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第4章-81話「嵐の前夜」

 朝から潮の匂いが濃かった。


 雲が海の方から押し寄せていた。空の色がここ数日で一番暗く、帆柱の影が港湾の石畳に落ちていない。海鳥の鳴き声が少なく、代わりに荷揚げの声が増えていた。嵐が来る前の港湾の顔だと、燐には分かった。


 バルカスが戻ってきたのは朝食の直後だった。


 食堂の椅子を引いて座ると、何も言わずにパンを一個取った。それだけで燐には何かが分かった。収穫がある時のバルカスは飯を先に食う。


「出航は明日だ」


 パンを半分かじってから言った。


「明日?」


 リディアが端末から目を上げた。


「朝の第二便。中立商人の旗を立てた船だ。積み荷は織物と塩。乗客を何人か乗せるのは珍しくない」


「四人分、取れたの」


「昨夜のうちに交渉した」


「いくらかかったの」


「言うな」


 リディアが少し黙った。


「……聞かない方がいいやつ?」


「言うなと言った」


 バルカスがパンの残りを口に入れた。嚙みながら、窓の外の港を見た。燐はその横顔を見て、額に刻まれた皺の深さを改めて確認した。この数日でわずかに増えた気がした。夜、何時間眠れているのか。訊かないし、訊くつもりもなかった。


「四人分?」


 ロリが隣から訊いた。声が静かだった。自分が含まれているかどうかを確かめている声だった。


「四人分だ、嬢ちゃん」


 バルカスがロリを一瞥した。それだけで十分だった。


 ロリが小さく息を吐いた。肩の力が少し落ちる。燐はそれを見た。見たが、何も言わなかった。


* * *


 午前中、燐は宿の外を一周した。


 遮蔽結界の出力を上げながら、港湾区画の外縁を歩く。前日と同じルートを取った。変化を確認するためだった。


 石畳の上、足音が増えていた。荷物を抱えた男たちが急ぎ足で動いている。嵐前の積み込み作業だろう。人が増えると気配が読みにくくなる。その中から不審な視線を拾う作業に、こめかみが軽く締まった。


 角を曲がったところで、燐は一度足を止めた。


 何かがあるわけではない。路地に人影はない。ただ、皮膚の下に僅かな引っかかりがあった。見られている、という感覚ではなく、見られた、という感覚。すでに去っている何かの残滓だった。


 遮蔽結界の感度を上げた。こめかみに鈍痛が来る。それでも周囲の気配を払った。何も引っかからない。ただ、先ほどの感触は消えなかった。


 宿に戻ると、バルカスが玄関の柱に背を預けていた。


「外をあたったか」


「ああ」


「どうだった」


「情報が流れすぎている」


 バルカスが頷いた。同じことを感じていた顔だった。


「三日いれば、どこから来たか大体分かる。一週間もいれば、名前も分かる。港町ってのはそういうもんだ」


「明日の出航を早めることはできるか」


「無理だ。積み荷の搬入が昨日終わった。今から変えれば、商人に怪しまれる」


 燐は返事をしなかった。バルカスも続けなかった。玄関の外、石畳の先を行き交う人影が増えている。その中にいる見知らぬ顔の数を、燐は自然と数えていた。数えることに意味はなかった。それでも数えた。


* * *


 昼過ぎ、ロリが散歩に出たいと言った。


「バルカスさんと一緒に」


 燐を見て、一呼吸置いてから言った。自分でルールを守っていることを示している。燐は頷いた。


 二人が路地に出るのを窓から確認してから、燐は部屋に戻った。リディアが端末と紙の計算書を広げて、数字を書いていた。


「進んでいるか」


「かなり。あとは最後の角度補正だけ」


 リディアが顔を上げた。眼の奥に何かが光っている。研究者の顔だった。昨日と今日、ずっとその顔をしていた。


「今夜中に出る」


「……出る、って」


「計算の答えが。候補地が」


 燐が椅子を引いた。向かいに座った。リディアは端末を少し傾けて、画面を燐に見せた。数字と星図の図面が並んでいた。


「ラステルの緯度と基準星の高度から、天球が一致する夜を逆算してるの。月の神殿が起動するには特定の夜が必要なはずで——」


「場所は」


「分かってきた。正確には絞れているっていうか。西の海峡沿いの島の一つ。地図で見れば三つの候補があるんだけど、地形の条件から言って二つは外れる。残りは一つ」


 燐の眉が微かに動いた。


「確度は」


「七割以上。百にはならないけど、今ある情報で出せる最高値よ」


 七割という数字を燐は反芻した。戦闘の局面なら七割は高い方だった。ただし、七割に命を乗せる際の感覚は、平時の七割とは全く違う。


「出航は明日だ」


「分かってる。だから今夜中に確定させる。航路に乗れば、三日で着く」


 リディアが端末に向き直った。指先がまた動き始めた。燐は立ち上がった。


「今夜、話す」


「全員に?」


「全員に」


* * *


 夕方、ロリとバルカスが戻ってきた。


 ロリの顔色が、少し白かった。


 燐はそれに気づいた。ロリ自身も分かっているようで、宿に入ると玄関の柱に手をついた。一瞬だけ。すぐに手を離した。バルカスが後ろに立っていた。何も言わなかった。


「市場に寄ったのか」


 燐が訊くと、ロリが頷いた。


「少しだけ。バルカスさんと……香辛料の屋台を見ていたのです」


「香辛料屋か」


「はい。また、いろいろな匂いを嗅いでいました。バルカスさんが、一つ一つ屋台を指差してくれて」


「俺は名前は知らんが、指ならさせる」


 バルカスが言った。ロリが口元を僅かに動かした。笑みの欠片だった。


「バルカスさんは、赤いのを指差して、次に黄色いのを指差して、それだけで終わりました」


「それで十分だろうが」


「十分ではないのですが、ロリは楽しかったのです」


 バルカスが鼻を鳴らした。部屋の奥に向かって歩き始めた。


 燐はロリの手を見た。体の横で、指先をわずかに握っている。市場で何かがあった。口元に触れていないから、犬歯ではないかもしれない。ただ、何かがあった。今は訊かなかった。


* * *


 少し後、ロリが燐に言いにきた。


 部屋の扉を開けたロリの目が、真っ直ぐ燐を見た。


「リン、聞いてほしいのです」


「何だ」


「市場で……魚屋の前を通った時ではないのです。帰り道に、少し人が多い路地があって。誰かが転んで膝を擦ったのか、少し血が出ていて」


 燐が立ち上がった。ロリが続けた。


「見ていたわけではないのです。通り過ぎただけなのです。でも、匂いが来て……今日は、口の中が変な感じがして。歯が」


「伸びたか」


「伸びかけました。気づいたら口を押さえていました。バルカスさんには分からなかったと思います」


 ロリの声が落ち着いていた。昨日より落ち着いていた。怖れを整理してから話している声だった。


「怖かったか」


「……慣れてきているのが、怖いのです。慣れていいものではないとは分かっているのに」


 燐は答えを探した。探したが、見つからなかった。代わりに言った。


「明日出る」


「はい」


「今夜は俺がそばにいる」


 ロリが燐を見た。青藍の目が、一回瞬いた。


「……はい」


 それだけだった。言葉として求めていたわけではなく、ロリはただそれを確かめた。燐がそこにいることを。


* * *


 夕食は食堂で四人揃った。


 宿の主人が今夜も麦がゆと塩パンを出した。卓上に魚の干物が追加されていた。嵐の前に食材を使い切るつもりなのか、量が昨日より多かった。


「塩辛いわね、今日のは」


 リディアが干物を嚙みながら言った。


「嵐が来る前は塩を利かせるんだ。保ちが良くなるから」


「誰がそんなこと教えたの、あんた」


「知識として持っている」


「どこで」


「……覚えていない」


 リディアが少し黙った。それ以上は訊かなかった。


「明日、船に乗れるのですか」


 ロリが静かに言った。四人全員に向けた言葉だった。


「乗れる」


 バルカスが即答した。


「本当に大丈夫なのですか。荷物が多いと、ロリのは……」


「荷物が多いとか関係ない。船に荷物入れがある。一人分の寝場所もある」


「四人分、全部あるのですか」


「あると言ってる」


 ロリが頷いた。一度だけ頷いて、麦がゆに戻った。


「嬢ちゃんは船が初めてか」


「はい。揺れるのですか」


「揺れる」


「どのくらい揺れますか」


「人による」


「バルカスさんはどうでしたか」


「何ともなかった」


「羨ましいのです」


 バルカスが干物を一口噛んだ。


「自分で試してみればいい」


「試してから後悔しても遅いのです」


「嬢ちゃん、後悔してからが本番だ」


 リディアが口端を動かした。笑いを呑み込んだ顔だった。


「バルカス、その理屈いつも使うわよね」


「実績がある」


「困ったことにね」


 バルカスが黙って干物をもう一切れ取った。ロリが燐を見た。


「リンは、酔いましたか」


「前にある」


「前?」


「昔」


「それで、どうなりましたか」


「……言うな」


 リディアが笑った。声を立てて笑ったのを、燐は初めて聞いた気がした。食堂のランプが揺れて、四人の影が壁の上で伸びた。


「あんた、船酔いしたの?」


「話は終わりだ」


「終わりにはならないわよ、この話は。ロリちゃん、ちゃんと覚えておきなさい」


「覚えます」


「忘れろ」


 ロリが口元を押さえた。笑みを堪えている。こういう顔は珍しかった。市場でも防波堤でも、笑いかけても何かに引っかかって止まることが多かった。今夜は止まっていない。


 テーブルの端のランプが揺れた。外で風が強くなっている。


 窓の向こうに港の音が届かない。荷揚げの声が止み、海鳥も鳴いていない。嵐の前の静けさだった。


「リディアさん」


 ロリが椀から目を上げた。


「はい」


「昼間、散歩の途中に……見知らぬ人が目の端に入りました。法衣を着た人で」


 テーブルの空気が少し変わった。変わったのをロリ自身も感じたようだった。でも続けた。


「顔は分からなかったのです。一瞬だったので。でも……冷たい目をしていました。通り過ぎただけかもしれないのですが、何となく気になって」


 燐がバルカスを見た。バルカスが椀を置いた。


「どのあたりだ」


「港の東の方の、路地に入ったところです」


「東か」


 バルカスが呟いた。聖教の施設が増えていると言っていた方角だった。燐はそれを思い出した。


「法衣の人は、ラステルに多いのですか」


 ロリが訊いた。本当に気になって訊いている声だった。


「少なくはない」


 燐が答えた。嘘ではなかった。聖教の拠点がある港町だ。礼拝に来る人間もいる。ただそれだけかもしれない。


「そうですか」


 ロリが麦がゆを一口食べた。


「……でも、何となく、リンに言っておきたかったのです」


「ああ」


「分かった。よく言えた」


 今度はバルカスが言った。ロリが少し驚いた顔でバルカスを見た。バルカスはすでに干物の方を向いていた。


「さて」


 リディアが椀を脇に寄せた。端末を取り出した。テーブルの中央に置いた。画面に星図が映っている。


「今夜話すって言ってたやつ。計算が出た。月の神殿の候補地が特定できた」


 バルカスの目が動いた。ロリも顔を上げた。端末の星図を見ている。数字が並んでいるが、ロリには何を意味するか分からない。それでも、見ていた。


「西の海峡沿い。三つの島の候補から、地形条件で一つに絞れたわ。あとは……生きてそこに辿り着くだけ」


 「あとは」と「生きて」の間に、ほんの一呼吸があった。それを全員が聞いた。


「確度は」


「七割以上」


「十分だ」


 燐が言った。リディアが端末を傾けた。


「到達できれば、ロリちゃんのマナの変動を安定させる鍵が見つかるかもしれない。あくまで候補地よ。答えがあるとは言ってない。でも、候補がなければ動けなかった」


 ロリが端末の星図を見ていた。


「リディアさんが、ずっと計算していたのは……これのためだったのですか」


「そう」


「ラステルに来る前から?」


「ラステルの緯度が分かってから。ここに来てから精度が上がったわ。航海図を手に入れたから」


 ロリの指先が、膝の上で少し動いた。


「ありがとうございます」


 声に力があった。御礼の言葉は何度も言ってきたが、今夜のは少し違う重さがあった。リディアは端末を見ながら少し間を置いた。それから言った。


「お礼は着いてから。それと——明日は早起きよ。出航前に荷物の確認をしないといけないから」


「分かりました」


「三刻前には起きてろ」


 バルカスが言った。


「三刻前、というのは……」


「夜明けより前だ」


「暗いうちに起きるのですか」


「船ってのはそういうもんだ」


 ロリが少し難しい顔をした。


「出航の手続きが、いろいろあるのですか」


「荷物を積む。乗客の確認をする。帆の向きを決める。それだけでも時間がかかる」


「……船は難しいのですね」


「難しくはない。段取りが多いだけだ」


「段取りが多いのは、難しいのです」


 バルカスが一瞬、何かを言いかけた。言わなかった。黙って立ち上がった。


「俺は先に寝る。起こすな」


「誰も起こしに行かないわよ」


「念のため言った」


 バルカスが部屋に向かう背中を見て、リディアが端末を閉じた。


「ロリちゃんも寝なさい。今夜は早く」


「はい」


 ロリが立ち上がった。椀を主人の棚に返しながら、一度燐を振り向いた。


「おやすみなさい、リン」


「ああ」


「リディアさんも、おやすみなさい」


「おやすみ」


 足音が階段を上がって、遠くなった。


 食堂に燐とリディアが残った。ランプが揺れた。外の風が少し強くなっている。


「一つ訊いていい」


 リディアが言った。


「ああ」


「候補地に着いて、何も見つからなかったら、次はどうするつもり?」


 燐は答えなかった。


「計算通りに行かないことの方が多い。七割じゃ三割は外れる。その時——あの子に何と言う?」


「次を探す」


「それだけ?」


「それだけだ」


 リディアが少し黙った。ランプの光が二人の間の卓上に落ちている。


「……そうね」


 静かに言った。批判でも同意でもない、ただ受け取ったという声だった。


「今夜はあんたがそばにいるの?」


「ああ」


「そう」


 リディアが立ち上がった。端末を腕に抱えた。


「あの子、眠れないかもしれないわ。今日の歯のこともあるし」


「分かっている」


「……うん」


 足音が遠くなった。食堂に燐一人が残った。


* * *


 夜が深まった。


 港の音が薄くなっている。荷揚げの声がなく、海鳥の声もない。波の音だけが低く続いている。嵐が来る前の夜はこういう音がする。静かなのではなく、何かが溜まっている静けさだった。


 燐は廊下に立っていた。


 隣室の扉の前、壁に背を預けている。ロリの部屋から物音がしない。眠っているのか、眠れずに静かにしているのかは分からなかった。燐にはロリの様子が分からない時間が嫌だった。分からないまま離れているより、確かめる方が良かった。


 扉を叩いた。一回だけ。


「リン」


 すぐに返事が来た。眠っていなかった。


 扉を開けた。ロリが寝台の端に腰かけていた。膝の上に両手を置いて、窓の外を見ていた。外は暗い。月が出ていた。雲の向こうに滲んでいる白い光だった。


 燐が室内に入り、扉を閉めた。壁際の椅子を引いて座った。


「眠れないか」


「はい。少し考えていて」


「何を」


 ロリが窓から目を離して、燐を見た。


「明日のことです。船に乗ったことがないので……揺れるのですか」


「揺れる」


「車は揺れましたが、船は違いますか」


「方向が違う。縦にも横にも揺れる」


「……少し怖いのです」


「慣れる」


「慣れるのですか」


「一日で慣れる。あとは眠くなる」


 ロリが少し表情を動かした。笑いに近い何かだった。


「バルカスさんは、船酔いしないのですか」


「見たことがない」


「リディアさんは?」


「知らない。訊け」


「明日訊いてみます」


 少し間があった。ロリが窓の方に向き直り、また月を見ていた。


「リン」


「ああ」


「今日の歯のこと……言えてよかったのです」


 燐は答えなかった。


「言えずにいたら、もっと怖かったと思うのです。言えたら、少し軽くなりました。リンに言うと、ロリの中にいる何かが少し小さくなる気がして」


「……そうか」


「砦にいた頃は、言えないことの方が多かったのです。言っても分からないと思っていたから。でも今は少し違います。言えると思えます」


 燐が視線を少し動かした。ロリの横顔を見た。月の光が細い輪郭を照らしている。砦にいた頃のロリを燐は知らない。リヴァーグに保護される前の話だ。ただ、今の少女の言葉から、その頃のことが少し滲んでくる気がした。


「でも……慣れたくはないのです。怖いままでいたいのです、ちゃんと」


 バルカスが言っていた言葉が戻ってきた。慣れる必要はない。慣れたら駄目なこともある。ロリはその言葉を自分の言葉にしていた。


「ああ」


 燐は言った。


「怖いままでいい」


 ロリが頷いた。頷いて、また窓の外を見た。月が出ていた。雲が流れていて、月の輪郭が滲んでいる。嵐の前の月の形だった。


「明日は……晴れるのでしょうか」


「嵐が来る」


「嵐の後は?」


「晴れる」


「嵐の後は、海が綺麗になると聞きました。バルカスさんが言っていました」


「そうかもしれない」


「見てみたいのです。嵐の後の海」


 燐は窓の外を見た。月の光が波の上に落ちている。白い光が揺れて、散って、また集まる。繰り返している。


「船の上からも見られるのですか」


「見られる」


「嵐の途中は、どうなのですか」


「見えない。甲板に出られないから」


「嵐が落ち着いたら出られますか」


「落ち着いたら出られる」


「……それを、楽しみにしてもいいですか」


 燐は少し間を置いた。


「楽しみにしていい」


「嵐が来るのに、その後を楽しみにするのは変ですか」


「変じゃない」


 ロリが息を吐いた。胸の中の何かが少し緩んだ時の音だった。


 ロリが窓枠に頬杖をついた。目が半分閉じかかっている。眠気が来ているのか、ただ月を見ているのか、判断できなかった。


 燐は椅子の背に体を預けた。眠らなくていい。今夜はそばにいる。それだけでいい。答える言葉が見つからない時も、言葉で正しく慰めることができない時も、ここにいることが燐にできることだった。それが十分かどうかは分からない。ただ、今夜は十分でいいと思っていた。


 月明かりの中で、ロリがそっと口元に触れた。


 指先が、唇の端をほんの少し押さえた。


 少女の犬歯が、ほんの僅かに尖って見えた——燐はそれに気づかなかった。ランプを落としていたから、月の光だけが部屋に満ちていた。月明かりは白く、影を薄くする。燐が気づかないほどの、僅かな変化だった。


 ロリは手を離した。


 「明日」と呟いた。


 声が小さすぎて、燐には聞こえなかったかもしれない。


 窓の外で、海が鳴っていた。嵐の前の、低い音で。

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