第4章-74話「血の匂い」
朝霧が薄かった。
海に近づくにつれ、空気が重くなっている。湿り気を帯びた風が肌にまとわりつき、潮の匂いが草の匂いに混じった。昨夜見えた港町の灯りは、朝の光に溶けて消えていた。
パーティは海岸沿いの小道を南西に進んでいた。右手に低い丘陵、左手に灰色の海。波の音が絶え間なく聞こえている。遮蔽結界は安定していた。こめかみの圧迫感は昨日と変わらない。
バルカスが前方で足を止めた。
「集落がある。二十軒ほどだ」
丘の裾に小さな漁村が見えた。石壁の低い家が身を寄せ合うように並び、煙突から朝餉の煙が細く立ち上っている。干された網が海風に揺れ、魚の匂いが漂ってきた。腐りかけの海藻と、塩漬けの干物の匂い。生活の匂いだった。
「迂回するか」
燐が訊いた。バルカスは集落を見つめたまま、大斧の柄に手を置いた。
「いや。通る。ここを避けたら次の休息地点まで五時間は歩く。嬢ちゃんの足では厳しい」
ロリは黙って歩いていた。銀色の髪が潮風に流されている。昨日の海を見た時の高揚はまだ残っているようで、時折、左手の海に視線を向けていた。波頭が白く砕けるのを目で追っている。
「ロリちゃん、足は平気?」
リディアが横に並んだ。ロリは頷いた。
「はい。少し、足の裏が痛いですけれど」
「靴擦れね。集落で水をもらって、足を冷やしましょう」
ロリが小さく笑った。リディアの方を見上げ、「ありがとうございます」と言った。声が柔らかかった。
* * *
集落の入り口に井戸があった。
石組みの古い井戸で、滑車の金具が錆びている。バルカスが桶を引き上げ、水を確認した。澄んでいた。匂いもない。
「飲める。補給しておけ」
燐が水筒を満たしている間に、リディアがロリの靴を脱がせた。左足の踵に赤い擦れ跡がある。リディアが水を手のひらに受け、ロリの足にかけた。
「冷たい……です」
「我慢なさい。腫れる前に冷やさないと」
少女が顔をしかめたが、大人しく足を差し出していた。リディアの手が足首を支えている。冷たい水が擦れた皮膚を流れ、地面に小さな水溜まりを作った。
バルカスが井戸の脇に腰を下ろし、通信機を取り出した。ダイヤルを回す。ノイズだけが返ってくる。
「変わらないな。帝国の通信量が減ったままだ」
「良い知らせじゃないの?」
リディアが手を動かしながら言った。
「分からん。通信が減っているということは、暗号を変えた可能性がある。傍受を警戒しているなら、こちらの位置が絞られている証拠にもなる」
バルカスの声に感情はなかった。事実を述べているだけだ。燐は水筒の蓋を閉め、集落の様子を見た。漁師が網を繕っている。老婆が軒先に洗濯物を干している。子供の姿は見えない。小さな集落だが、戦火は及んでいなかった。屋根は無傷で、壁に焼け跡はない。
燐はロリの足を見た。リディアが丁寧に水をかけている。ロリの足は小さい。靴底が薄くなりかけていた。ラステルに着いたら靴を新調しなければならない。
「もう少しで着く」
燐が言った。ロリが顔を上げた。
「ラステルですか」
「ああ。昨日見えた灯りの町だ」
ロリの目が微かに輝いた。海の見える町。昨日、丘の上から見た橙色の灯り。ロリはまだ、町という場所をほとんど知らない。砦と、通り過ぎた廃村と、遠回りに避けた集落。それがロリの知る「人の住む場所」の全てだった。
「リン。町には、パンを売っている場所がありますか」
「あるだろうな」
「焼きたての、ですか」
「多分な」
ロリが両手を膝の上で組んだ。指先を絡ませ、期待を抱え込むような仕草をした。焼きたてのパンを知らない子供の顔だった。石パンの記憶しかないロリにとって、それは想像の中の食べ物だった。
「リディアさんが、パンは焼きたてが一番おいしいと言っていました」
「言ったわよ。本当のことだもの」
リディアがロリの足から手を離し、布で水気を拭いた。
「ラステルなら港町だから、朝に焼きたてのパンが並ぶはずよ。海の近くのパン屋は塩を利かせるの。生地がしっかりしてて、噛むと甘みが出るやつ」
ロリの唇が微かに開いた。想像している。焼きたてのパンの匂い。噛んだ時の甘み。知らないものを想像する時のロリの顔は、いつも同じだった。瞳が少し大きくなり、唇が開き、呼吸が浅くなる。
「早く行きたいです」
声が弾んでいた。
* * *
集落の広場で足を止めた。
広場と言っても、井戸の前の少し開けた空き地に過ぎない。石段が三段あり、その上に祠のような小さな建物がある。漁師の守護聖人を祀っているのだろう。祠の壁に貝殻が埋め込まれ、白く乾いた表面が日光を反射していた。
バルカスが警戒を続けている。大斧を背に立ち、集落の入り口と出口を交互に見ている。筋肉の張った腕が大斧の柄に置かれ、指先が微かに動いている。習慣だった。何かあればすぐに構えられる位置に手を置いている。
燐は石段に腰を下ろし、遮蔽結界の出力を調整していた。集落の中ではマナの流れが乱れやすい。人の気配が多い場所では結界の外縁を絞り、四人の存在だけを遮蔽する必要がある。半径を十メートルまで縮めた。消費は減るが、精密な制御が要る。こめかみの圧迫感が微かに増した。
少女が石段に座り、新しく巻き直した包帯越しに足を見ていた。リディアが予備の布を切って当てたものだ。
その時、集落の道の奥から人影が現れた。
旅人だった。
中年の男で、日に焼けた肌に、土埃にまみれた旅装をしている。背中に大きな荷袋を担ぎ、片手に杖を突いていた。片足を引きずっている。足首を捻ったのか、歩き方が不自然だった。
燐は旅人を見た。武器はない。マナの反応もない。ただの旅人だ。バルカスも同じ判断をしたのだろう、視線を向けたが、手は動かさなかった。
旅人が井戸に近づいてきた。水を汲むつもりらしい。井戸から三歩ほどのところで立ち止まり、燐たちに気づいた。
「旅の方ですかな。水をいただいても?」
穏やかな声だった。燐は頷いた。旅人が桶を下ろし、井戸の縄に手をかけた。
腕が見えた。
旅人の右腕に包帯が巻かれていた。手首から肘にかけて、きつく巻かれた布の間から、薄く血が滲んでいる。古い傷ではない。包帯の端が赤く染まり、乾きかけた血が茶色く変色している。小さな傷だった。普通なら気にも留めない程度の出血だった。
ロリが動いた。
正確には、動きが止まった。
石段に座っていたロリの体が、不自然に硬直した。両手が膝の上で止まり、指先が白くなるほど握り締められている。視線が旅人の腕に吸い寄せられていた。
燐は気づいた。
ロリの呼吸が変わっている。浅く、速い。吸い込むような呼吸だった。鼻腔を広げ、空気を貪るように吸っている。目が見開かれ、青藍の瞳の奥に、燐が見たことのない光が浮かんでいた。
「ロリ」
声をかけた。ロリは反応しなかった。視線が旅人の包帯から動かない。唇が微かに開き、歯の間から息が漏れている。
旅人は気づいていない。水を汲み上げ、一口飲み、桶を井戸の縁に置いた。包帯の巻かれた腕で額の汗を拭った。血の滲んだ布が日光を受けた。
少女が立ち上がった。
ゆっくりと、引き寄せられるように、一歩を踏み出した。
「ロリ」
燐は二度目に名を呼んだ。今度は低く、鋭い声だった。ロリの足が止まった。体が震えている。小刻みに、止められない震えだった。
旅人が振り返った。少女を見て、怪訝な表情を浮かべた。
「嬢ちゃん、どうした。顔色が悪いぞ」
少女は答えなかった。旅人を見つめたまま、両手で自分の口を覆った。指先が唇に食い込んでいる。
燐が立ち上がり、ロリの肩に手を置いた。肩が氷のように冷たかった。潮風のせいではない。ロリの体温が落ちている。
「すまない。連れの体調が悪い。先に行ってくれ」
旅人は頷き、荷袋を担ぎ直して歩き去った。片足を引きずる足音が遠ざかっていく。
少女が崩れた。
膝から力が抜け、石段に座り込んだ。両手で口を覆ったまま、小さく丸くなっている。肩が震えている。呼吸が荒い。
燐はロリの前にしゃがんだ。
「ロリ。俺を見ろ」
ロリの目が燐を見た。青藍の瞳が揺れている。さっき浮かんでいた見知らぬ光は消えていた。代わりに、恐怖があった。自分自身に怯えている目だった。
「リン……」
声が掠れていた。
「ロリは……なにか、変なのです」
少女の両手がゆっくりと口から離れた。指先が震えている。唇が白い。
「あの人の腕から……匂いがしたのです」
「匂い」
「血の……匂いです」
少女が自分の言葉に怯えるように、目を伏せた。
「鉄の匂いではなくて。甘い……匂いだったのです。果物のような。蜂蜜のような。ロリの鼻の奥で、甘い匂いがして……足が、勝手に……」
言葉が途切れた。少女の目から涙がこぼれた。声を上げない涙だった。頬を伝い、顎の先から落ちた。
「ロリは……おかしいのですか」
燐は答えなかった。答えられなかった。
ロリの言葉が胸の底に落ちた。血の匂いが甘い。足が勝手に動いた。燐にはその意味が分からなかった。分からないことが、喉に棘のように引っかかった。
リディアに目を向けた。
リディアはロリの後方に立っていた。端末を持っていなかった。腕を組み、ロリの背中を見つめている。表情が硬かった。軽口が消えている。
燐が視線で合図を送った。短い、一瞬の目配せだった。
リディアは頷いた。荷物に手を入れ、端末を取り出した。ロリの背後に回り、画面をロリに見えない角度で操作し始めた。指先が画面を滑る音が、波の音に紛れて消えた。
マナの測定。ロリの周囲のマナ反応を記録している。リディアの目が画面に向けられていた。研究者の目だった。昨日、少女の髪を梳いていた手と同じ手が、今は端末を操作している。リディアの唇が微かに引き結ばれた。
バルカスが動かずに立っている。大斧の柄を握り、集落の周囲を警戒している。ロリの異変には気づいている。気づいた上で、自分の役割を変えなかった。今ここでロリに必要なのは自分ではないと分かっている。
燐はロリの前にしゃがんだまま、ロリの手を取った。
冷たかった。
指先だけでなく、手のひらも冷たい。氷水に浸けたような冷たさだった。ロリの手は小さく、燐の掌の中にすっぽり収まった。震えが伝わってくる。
「ロリ。聞け」
少女が顔を上げた。涙が乾きかけている。瞳の揺れは収まらない。
「お前は化け物じゃない」
言った。言い切った。
声が震えなかったか、燐には分からなかった。ロリの手を握る力が強すぎないか。弱すぎないか。正しい言葉を言えたのか。何も分からなかった。ただ、今この瞬間にロリが聞きたい言葉はこれだと思った。思っただけで、確信はなかった。
少女の指が、燐の手の中で微かに動いた。握り返そうとしている。力が弱い。震えたまま、指先が燐の掌に触れた。
「……ほんとうですか」
「ああ」
一語だった。それ以上は言えなかった。
リディアの手が止まった。端末を静かに荷物に戻した。少女の後方で、壁に背を預けている。腕を組み、空を見上げていた。表情が読めなかった。
燐はリディアの視線を感じた。
何かを言いたそうな目だった。けれどリディアは何も言わなかった。今は言うべき時ではないと判断したのだ。端末に記録されたデータが何を示しているのか。リディアはそれを知っている。知った上で、黙っている。
* * *
集落を離れた。
午後の日差しが傾き始めている。海岸沿いの道は緩やかに下り、遠くに港町の輪郭が霞んで見えた。屋根の連なり。煙突の列。帆柱の影が空に突き出している。ラステルだった。
ロリは燐の隣を歩いていた。燐とロリの間に、半歩分の距離がある。ロリがその距離を縮めようとしない。縮めたいのに、縮められない。そういう歩き方だった。
ロリの視線が地面に落ちている。足元の砂利を見ている。海を見ない。朝にはあれほど波頭を目で追っていたロリが、今は海に目を向けない。
バルカスが先頭を歩いている。振り返らない。歩調を落としていた。ロリの足に合わせている。
リディアがロリの反対側を歩いていた。端末は出していない。何も言わない。時折、ロリの横顔を見ている。
沈黙が重かった。波の音だけが続いている。
燐はロリの手を見た。体の横に垂らされた小さな手。さっき握った手。冷たかった手。今もまだ、冷たいのだろうか。
「リン」
ロリの声だった。小さかった。風に消えそうなほど小さい声だった。
「はい……いいえ。あの」
少女が言葉を探している。視線が地面に落ちたまま、唇が微かに動いている。
「さっきの匂いが、まだ……鼻の奥に、残っているのです」
燐の足が一瞬止まった。すぐに歩き出した。ロリに気づかれたくなかった。
「甘い匂いが。消えないのです。ロリが変なのです。きっと、疲れているだけ……なのです」
最後の言葉が不自然だった。ロリ自身が信じていない言葉だった。疲れているだけではないことを、ロリは分かっている。分かった上で、そう言った。自分を安心させるためではなく、燐を安心させるために。
燐の喉が詰まった。
この子は、自分が怖いのだ。自分の中で何かが変わりつつあることが怖いのだ。血の匂いが甘い。足が勝手に動く。それはロリが望んだことではない。ロリの体が、少女の意志とは無関係に、何かに引きずられている。
けれどロリは、自分の恐怖よりも燐の不安を気にしている。
「ロリ」
「はい」
「明日、海の見える町に着く」
ロリが顔を上げた。
「そこでゆっくり休もう。パンも食える。焼きたてのやつだ」
少女の唇が動いた。笑おうとしていた。笑えなかった。唇の端が持ち上がりかけて、途中で止まった。
「……はい」
声が震えていた。
燐はロリの手を取った。二度目だった。今度はロリの方が先に指を絡めてきた。冷たい指が燐の掌に食い込んだ。爪が当たるほど強く握っている。
少女の横顔が夕日に照らされていた。銀色の髪が橙色に染まっている。青藍の瞳が海の方を見ていた。朝から初めて、海を見た。
瞳の中に海が映っている。昨日と同じ海だった。昨日と同じ波が打ち寄せ、昨日と同じ潮の匂いがした。
けれど少女の瞳の奥に、昨日にはなかったものがあった。暗い影のようなものが、青藍の底に沈んでいた。恐怖だった。自分が何になるのか分からない恐怖だった。消えていなかった。燐の言葉でも、燐の手でも、消せなかった。
風が吹いた。
潮の匂いの中に、少女だけが嗅ぎ取っている甘い残り香があった。




