第4章-69話「原初の闇」
書斎に午後の光が落ちていた。
色硝子の窓が西日を受け、石壁に赤銅色の模様を描いている。朝ならば琥珀だったはずの光が、この刻限では鍛冶場の残り火のように暗い。書架の革装丁が光を吸い、背表紙の金箔だけが鈍く反射していた。
蝋燭は点けていなかった。まだ日が残っている。グレゴリウスは薄い光の中で報告書を読んでいた。
三通目だった。
最初の一通はヴァルドからの定期報告。聖罰騎士団の現況と作戦行動の概要。簡潔で、余分な感想が一切ない。ヴァルドの報告はいつもそうだ。事実を事実として並べ、判断を上位者に委ねる。軍人として理想的な、面白味のない文章。
二通目は、そのヴァルドの報告に添付されていた別紙。「原初の闇」に関する騎士団内の反応を記した覚書だった。
グレゴリウスの指先が覚書の一節をなぞった。爪の手入れが行き届いた細い指が、紙の上を滑る。
——「原初の闇」の教義的見解を騎士団に通達した。ゼルギウスの精神的動揺は、これにより一定の収束を見ている。聖炎が無効化された事実は「原初の闇の発現体」に対する既知の現象として再解釈され、騎士団員の信仰基盤への影響は最小限に留まった。
グレゴリウスは報告書を机に置いた。
効いている。
数週間前にこの机の上で生み出した虚構が、二百名の騎士団員の信仰を繋ぎ止めていた。太古の聖典に記された、神に先立つ混沌の力。そんなものは存在しない。グレゴリウスがペン先で拵えた嘘だ。しかし嘘は教義の体系に矛盾なく嵌まり、聖炎が効かなかったという事実を飲み込み、消化していた。
本物を知る者だけが精巧な偽物を作れる。改竄前の聖典の文体を暗記しているからこそ、あの教義的見解には重みがあった。ヴァルドは疑問を持っただろうか。おそらく持ったはずだ。持った上で、反証の手段がないことを悟り、従った。それがヴァルドという男の美点であり、限界でもある。
三通目を取り上げた。
これは別の経路で届いたものだった。ラステルの内通者からの報告。海神聖堂の大司祭アマーリエが避難民救護施設の設置を決定し、聖職者の常駐を開始したという簡潔な通知。グレゴリウスが公式書簡で要請した「宗教間協力」が、予定通り機能し始めている。
港町を通過する全ての人間が、聖教の目に触れることになる。名前、出身地、同行者、移動経路。情報が集まる。あとは待てばいい。
報告書を三通とも重ね、引き出しに収めた。真鍮の取手を押し込み、鍵をかける。鍵穴の中で金属が噛み合う小さな音が、静かな書斎に落ちた。
グレゴリウスは椅子の背もたれに身を預けた。
蒼い瞳の少女。幼い外見。聖炎に対する絶対的な耐性。
ゼルギウスの報告書の文面が、まだ頭の中に残っている。あの男の筆跡は乱れていた。行間が狭まり、インクの乗りが不均一だった。信仰の根幹を揺さぶられた男の精神が、紙面に滲み出ていた。「原初の闇」の教義はゼルギウスの動揺を収めた。収めたはずだ。
しかし、収めただけだ。
ゼルギウスが見たものは消えない。あの男の目に焼きついた蒼い瞳は、教義の言葉で塗り潰せるものではない。いずれまた疑問が浮上する。そしてゼルギウスだけではない。聖罰騎士団の誰かが、あの少女と再び接触すれば、同じ問いが生まれる。
聖炎が効かない存在は、教義上あり得ない。
あり得ないはずのものが、実在する。
グレゴリウスは天井を見上げた。石のアーチの影が西日に赤く染まっている。あの少女の所在を突き止め、管理下に置かなければならない。放置すれば、嘘の体系は内側から崩壊する。
駒が一つ、足りない。
ヴァルドは命令に忠実だ。聖罰騎士団は追跡と捕縛に適している。ラステルの監視網も機能している。しかし、現地で動く目が必要だった。報告書を待つだけでは遅い。聖教の教義を体現し、独自の判断で情報を集められる人間。
グレゴリウスの指先が机の縁を叩いた。三度、静かに。それから止まった。
名前が一つ、浮かんでいた。
* * *
扉を叩く音は一度だった。
正確に一度。強すぎず弱すぎない、しかし迷いのない音。グレゴリウスは入室を許可した。
扉が開いた。
最初に目についたのは背の高さだった。入口の上枠に頭がほとんど届いている。痩身で、肩幅は広くない。頬が削げ、顎の線が鋭い。髪は短く刈り込まれ、額が広く露出していた。四十の半ばを超えた男の顔だが、目だけが若かった。深い灰色の虹彩に光が宿っている。信仰を持つ者の目だ。疑うことを忘れた目。
異端審問官マリウス。
黒い法衣は聖教の正装ではなく、審問官独自の略装だった。胸元に銀の太陽と書物の紋章が留められている。法衣の裾は膝下で切られ、長靴の上端が見えていた。旅慣れた男の身支度だ。呼ばれることを予期していたのか、荷造りを済ませた後のような身軽さがあった。
マリウスは書斎の中央で足を止め、一礼した。深い礼で、しかし時間は短い。
「猊下。お呼びでしょうか」
声は低く、よく通った。書斎の石壁に反響し、声量以上に存在感がある。
「座りなさい」
グレゴリウスは机の対面に置かれた椅子を示した。樫材の簡素な客用椅子で、座面に革が張られている。書斎に客用の椅子は一脚しかない。グレゴリウスは通常、来訪者を立たせたまま話す。座るよう促すのは、長くなる話の時だけだった。
マリウスは座った。背筋が伸びたまま、椅子の背もたれには触れなかった。両手は膝の上に置かれ、指が組まれている。祈りの形ではないが、それに近い。
グレゴリウスはしばらく黙っていた。
マリウスを観察していた。この男の記録は手元にある。異端審問官としての経歴十二年。帝国北部の辺境教区で三件の異端審問を指揮し、いずれも結審。南部占領地での術式犯罪の摘発で功績を上げた。聖炎の術式に習熟し、浄化の儀礼を独力で執行できる数少ない聖職者の一人。
能力に疑いはない。問題は、別のところにある。
「マリウス」
「はい、猊下」
「ラステルという港町を知っているな」
「リオファル連合の西岸。海神聖堂の勢力圏です。大司祭アマーリエが管轄する。帝国臣民の渡航は制限されていますが、聖職者の巡礼名目であれば——」
「知っているな、と聞いたのだ」
グレゴリウスの声は穏やかだった。微笑みすら浮かんでいる。しかしマリウスの言葉はそこで止まった。
沈黙が数秒。マリウスは顎を引いた。
「存じております」
「よろしい」
グレゴリウスは引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。畳まれた紙を机の上に広げる。地図だった。西岸の海岸線と港町が墨で描かれ、街路の概略が細い線で記されている。ラステルの名が赤いインクで記されていた。
「この港町に、聖教にとって重大な脅威が接近しつつある可能性がある」
マリウスの目が動いた。地図からグレゴリウスの顔へ。灰色の虹彩の中で光が揺れた。
「脅威とは」
「先日、全騎士団に通達した教義的見解を覚えているか。原初の闇について」
「覚えております」
マリウスの声が変わった。低さは同じだが、密度が増した。「原初の闇」という言葉に反応している。グレゴリウスはそれを聞き逃さなかった。
「ゼルギウスが遭遇した存在。聖炎を無効化した少女。あの報告の対象が、西岸方面に移動した可能性がある」
「聖炎が効かぬ存在」
マリウスが復唱した。声の中に嫌悪はなかった。畏怖でもない。あるのは使命感だった。炭の中の熾火のように、言葉の底で静かに燃えている。
「浄化すべきです」
グレゴリウスの右手が机の上で止まった。
早い。
報告を聞いただけで結論が出ている。この男の中では、聖教の脅威は全て浄化の対象だ。議論も調査も判断の分かれ道も存在しない。脅威があれば、浄化する。それがマリウスの信仰だった。
「マリウス。急ぐな」
グレゴリウスの声は柔らかかった。叱責ではない。教師が生徒に語りかける声だ。
「お前をラステルに派遣する。任務は観察だ。対象の所在を確認し、行動を記録し、報告する。それだけだ」
マリウスの指が膝の上で僅かに動いた。組まれていた指がほどけ、また組み直された。
「観察のみ、でございますか」
「そうだ。接触は禁ずる。対象への直接的な接近は、書面による私の承認を得てからだ。独断での確保も禁止する。お前はラステルに入り、聖職者の巡礼を装い、目と耳になれ。それが命令だ」
「……承知しました」
間があった。「承知」の前に、僅かな沈黙。グレゴリウスはそれを正確に聞き取っていた。
「不服か」
「不服ではございません」
マリウスは即答した。顎を引き、目を伏せている。聖職者の従順な姿だ。十二年の審問官としての経歴が、この所作を身体に刻み込んでいる。
「ただ、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「聞こう」
「その存在が……原初の闇の発現体であるならば。聖典の教えに従い、聖教の使命として、浄化こそが正しき道ではないのですか」
グレゴリウスは答えなかった。すぐには。
机の上の地図に視線を落とし、ラステルの赤い文字を見つめた。蝋燭を点けていない書斎の中で、西日の赤銅色の光がその文字を照らしている。
「マリウス。お前は敬虔な聖職者だ」
「身に余るお言葉です」
「お前の信仰の深さを、私は疑わない。お前が神の教えに忠実であることも」
グレゴリウスの声は穏やかだった。しかし次の言葉で、声の温度が一段下がった。
「しかし、忠実であることと、正しい判断を下すことは、別の能力だ」
マリウスの肩が微かに動いた。硬くなったのか、あるいは力を抜いたのか。グレゴリウスからは判別できなかった。
「原初の闇の発現体は、我々がこれまで対処してきた異端とは質が異なる。聖炎が効かない。それは、従来の浄化手段が通用しないことを意味する。無策で接触すれば、聖教の側が損害を被る。お前を失えば、聖教は有能な審問官を一人失う。そのような消耗は許されない」
理屈だった。正しい理屈だ。マリウスにも反論の余地はないはずだ。
グレゴリウスの本心は別にある。あの少女を浄化させるわけにはいかない。あの存在が「原初の神」の系譜に連なるものならば、その力を掌握することこそが最終的な目的だ。殺してしまえば、手札が消える。
マリウスは頷いた。
「猊下のご判断に従います。観察に徹し、報告いたします」
「よろしい。出立は三日後だ。旅程と偽装の詳細は、明日、書面で渡す」
マリウスが立ち上がった。一礼して、扉に向かう。
その背中を見ながら、グレゴリウスは考えていた。
使える男だ。能力は確かで、聖教への忠誠は本物だ。現地で動く目としては申し分ない。マリウスは命じられたことを実行する。観察しろと言えば観察する。報告しろと言えば報告する。
それが、マリウスの信仰の形でなければ。
あの男の「承知しました」の前の沈黙。あの間に、何が流れていたのか。従順か。それとも、留保か。
管理できる。
グレゴリウスは自分にそう言った。マリウスの信仰は深いが、組織の秩序を超えるほどではない。十二年の経歴の中で、命令に背いた記録は一度もない。北部辺境でも南部占領地でも、上位者の指示に従い、逸脱なく任務を遂行した。今回も同じだ。観察しろと言えば、観察する。
管理できる。
その確信は、グレゴリウスの長い経験に裏打ちされていた。聖教の組織は命令系統で動く。命令系統の中にいる限り、個人の信仰は制御下に置ける。枢機卿の命令は神の代行だ。それに背くことは、信仰そのものへの背反となる。
扉が閉まった。マリウスの足音が廊下を遠ざかり、石壁に吸い込まれて消えた。
* * *
廊下を歩きながら、マリウスは口の中で祈りの一節を唱えていた。
声にはしない。唇の裏側で舌が動き、歯の隙間から息が漏れるだけだ。習慣だった。判断を要する場面の後に、祈りを唱える。神の意志と自分の行動が一致していることを確かめるための、内なる儀式。
石壁の回廊は西日が差し込まず、薄暗かった。窓のない区間が続き、壁の燭台に火が入っていない。足元は見えている。長年この回廊を歩いてきた身体が、段差と角の位置を覚えていた。軍靴の底が石畳を踏む音が一定の間隔で響く。
観察のみ。接触は書面承認を要する。確保は禁止。
猊下の命令は明確だった。明確で、合理的で、そして慎重だった。
マリウスは慎重さを美徳とは思わない。
慎重であることは、恐れていることだ。恐れは信仰の敵だ。神の御前において、恐れるべきものは何もない。原初の闇の発現体が聖炎を退けたとして、それは浄化の方法を変えるべき理由ではあっても、浄化を放棄する理由にはならない。
穢れは在る。穢れは祓われねばならない。それが聖教の、そして神の、千年の教えだ。
猊下は聡明な御方だ。聖教の全てを見渡し、嵐の中でも組織を導く手綱を握り続けてこられた。その判断を疑う資格は、マリウスにはない。
ないはずだ。
回廊の角を曲がった。窓が一つあった。小さな窓だが、硝子は嵌まっていない。切り取られた空が見えた。西の空が赤く染まりつつある。聖都の鐘楼の影が、夕暮れの光の中に黒く立っている。
マリウスは足を止めた。
窓枠に手を置いた。石の縁が冷たい。夕風が吹き込み、法衣の裾を揺らした。
ラステルの港町に、聖炎を退ける少女がいる。あるいは向かっている。猊下は「観察」と仰った。観察して、報告する。報告を受けて、猊下が次の判断を下す。それが組織の秩序だ。
マリウスの指が窓枠の石を押した。爪が白くなるほど力を込めた。
組織の秩序と、神の意志が、同じであるとは限らない。
猊下は聡明な御方だ。聡明であるがゆえに、慎重になる。慎重であるがゆえに、遅くなる。遅くなれば、穢れは広がる。穢れが広がれば、浄化に要する犠牲が増える。
今のうちに焼けば、少ない犠牲で済む。
その考えが頭をよぎった瞬間、マリウスは祈りの一節を繰り返した。唇の裏で、舌が早く動いた。
猊下の命令に従う。観察に徹する。報告する。それが、今の自分の務めだ。
風が止んだ。窓の外の鐘楼が、夕焼けの中で影を落としている。
マリウスは窓枠から手を離した。指に石の冷たさが残っていた。歩き出す。軍靴の音が回廊に戻った。一定の間隔で、正確に。
務めだ。
務めに従う。
それが、今は、正しい。
——今は。
* * *
書斎に蝋燭を点けたのは、日が完全に落ちてからだった。
火打石を打ち、芯に火を移す。蝋燭の炎が立ち上がり、机の上を橙色に染めた。蝋の甘い匂いが鼻腔に触れた。古い羊皮紙と革装丁の乾いた匂いに混じり、書斎の空気が夜の色に変わる。
グレゴリウスは机の上に地図を広げていた。
大陸の西岸。海岸線が南北に走り、港町が点在している。ラステルの位置に赤いインクの印がある。先ほどマリウスに見せたのと同じ地図だが、別の印が追加されていた。聖教の内通者の配置を示す青い点が、ラステルの周辺に七つ。アマーリエの避難民救護施設の位置を示す緑の印が二つ。
監視の網は張られている。マリウスが現地に入れば、さらに目が増える。
グレゴリウスの視線は地図の上を移動していた。ラステルから東へ。森林地帯を越えて、アウレリアへ。さらに東へ。鉄門峡を越えて、帝国の版図へ。
あの少女はどこにいるのか。
ゼルギウスとの接触があったのは、西岸に向かう途中だったと推定されている。街道の通行記録や宿場の聞き込みからは足取りが掴めない。術式による追跡もこの距離では限界がある。しかし、西に向かっている。移動の方向性だけは確かだ。
西に向かうならば、港町に行き着く。ラステルか、その近辺の沿岸都市か。
グレゴリウスの指が地図の上のラステルに触れた。爪の先が赤いインクの文字をなぞる。
あの少女を手中に収めれば、全てが変わる。
「原初の神」の系譜に連なる存在。聖教が千年にわたって隠蔽してきた真実の、生きた証拠。その力を掌握できれば、聖教は名実ともに大陸の精神的支配者となる。真実を知る者だけが真実を使える。嘘の聖典を土台にしながら、本物の「神」を管理下に置く。
しかし、失敗は許されない。
マリウスに任せた観察が第一段階だ。所在の確認。同行者の特定。周辺の勢力関係の把握。その情報を基に、次の手を打つ。確保は、その後だ。
蝋燭の炎が揺れた。窓の隙間から夜風が入り込んだのだろう。炎が傾き、机の上の影が一瞬広がった。
地図の上の赤い文字が、蝋燭の光に照らされている。ラステル。
グレゴリウスは地図を見下ろしたまま、唇を動かした。声は出なかった。唇の形だけが言葉を作った。
——原初の闇。
嘘の名前だ。自分がこの机の上で創り出した虚構。その虚構が今、二百名の騎士団員を動かし、異端審問官を港町に送り、監視網を拡大させている。嘘が組織を動かし、組織が嘘を真実に変えていく。
その少女は今、どこにいるのか。
グレゴリウスの指が地図の西岸を辿った。海岸線の曲がりくねった線を、爪の先がゆっくりと撫でる。
蝋燭の炎が静まった。風は止んでいた。書斎の中に音はなく、古い羊皮紙と溶けた蝋の匂いだけが漂っている。
地図の上に、グレゴリウスの影が落ちていた。指先がラステルの赤い文字の上で止まり、動かなかった。




