味か。いろんなものを知らないまま、ずっといたから」
バルカスは返事をしなかった。港の方を向いたまま歩いた。潮の匂いが強くなった。
* * *
宿に燐が戻ってきたのは昼を少し過ぎた頃だった。
刀の手入れの後、遮蔽結界の出力調整に出ていた。港の外縁を一周しながら、結界の感度を確認していた。こめかみの圧迫が、この二日で確実に薄くなっている。追跡者の反応はない。
部屋に入ると、リディアが端末に向かっていた。
「ロリは」
「バルカスさんと一緒に港の方を歩いてる。もうすぐ戻ると思うけど」
燐は上着を掛けた。
「市場はどうだった」
「香辛料と果物を見て、あの子すごく楽しそうだった。魚屋の前まではね」
リディアの手が止まった。端末の画面を見たまま、声だけが続いた。
「魚を捌いてるところで、止まったの。前と同じ反応」
「血の匂いか」
「そう。今日の方が強かったかもしれない。集落の時は旅人の包帯一枚だったけど、今日は何頭も捌いてたから。量が違う」
燐の顎が微かに動いた。歯を噛み合わせる動きだった。
「犬歯は」
「疼いたって。今日が初めてだって言ってたわ。引っ張られる感じって表現してた」
窓から港の音が来た。荷車の軋み、荷下ろしの掛け声、海鳥の声。その中をロリが歩いている。バルカスと一緒に。
「あんたに伝えとくべきことがもう一つある」
リディアが端末を伏せた。画面が暗くなる。
「マナの反応。あの子を測定し続けてるけど、変化がある」
「どういう変化だ」
「血の匂いに反応した時に、マナの流れが一瞬変わるの。通常時と比べて……言葉で説明するのが難しいんだけど、何かが活性化してる感じ。吸血衝動が単なる感覚じゃなくて、マナと連動してる可能性がある」
「確定か」
「まだ。サンプルが少ないし、偶然の一致の可能性もある」
燐がリディアを見た。
「でも?」
「でも、今日で同じパターンが三回出た。集落の時、昨夜の食堂の時、今日の市場。毎回、衝動が出た瞬間にマナが微かに揺れる。揺れ方が同じなの」
「それが意味することは」
「まだ分からない。でも」
リディアが言葉を切った。
「放っておけるレベルじゃないわ」
燐は答えなかった。窓の外の音だけが続いた。
* * *
港の外れは静かだった。
荷揚げ場から離れた石積みの防波堤の上に、ロリは腰を下ろしていた。バルカスが一メートルほど離れた場所に立っている。波が防波堤の石を叩いて、細かい飛沫が上がる。潮の匂いだけが濃い。魚屋の区画からは遠く、市場の喧騒も届かない。
燐が来たのは少し後だった。
リディアから聞いたのだろう。燐は何も言わずにロリの隣に立った。バルカスに目を向けると、バルカスは無言で防波堤から数歩退いた。三人の間に、短い距離が生まれた。
「ロリ」
「はい」
「今日、市場で」
「はい」
ロリの声が静かだった。分かっている、という声だった。
「また来たのです。匂いが」
「ああ」
「今日は……強かったのです。前と比べて。前は足が勝手に動きそうになりました。今日は少し、違いました」
燐が少女を見た。ロリは海を見ていた。波頭が白く砕けて、消える。繰り返している。
「違ったって、どういうことだ」
「歯が、疼いたのです。ここが」
ロリが自分の口の横を指先で触れた。犬歯のある場所。
「引っ張られるような感じで。気持ち悪い感じではないのです。でも……自分のじゃないみたいで」
声の平静さが、燐には逆に重かった。怒ったり怖がったりしているより、平静に語っているロリの方が。
「リン」
「ああ」
「ロリは……化け物になってしまうのですか」
風が来た。銀色の髪が横に流れた。ロリはそれを手で直そうとして、やめた。
燐の喉が締まった。
あの集落で言った言葉が戻ってくる。お前は化け物じゃない。あの時も確信はなかった。あの言葉でロリが握り返してきた手の冷たさを、まだ覚えていた。
「違う」
言った。
「お前は化け物じゃない」
声が震えなかったか、燐には分からなかった。ロリの方を向けていた目が、一瞬だけ海に逃げた。それだけのことだった。
ロリが燐を見た。青藍の目が燐の顔を見つめている。
「本当ですか」
「ああ」
一語だった。
ロリの目が、ゆっくりと波の方に戻った。頬に水滴が伝った。飛沫が当たったのか、涙なのか、燐には判断できなかった。風が強くなって、二人の間を抜けた。
ロリが両手を膝の上に置いた。指先を絡ませている。小さな手だった。
「ロリは、守りたいのです」
声が静かだった。
「砦の皆さんも、バルカスさんも、リディアさんも、リンも。この人たちを傷つけたくないのです。この歯が……自分の意志と違うことをするなら」
言葉が途切れた。
「それが怖いのです」
燐は答えなかった。
答える言葉がなかった。ロリが怖れているのは、血の匂いや歯の疼きそのものではない。自分の意志が自分の体に負ける可能性を怖れている。守りたいと思っている相手を、意志とは別のところで傷つけてしまう自分を怖れている。
燐には、その怖れを取り除く言葉がなかった。なかったが、隣に立っていた。それだけのことを、している。
バルカスが防波堤の石の上を一歩踏んだ。少女の方を見なかった。海の方を向いたまま、低い声で言った。
「嬢ちゃん。怖えもんは怖えままでいい」
ロリが顔を上げた。
「慣れる必要はない。慣れたら駄目なこともある」
それだけだった。バルカスはまた海を見た。
ロリが小さく頷いた。頷いたきり、しばらく黙っていた。波の音だけが続いた。波が防波堤を叩く音と、遠くの荷揚げ場の掛け声と、頭上の海鳥の声だけが、少女の沈黙を満たしていた。
* * *
宿に戻ったのは夕刻前だった。
リディアが部屋の椅子に浅く腰かけ、燐を待っていた。ロリはリディアに「少し休みます」と告げて、隣室に入った。扉が静かに閉まった。
リディアが燐に目を向けた。
「港で、あの子と話した?」
「ああ」
「化け物じゃない、って言った?」
燐が少し間を置いた。
「言った」
「そう」
リディアが端末を机に置いた。かすかな音がした。
「声、震えてたわよ。あんたの」
燐は答えなかった。
「嘘じゃないのは分かる。信じたいんでしょ。あの子が化け物じゃないって。私だって信じたい。ただ」
「ただ」
「マナ反応の変動データを見ると、吸血衝動とマナの活性化に相関がある。今日の市場でも同じパターンが出た。吸血衝動が単なる感覚の問題じゃないなら、あの子の体の中で何かが変わりつつある」
燐の顎が動いた。
「吸血衝動と、何か関係が?」
「まだ分からない。でも……楽観できる状態じゃないわ」
部屋が静かだった。廊下の向こう、隣室のロリが眠ったのか、物音がしない。
リディアが端末を開いた。画面に数字が並んでいる。星の角度の計算か、それともロリのマナのデータか。燐には区別がつかなかった。
「あの子を守りたいなら」
リディアが画面を見たまま言った。燐の方は見なかった。
「何が起きているのかを、ちゃんと知った方がいい。知らないまま守ろうとすることの怖さを、あんたは知ってるでしょ」
燐は答えなかった。
窓の外で海鳥が鳴いた。夕方の光が石畳に橙色を落としていた。雲が薄くなった午後、光は少し傾いて路地の奥まで入ってくる。ロリが今朝見たかった晴れた時の光だった。少女はもう眠っていて、その光を見ていない。
リディアの手が端末の上で止まった。
データは、まだ答えを出していなかった。




