第4章-76話「港町の朝」
ラステルは灰色だった。
空が低く垂れ込め、海の色も空と区別がつかない。港湾に並ぶ帆柱が霧に溶け、船の輪郭だけが白く浮かんでいる。雨季の終わりとはそういうものだ。晴れる気配はまだなく、湿り気を帯びた風が石畳を流れていた。
城門を抜けたのは夜明け前だった。
バルカスが先頭を歩いている。人が少ない時間を選んだのはバルカスの判断だった。門番に一言二言かけ、硬貨を二枚渡すと、男は素直に道を開けた。ラステルの夜明け前の光景を、燐は初めて見た。魚市場の荷下ろしが始まっており、男たちの掛け声が水面を渡って聞こえてくる。潮の匂いと、干し魚の匂いが混じった。鼻の奥に染みる、生活の匂いだった。
「宿が取れる時間まで、市場で時間を潰す」
バルカスが振り返らずに言った。燐は頷いた。ロリが燐の隣で石畳を踏んでいる。靴底の薄くなった靴で、慎重に足を置きながら歩いている。靴を新調しなければ、と燐は思った。昨日から思っていたことだった。
ロリは黙っていた。
潮の匂いを嗅いでいるのか、鼻腔がわずかに動いている。顔を上げ、港の方を見ている。海は昨日も見た。昨日初めて見た、広大な灰色の広がりを。それでも、見るたびにロリの目が僅かに変わる。怖れではなく、好奇心に近い何かが目の底に灯る。
波止場に近い路地を抜けると、魚市場の端に出た。夜明けの市場は荒っぽい場所だった。水産物を積んだ荷車が行き交い、仲買人たちの怒鳴り声が石壁に反響する。踏まれた魚の頭が石畳に散らかり、海鳥が上空を旋回している。白い腹の鳥たちが甲高い声で鳴きながら、屋根の縁に並んでいた。
少女が立ち止まった。
視線が上を向いている。屋根の縁の鳥たちを見ていた。鳥が一羽、羽をはためかせて石畳に降り、魚の切れ端をくわえて飛び上がった。少女の目がその軌跡を追った。
「リン、あの鳥は……」
「海鳥だ。魚を食う」
「魚を……空から取るのですか」
「海から取ることもある」
少女の口が少し開いた。想像している。海の上を飛ぶ鳥の姿を。砦の空にいた鳥とは違う。あれは山の鳥だった。これは海の鳥だ。ロリにとって、空の生き物の種類が一つ増えた瞬間だった。
バルカスが先に進んでいる。足が止まる少女を待ちながら、振り返らずに歩調だけ落としていた。
昨夜の甘い残り香が消えていないことを、燐は知っていた。ロリ自身が言っていた。鼻の奥に、まだある、と。市場の匂いが強い。潮と、魚と、荷台の木の匂いが混じっている。その中でロリの鼻が何を拾っているか、燐には分からなかった。
* * *
宿の手配はバルカスが片付けた。
港湾区画から少し入った路地の宿屋で、二階の奥の部屋を二室取った。主人は五十がらみの男で、片腕に入れ墨がある元水夫らしかった。部屋の鍵を渡しながら、男はパーティを一目見て何も訊かなかった。訊かないでいる、ということが長年の経験から来ていると分かる顔だった。
「朝飯は七時から。食堂で出す」
それだけ言って、男は厨房に戻っていった。
リディアが部屋に荷物を置くより先に窓を開けた。港の方角に向いた窓で、帆柱の頭が見える。空はまだ灰色だった。
「いい場所ね。眺めが良くて」
「見張りに使える」
「……そういう目で見るのね、あんたは」
燐は返事をしなかった。リディアは窓枠に腕を置き、港を見た。端末を荷物から出す手が止まっていた。
ロリが部屋の奥に立って、寝台を見ていた。
石パンの古い記憶しか持たない少女には、清潔なシーツの張られた寝台というのもまだ慣れないものなのかもしれない。ロリは恐る恐る寝台の縁に触れ、指先で布の感触を確かめた。柔らかい、と分かると、今度は両手のひらで押した。スプリングが沈む。ロリが目を丸くした。
「リン、これは……」
「寝るためのものだ」
「沈みます」
「沈む」
「起き上がれるのですか」
「起き上がれる」
少女は疑わしそうにしていたが、やがて横になった。寝台に背中を預けた瞬間、全身から力が抜けるのが見えた。長い逃避行の疲労が、布団の柔らかさに溶けていく。目が半分閉じかかった。
「……ふかふかのです」
声が眠そうだった。
燐は何も言わなかった。窓の外で海鳥が鳴いている。帆布がはためく音が風に乗って来る。遮蔽結界の圧迫感がこめかみに残っているが、昨日より薄い。回路が慣れてきたのか、それとも追跡者の気配が遠のいたからか。今のところは判断できなかった。
リディアがロリの傍に椅子を引き寄せ、端末を取り出した。画面をロリに向けない角度で起動する。何かを確認している。指先が静かに動く。記録を続けているのだろうと燐は思った。リディアが何を調べているのか、燐には半分しか見えていない。残り半分は、まだ訊けていない。
* * *
食堂でパンが出たのは七時を過ぎた頃だった。
ラステルの港町式のパンで、小ぶりで丸く、塩気を利かせた生地だった。外側が硬く焼けていて、中は目が詰まっている。テーブルに籠で運ばれてきた時、まだ温かかった。パン布巾の下から湯気が漏れていた。
ロリが籠を見た。
籠から目を離せなかった。鼻が動いている。湯気の匂いを追っている。
「焼きたてですか」
食堂の給仕の娘に訊いた。娘は驚いた顔をした。
「そうですよ。今朝焼いたやつです」
少女が両手で一個取った。指先が熱さに縮まる。熱いと分かっても手放さなかった。パンを胸の前に持ち、じっと見つめている。
「食べろ」
燐が言うと、ロリはやっと一口かじった。
顎が止まった。
目が大きくなった。噛んで、もう一度噛んで、飲み込んだ。それから燐を見た。
「甘い」
「ああ」
「塩なのに……甘いのです。リディアさんが言っていた通りです」
「言ったわよ、本当のことだもの」
リディアが自分のパンをちぎりながら言った。ロリはもう一口かじった。今度は小さく顎を動かして、ゆっくり味わっている。
バルカスが黙ってパンを二個食った。給仕の娘に目で訴えると、籠を替えてくれた。
燐は自分のパンを一口かじった。塩気のある、しっかりした味だった。悪くない。少女の方を見ると、ロリは三個目に手を伸ばしていた。
燐はそこで目をそらした。
何かが、胸の底に引っかかった。
昨日のロリの声が、まだ残っている。甘い匂いが消えないのです。燐には、それが何を意味するのか分からない。分からないまま、ラステルに着いた。ここで何かが解決するわけではない。ただ、今、ロリが焼きたてのパンを食って、目を細めている。それだけは確かだった。
* * *
バルカスが出かけたのは朝食の後だった。
「港の顔役に挨拶してくる。夕方まで戻る」
大斧は宿に置いていった。腰の短刀だけを帯びて、市場の方へ消えた。港の情報網を使う気だと燐には分かった。バルカスが持つ人脈の深さは、燐には全容が見えない。ただ、こういう時のバルカスは頼りになる。
リディアは部屋に戻ってすぐ、荷物から古い航海図を広げた。
「ラステルに来たら入手するつもりだったの、これ」
船宿の廊下で声をかけてきた航海士から買ったらしい。かなりの金額だったが、リディアは惜しまなかった。
「天球の配列が整う夜を計算してるの。基準星からの角度とラステルの緯度を組み合わせれば、日付を絞れるはずなのよ」
「何に使う」
「後で話すわ。今は計算に集中させて」
端末と航海図を並べ、リディアが数字を書き始めた。燐はそれ以上訊かなかった。
ロリが窓の外を見ていた。
部屋の窓から港が見える。帆柱の群れと、その向こうの海。雨季の灰色の海は、波頭が白く砕けては消えている。ロリは窓枠に肘を置き、顎を載せて、その繰り返しをじっと見ている。飽きない目だった。
「リン」
「何だ」
「海は、いつも同じ色ではないのですか」
燐が窓の方を見た。海は確かに、朝に見た色とは少し違う。雲の切れ目から日差しが差し込んで、灰色に銀色が混じっている。
「変わる。光の加減で変わる」
「青くなることは、ありますか」
「晴れれば」
「見たいです。ラステルにいる間に、晴れるといいですね」
それだけ言って、少女はまた黙った。窓枠に顎を載せたまま、海を見ている。風で銀色の髪が揺れた。
* * *
昼前に、ロリが外に出たいと言った。
「市場を見たいのです。朝、入り口の手前を通りましたが……魚の他にも、いろいろな匂いがしていて」
「待て」
燐は一拍置いた。
「外出は控えた方がいい。目立つ」
「……外に出てはいけないのですか」
「しばらくは」
少女が燐を見た。静かな目だった。言い返す目ではない。ただ、何かを考えている目だった。
「リン」
「ああ」
「ロリは……閉じ込められるのは嫌です」
声が穏やかだった。怒りではなかった。怒りよりもずっと重いものが、その言葉の底にあった。
燐は答えなかった。
地下にいた、と聞いたことがある。三百年。正確にどういう状態だったのかは知らない。知る必要があるとも思っていなかった。けれど今、ロリの言葉を聞いて、それがどういう三百年だったかが少しだけ分かった気がした。閉じ込められた場所で、少女は何を考えていたのか。外に出た後も、知らない場所が多すぎるロリが、それでも外に出たいと言い続けるのはなぜか。
「閉じ込められるのは、嫌なのです」
繰り返した。同じ言葉を、違う声で。一度目より低く、静かに。
燐が椅子から立ち上がった。ロリの方を向く。
「分かった」
「……はい?」
「一人では出るな。誰かと一緒なら構わない」
少女が瞬きをした。燐の言葉を確かめるように、もう一度瞬きをした。
「俺かリディアか、バルカスが戻ったらバルカスを連れていけ」
「……一人でなければ、いいのですか」
「ああ」
ロリの表情が少し解けた。怒りではなかったから、解けた顔も穏やかだった。眉の力が抜け、唇の端が微かに上がる。
「分かりました。守ります」
守ります、という言葉が、燐には少し妙に聞こえた。ロリが約束を守る、ということではなく、ロリが何かを守る、という意味に聞こえた。本人はそのつもりではなかったかもしれない。
リディアが端末から目を上げた。何も言わなかった。燐を見て、ロリを見て、また端末に戻った。それだけだった。
* * *
午後、リディアがロリを連れて市場に出かけた。
決まったのは自然な流れだった。ロリが外に出たいと言い、燐が妥協案を出し、リディアが「私が行くわ」と立ち上がった。あなたが行っても目立つ、という意味を含んだ目を燐に向けてから。燐は答えなかった。答える必要もなかった。リディアの判断は正しかった。
燐は宿に残った。
二人が路地に消えた後、部屋の隅に腰を下ろし、遮蔽結界の出力を落とした。最小維持に絞ると、こめかみの圧迫が半分になる。砦を出てから初めて、この程度まで落とせた。回路の損傷が少しずつ癒えているのか、術式の効率が上がっているのか。燐には自分の体の仕組みが分からない部分が多かった。
刀の手入れをした。
鞘から抜き、刃を光に当てて確かめる。汚れはない。先月の戦闘より後、刃を使っていない。身体を使った戦闘は五割ほど戻っているが、全力なら十分が限度だ。それを知った上で、何ができるかを考えていた。
リディアといると、ロリはもう少し自分のペースで動ける。燐が一緒にいると、ロリは燐の顔色を気にしすぎる。そういう癖がロリにはある。燐はいつ気づいたか、もう覚えていないが、確かに知っていた。
石畳を踏む足音が建物の外で続いていた。魚売りの声、荷車の軋み、海鳥の鳴き声。港町の午後は喧噪だった。その喧騒の中にロリがいる。今この瞬間、ロリの鼻にどんな匂いが届いているか。甘い残り香が、この町の中でどう混じっているか。燐には分からなかった。分からないままでいることが、刀の柄を握る手に力を入れさせた。
* * *
二人が戻ったのは夕暮れ前だった。
リディアの腕に荷物が増えている。市場の紙袋と、靴屋の包みらしいものが一つ。少女は銀色の髪に潮風の匂いをまとわせて歩いていた。頬が少し赤い。歩き回ったからだろう。目元が柔らかかった。朝の眠そうな顔とは別の、何かを見てきた顔だった。
「新しい靴、買ってもらいました」
ロリが燐に言った。包みを抱えている。
「見せる?」
リディアが包みを開けた。革底のしっかりした靴で、ロリの足の大きさに合わせて選んだらしかった。踵に当て布がしてある。
「靴擦れのことを伝えたら、ここに当て革をしてくれたわ。港町の靴屋は慣れてるのよ、長距離を歩く人間が多いから」
「ありがとうございます、リディアさん」
「お礼は市場の芳しい魚の匂いで十分よ。散々嗅がされたんだから」
ロリが口を押さえた。笑いをこらえている。
「香辛料の屋台がありました。リン、赤くて細いのと、黄色くて粉のと、種類がたくさんありました」
「そうか」
「リディアさんが匂いを嗅いで、全部名前を教えてくれました。赤いのは辛いのです。黄色いのは……少し土の匂いがして、むせました」
「むせたのか」
「少し。でも、嫌な匂いではありませんでした」
少女が少し間を置いた。
「魚屋の前を通った時に……切り身を並べているところで、少し止まってしまいました」
声が平静だった。燐はロリを見た。
「血が出ていましたか」
「……少し。でも、大丈夫でした。リディアさんが別の屋台に連れて行ってくれたので」
リディアは何も言わなかった。荷物から端末を取り出し、画面を確認していた。市場でも計算を進めていたらしい。
燐はロリの手を見た。体の横で静かに垂れている手だった。震えていない。今は、震えていない。
燐にはリディアの数字が何なのか分からないが、リディアの目が少し光っているのは分かった。
「進んだ?」
燐が訊くと、リディアは画面から目を上げた。
「かなりね。ラステルの位置と基準星の高度から、条件の夜が絞れてきたわ。もう少し」
「分かった」
詳細は後で、という顔をしている。ロリの前では言わない何かがある。燐は訊かなかった。
* * *
バルカスが戻ったのは日暮れ後だった。
食堂で夕飯を食っている燐たちのテーブルに座り、無言でパンを一個取った。スープをすすり、しばらく経ってから口を開いた。
「西の航路は動いている。帝国の封鎖は南岸に集中している。北寄りのルートを使えば、船は出せる」
「船を手配できるか」
「顔役に話を通した。十日後に出港する商船がある。中立商人の旗を立てている。三人分なら乗れる」
「四人だ」
「知っている。一人分は俺が交渉する。問題ない」
バルカスがスープをもう一口すすった。
「戦況は動いていない。帝国の補給は落ちているが、南岸の封鎖は維持している。砦の方は……通信は取れなかった。切れたままだ」
最後の一言だけ、声が微かに変わった。燐は聞こえなかったふりをした。バルカスが砦を気にしていることは知っている。気にしながら、ここにいることも知っている。
ロリが麦がゆをゆっくり食っていた。疲れているのか、食べる手が遅い。
「嬢ちゃん、足は」
バルカスが訊いた。ロリが顔を上げた。
「靴、新しいのになりました」
「そうか。良かった」
それだけだった。それ以上はバルカスも言わなかった。
食堂の主人が皿を下げに来た。五十がらみの元水夫で、昨朝から変わらない無表情だった。ランプの灯りを持ち直しながら、何気なく言った。
「お客さんたち、しばらく泊まるんで?」
「しばらくな」
「そうですか。なら、飯の口に合わなかったら、港の東の方に避難民救護施設があるんでね。聖教の運営ですが、食事はうちよりずっとまともらしい。難民の方々も使ってるんで、身分の証明とかは要りませんよ」
男は気さくな口調で言い、皿を持って厨房に戻っていった。
テーブルに沈黙が残った。
バルカスが主人の消えた方を一秒だけ見た。燐も見た。リディアは端末を伏せたまま動かなかった。
「聖教、か」
バルカスが呟いた。低い声で、独り言のように。
「善意だろうが」
燐が言った。バルカスは答えなかった。
ロリが麦がゆを一口すくった。まだ暖かい。石パンより柔らかく、よく煮えている。
少女の手が、椀の上で一瞬止まった。
止まって、また動いた。
燐は気づかなかった。気づかなかったが、それだけのことだった。ロリの指先が微かに震えていたことに、誰も気づかなかった。食堂の外を、潮風が吹いていた。夜の港から運ばれてくる匂いの中に、甘い何かが混じっている。
ロリだけが知っていた。




