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第4章-70話「遮蔽結界」

 草原の匂いが変わった。


 丘陵を抜けてから三日目、風に混じる土の匂いが薄れ、代わりに青い草の匂いが強くなっていた。野花の甘さではなく、茎を折った時に滲む水気のある匂い。雨期が近い空気だった。


 燐は歩きながら、脳内の回路に意識を向けた。


 遮蔽結界を最低出力で維持している。マナを周囲の自然場に霧散させ、四人分の気配を草原のマナに紛れ込ませる術式。遺跡の村で初めて試した時は、回路が悲鳴を上げ、鼻血が垂れた。あれから二週間。構造を変えた。


 出力で押すのをやめた。


 回路の焼損部分を迂回し、残存する経路だけで術式を回す。精度は全盛期の十分の一以下だが、低出力であれば持続できる。結界の境界を鋭く区切るのではなく、曖昧に滲ませる。完璧な遮蔽ではない。近距離の探知には無力だ。しかし遠方からのマナ走査に対しては、四人の存在を草原の背景に溶かすことができていた。


 こめかみの奥に鈍い圧迫感がある。慣れた痛みだった。鼻血は出ない。


「燐」


 リディアが横に並んだ。ゴーグルを額に上げ、手元の端末を操作しながら歩いている。視線は画面に落ちたまま、声だけがこちらを向いていた。


「ちょっと止まって。測りたいの」


 燐は足を止めた。バルカスが三歩先で振り返り、無言で周囲を見渡した。ロリがリディアの隣に立ち、首を傾げている。


「何を測る」


「あんたの結界の境界面。端末のマナ感応素子で外縁を拾えるか試してるんだけど」


 リディアの指が端末の上を走った。数値が並び、波形が描かれている。眉間に薄い皺が寄り、口の端が上がった。知的興奮の兆候だった。


「……うん。拾えた。けど面白いわね、これ」


「何が」


「境界がないの。普通の結界は、内と外で明確なマナの段差ができる。あんたのはそれがない。内側のマナが外側に向かって緩やかに拡散して、自然場と区別がつかなくなってる」


「意図してやっている。鋭い境界を作ると回路に負荷がかかる。滲ませた方が楽だ」


「楽だから滲ませた、って——結果的に最適解になってるのよ。境界面がないから、外からの走査では結界の存在自体が検出できない。燐、これ」


 リディアが端末を燐に見せた。波形が二つ並んでいる。一つは結界の内側、もう一つは十メートル先の地面。波形はほぼ同一だった。


「自然場との差異が誤差の範囲内。遠距離走査では拾えないわ。百メートルの距離なら確実に見逃す」


「追跡者がマナ走査を使っていれば、の話だが」


「使ってるわよ、間違いなく。使っていなければ、あんたの焼損した回路がまだ微弱にマナを漏らしてることに気づいてないってことになる。カゲツがそこまで無能だとは思えない」


 燐は頷いた。リディアの分析は正確だった。カゲツは優秀な追跡者だ。マナ走査を併用しているはずだった。遮蔽結界が機能しているなら、追跡の精度は落ちている。確信はないが、方向性は間違っていない。


「もう少し結界を広げられないか試す。今は半径十五メートル程度だ。二十メートルまで伸ばせれば、行軍中の隊形に余裕ができる」


「やってみなさい。測るから」


 燐は意識を回路に向けた。結界の外縁を少しずつ押し広げる。草原のマナを掬い上げるようなイメージで、結界の密度を薄めながら面積を広げた。こめかみの圧迫感が微かに増した。許容範囲だった。


「十八メートル……十九……二十。安定してるわね」


 リディアの声が端末から顔を上げた。燐を見ていた。目が細まっている。知的興奮とは違う何かが、その表情に混じっていた。


「燐。一つ聞いていい?」


「何だ」


「あんたの脳内魔法式。構造を外から観測できるの、知ってる?」


「……知っている。マナの流れを読めば、回路の配線は推測できる」


「推測じゃなくて、見えてるの。端末の感応素子を燐の頭部に向けると、回路の構造がマナの流動パターンとして出力される。焼損部分も含めて」


 リディアの声が低くなった。端末を閉じ、燐の目を見た。


「あんたの回路構造——あのね、燐」


 言い淀んだ。リディアが言い淀むのは珍しかった。


「人間の設計じゃないのよ」


 声は小さかった。呟きに近い。


 燐は黙った。リディアの言葉の意味を、頭の中で転がした。人間の設計ではない。つまり何だ。脳内魔法式は帝国の技術から派生したものだと、燐自身は理解していた。士官学校で理論を学び、訓練で身につけた技術だ。それが人間の設計ではないとは、どういう意味か。


 分からなかった。分からないまま、頷いた。


「今は関係ない。結界が機能しているなら、それでいい」


「……そうね。今はそうね」


 リディアが端末をポケットにしまった。何か言いたそうな表情が残っていたが、飲み込んだ。燐はそれ以上聞かなかった。


* * *


 日が傾き始めた頃、パーティは草原の窪地に腰を下ろした。


 風が当たらない場所を選び、バルカスが周囲を見回してから大斧を地面に立てかけた。刃が西日を受けて赤く光っている。ロリが燐の隣に座り、水筒の蓋を両手で回した。


 焚き火は焚かなかった。煙は遠方からでも見える。代わりに保存食を配り、冷たい水で流し込む。携行パンの硬さに少女が顔をしかめたが、文句は言わなかった。


 リディアが端末を取り出し、星がまだ見えない空に向かって何かを計算し始めた。バルカスは窪地の縁に移動し、南東の方角を見ている。胸ポケットに手が触れた。通信機だった。


 ロリが燐の隣で、膝を抱えていた。


「リン」


「何だ」


「あの壁画のこと、覚えていますか」


 遺跡の壁画だった。燐は頷いた。地下神殿の壁一面に描かれた、数千年前の絵。ロリの記憶を呼び覚ました壁画。あの地下空間の冷たい空気と、壁画を見上げた時の少女の横顔を覚えている。


「覚えている」


 ロリが水筒の蓋を閉じた。両手で水筒を握り、膝の上に置いた。指先が水筒の表面をなぞっている。何かを言おうとして、言葉を探しているように見えた。


「あの絵の中に、ロリがいたのです。ロリと同じ顔をした……人が」


 ロリの声が小さくなった。膝を抱える腕に力が入っている。青藍の瞳が地面の草を見つめていた。


「あの人は——壁画の人は、光を使っていました。すごく大きな、白い光を」


 少女の唇が一度閉じた。呼吸を整えるように、小さく息を吸った。


「周りの人たちが、あの人を見て……怯えているように見えたのです。跪いている人もいました。けれどそれは……崇めているのではなくて、恐れているように見えました」


 風が窪地の縁を舐めた。草が揺れ、乾いた草の匂いが鼻腔を撫でた。リディアの端末を操作する音が止まっていた。バルカスも動いていなかった。少女の声が小さいから、聞こえていないかもしれない。けれど窪地の空気が変わっていた。


「ロリは……怖いものかもしれません」


 声量が落ちた。吐息に混じるほどの音量だった。ロリの指が自分の袖を握りしめている。白い指の関節が浮き上がっていた。


「壁画の人が怖いものだったなら、ロリも同じかもしれません。だって、同じ顔をしているから」


 燐は少女を見た。銀色の髪が風に揺れ、夕日の残光が頬の輪郭を照らしている。少女の目は地面を見たままだった。水筒を握る手が微かに震えていた。


 沈黙が落ちた。草の音だけが聞こえた。


「けれど」


 ロリが顔を上げた。青藍の瞳が燐を見た。透明な瞳の奥に、怯えと、それを押し戻そうとする意志が見えた。


「リンたちがいるから。だから——大丈夫、です」


 最後の二語が、少しだけ遅れた。確信ではなかった。自分に言い聞かせるような響きがあった。それでも少女の声は震えていなかった。怖いものかもしれない自分を認めた上で、それでもここにいることを選んでいる。そういう声だった。


 燐は何も言わなかった。言葉が見つからなかったのではない。言葉では足りないと思ったのだ。左手を伸ばし、ロリの頭に置いた。銀色の髪が指の間を流れた。それだけだった。


 ロリの肩の力が、少しだけ抜けた。水筒を握る指が緩み、膝の上で手が開いた。


* * *


 夜になった。


 ロリとリディアが窪地の底で並んで横になり、寝息が聞こえ始めた。リディアがロリに上着をかけ、ロリがリディアの腕にしがみつくようにして眠っている。


 燐はバルカスの隣に座っていた。遮蔽結界を最低出力で維持しながら、闇の中に耳を澄ませている。虫の声と風の音だけが響く夜だった。


 バルカスが胸ポケットから通信機を取り出した。


 小さな金属の箱だった。帝国製の短波通信機。バルカスが砦から携行してきたものだ。太い指が周波数のダイヤルを回すと、微かなノイズの中に断片的な音声が混じった。


 帝国の通信だった。


 暗号化されているが、パターンの一部はバルカスの経験で解読できる。帝国軍の通信プロトコルは、砦の防衛で何度も傍受してきたものだった。燐は黙って聞いていた。ノイズの中に、短い符号列が繰り返されている。師団番号と移動方位を示す符号だった。


「第三師団が南東に転進した。穀倉地帯の確保だ。砦への圧力は当面下がる」


 バルカスの声が低い。通信機をポケットに戻さず、掌の上で転がしている。金属の角が指の腹に食い込んでいた。


「EISENSTURM後の再編か」


「ああ。攻勢の第二段階に入ったらしい。補給線の延長が問題になってる。砦を叩く余裕はない。しばらくは」


 しばらくは。その先を、バルカスは言わなかった。


 通信機のノイズが夜風に混じって消えていく。バルカスがダイヤルを切った。沈黙が戻った。


 燐は空を見上げた。星が出ている。リディアが基準星と呼んだ青白い光が、天頂の近くにあった。


「軍曹」


 バルカスの肩が微かに動いた。普段、燐はバルカスをそう呼ばない。


「何だ」


「砦に戻るべきだ。帝国の圧力が下がっている今なら、南東に回れば戻れる」


 バルカスの手が、通信機の上で止まった。


 長い沈黙があった。虫の声が遠くなり、風が草を擦る音だけが残った。バルカスの呼吸だけが聞こえた。深く、ゆっくりとした呼吸だった。


「お前が決めるな」


 低い声だった。怒りではなかった。静かで、硬い声だった。地面から響くような重さがあった。


「俺は俺の判断でここにいる」


 バルカスの目が燐を見た。闇の中で、瞳の輪郭だけが微かに光っていた。顔の古傷が影に沈み、口元の線だけが見えた。


 燐は黙った。


 バルカスの声には、反論を許さない質量があった。命令でも義務でもない。バルカスは自分の意志で、ここにいることを選んでいる。砦にはゲルトがいる。カイがいる。セレスがいる。バルカスが育てた兵たちが、バルカスの帰還を待っている。それを承知の上で、バルカスはここにいる。目の前の三人を選んでいる。


「……分かった」


「分かったなら黙れ」


 バルカスが通信機をポケットに戻した。大斧の柄に手を置き、南東の方角を見た。砦がある方角だった。


 長い間、バルカスはその方角を見ていた。星明かりの下で、大きな背中が微動だにしなかった。通信機を入れたポケットの上に、右手が一度だけ触れた。


 やがて視線を前に戻した。草原の闇に目を向け、それきり動かなかった。


 燐は遮蔽結界の出力を微かに上げた。四人分の気配を、草原の夜に溶かした。こめかみが軋んだ。許容範囲だった。


 見張りの夜が、静かに続いていた。


* * *


 明け方、草原に霧が出た。


 白い霧が窪地を満たし、ロリの銀色の髪に細かい水滴がついていた。燐が肩を叩いて起こすと、ロリが目をこすりながら身を起こした。


「おはようございます、リン」


「ああ。霧が出ている。足元に気をつけろ」


 リディアが伸びをしながら立ち上がった。ゴーグルを引き下ろし、霧の中で端末を確認している。


「結界、夜通し維持してたの?」


「ああ」


「体調は」


「問題ない」


 リディアが燐の顔を見た。顔色を確かめているのだと分かった。鼻の下に血の跡がないことを確認して、小さく息を吐いた。


「上出来ね。最初に試した時は五分で鼻血出してたのに」


「構造を変えた。出力ではなく、効率で回している」


「知ってる。昨日測ったでしょ」


 リディアが髪を束ね直しながら歩き出した。ロリがその背中を追い、燐の横を通り過ぎる時に袖を軽く引いた。


「リン、結界のこと——ロリにはよく分かりません。けれど、リンが頑張っているのは分かります」


「頑張ってはいない。必要だからやっているだけだ」


「それを頑張っていると言うのです」


 ロリの声に笑みが混じっていた。小さな笑みだったが、確かにそこにあった。


 バルカスが窪地の縁から降りてきた。大斧を背負い、霧の向こうを顎で示した。


「出るぞ。霧は昼前に晴れる。それまでに丘を越えておきたい」


 四人が歩き出した。


 霧の中を、遮蔽結界が覆っている。燐のマナが周囲の霧のマナと混じり合い、四人の存在を白い世界の中に溶かしていた。追跡者がどこにいるかは分からない。どれだけ距離を稼げているかも分からない。


 それでも、昨日より結界は安定していた。


 燐は前を向いて歩いた。こめかみの痛みは、もう気にならなかった。

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