第4章-68話「鉄門の棘」
三日目の朝、カイは岩棚の上で目を覚ました。
背中が痛い。砂利混じりの岩肌が軍服の布越しに背骨を押していた。頭の上に薄い空が広がっている。峡谷の切れ目から覗く空は、夜明け前の藍色から、端の方が淡い灰に滲み始めていた。風が峡谷の底を這い、干からびた苔の匂いを運んでくる。
隣で、ヴォルフが片膝を立てたまま微動だにしていなかった。眠っていたのか起きていたのか、分からない。この男は起きている時も寝ている時も同じ姿勢で同じ表情をしている。三日間の偵察行で、カイはそのことだけを確信した。
「交代する」
ヴォルフの声は囁きだった。峡谷の岩壁は音を跳ね返す。通常の声量で話せば百メートル先まで届く。
「いえ、もう起きてます」
カイは半身を起こし、岩棚の縁に肘をついた。眼下に鉄門峡の底が広がっている。幅十二メートルほどの谷底を、干上がった川床が蛇行しながら東西に走っていた。両側の崖は高さ四十メートル。垂直に近い岩壁が空を狭め、日の光が谷底に届くのは正午前後の二時間だけだ。
三日間で分かったことがある。
帝国の補給車列は二日に一回、東の鉄門から峡谷に入る。荷馬車は六両から八両編成で、護衛は二百名前後。先頭に斥候が十名。殿に弓兵が三十名。車列の両側を歩兵が固め、馬車と馬車の間隔は約十五メートル。峡谷に入ると隊列が縦に伸び、先頭から殿までの距離は三百メートルを超える。
全長三百メートルの芋虫。峡谷の中では展開もできず、反撃の射線も通らない。
カイは革の手帳を開いた。ヴォルフが記録した数字が、細かい文字で三頁に渡って書き込まれている。車列の通過時刻。護衛の交代パターン。馬の蹄の音が岩壁に当たる間隔から推定した行軍速度。ヴォルフは無駄口を叩かない代わりに、目と耳で拾った情報を一つも漏らさなかった。
「戻ります」
ヴォルフが頷いた。それだけだった。
* * *
砦に戻ったのは、その日の夕刻だった。
詰所にはゲルトとブレナンが待っていた。トーマスが水の入った杯を差し出し、カイはそれを一息で空にした。三日分の砂埃が喉にこびりついていて、水が食道を落ちるたびに砂利を洗い流すような感触があった。
「報告する」
ゲルトが促すまでもなかった。カイは手帳を机の上に開き、ヴォルフの記録を読み上げた。車列の規模。護衛の編成。通過時刻。馬車の積荷を覆う帆布の色から推測した物資の種類。
ブレナンが口笛を吹いた。
「三日で全部拾ったのか。大したもんだ」
「ヴォルフ殿の仕事です」
「お前も見てたんだろう。目が二つ増えれば情報も増える」
ゲルトが配置図の上に指を置いた。鉄門峡の線を爪先でなぞる。数日前の夜にゲルト自身が書き込んだ伏撃候補地点の印が、まだそこにあった。
「候補地点は」
カイは手帳をめくり、挟んでおいた薄紙を引き出した。ヴォルフと二人で書き上げた略図だ。
「ここです。峡谷の西寄り、川床が屈曲する地点。崖の上から谷底までの高低差が三十五メートル。車列がカーブに差しかかると、先頭と殿の間に岩壁が入って互いが見えなくなる。護衛が分断される」
ゲルトの目がカイの略図と自分の配置図を照合していた。指が候補地点の印に触れ、止まった。
「同じ場所を見ていたか」
「はい」
ゲルトの唇が僅かに動いた。笑みではなかった。確認だった。
「バルカス隊長の目は正しかった」
カイの背筋に熱が走った。言葉の意味を咀嚼する前に、身体が反応していた。バルカスの名前が出るだけで、胸の奥の何かが引き締まる。
ブレナンが椅子の背もたれに手をかけた。
「で、いつやるんだ」
「次の車列は明後日。夜明け前の薄明を使う」
ゲルトの声に迷いはなかった。
「カイ。お前が伏撃隊の指揮を取れ」
呼吸が一拍止まった。
「……俺が、ですか」
「偵察に行ったのはお前だ。地形を知っている。ヴォルフの情報を読める。それに——」
ゲルトが言葉を切った。カイを見ていた。
「いつまでも斥候のままではいられない」
カイは唾を呑んだ。喉の奥に、さっき飲んだ水の冷たさがまだ残っていた。
「了解です」
* * *
伏撃の編成は十五名だった。
斥候四名、弓兵八名、ブレナンの傭兵から火矢の扱いに長けた三名。少数。当たり前だ。伏撃は速度が全てで、人数を増やせば足音が増え、発見される確率が跳ね上がる。
砦の武器庫で矢を選んでいる時、セレスが現れた。
銀灰色の髪を後ろで一つに結び、迷彩外套を羽織っている。魔導ライフルを肩に掛け、腰には短刀。無言でカイの横に立ち、矢筒の中身を確認し始めた。
「セレス」
「暗号が変わった」
カイの手が止まった。
「帝国の通信。三日前と昨日とで、符号の並びが違う。内容は読めない。ただ、変わった」
セレスの目はカイを見ていなかった。矢の穂先を指先で確かめながら、報告をしている。いつものことだ。この女は報告と日常動作を同時に済ませる。
「それは……まずいのか」
「分からない。ただ、対策が始まっている」
対策。帝国が補給線への攻撃を想定し始めているということだ。
「伏撃。一回目は通る。二回目からは」
セレスはそこで言葉を切った。矢筒を閉じ、カイに渡した。
「気をつけて」
それだけ言って、背を向けた。迷彩外套の裾が武器庫の薄暗がりに溶けていく。
カイは矢筒を受け取ったまま、しばらく立っていた。セレスの「気をつけて」は珍しい。普段は「行ってこい」すら言わない。
矢筒の革紐を肩にかけた。重さが鎖骨に食い込む。この重さを、十五人の命と一緒に背負って峡谷に降りる。
* * *
作戦の前夜、カイは伏撃隊の十五名を中庭の隅に集めた。
焚き火は焚かなかった。夜目を慣らすためだ。星明かりの下で、十五の顔が薄い輪郭だけを浮かべている。斥候のマルクスが腕を組んでいる。弓兵のハンスが弓弦を指で弾いている。傭兵のドリスが火矢の油壺を手の中で転がしている。
「明日の第三の鐘で出発する。峡谷までの行軍は二時間。配置完了は夜明けの一刻前。車列の通過予想時刻は日の出の前後」
カイの声は低かった。聞き取れるぎりぎりの音量。壁の向こうに帝国の斥候がいないとは限らない。
「崖の上から火矢を二斉射。狙いは荷馬車の帆布。燃えたら即座に退く。帝国の護衛が崖を登るには最低でも十五分かかる。登り始める前にこっちはもういない」
弓兵のハンスが手を挙げた。
「二斉射で足りますか」
「足りる。火矢が帆布に刺されば、風が仕事をしてくれる。峡谷の底は風の通り道だ。乾いた帆布に火がつけば——消すのは帝国の仕事だ」
傭兵のドリスが低く笑った。
「やるじゃねえか、坊主。三日前まで偵察に這い回ってた奴とは思えん」
「這い回ってたから分かるんです」
空気が僅かに緩んだ。カイはそれを感じ取り、すぐに引き締めた。
「撤退路は二本。第一撤退路は崖の西側を降りて川床を南に走る。第二撤退路は崖の上をそのまま西に。帝国が崖を登ってきた場合は第二撤退路を使う。どちらを使っても砦までは四時間。合流点は——」
カイは地面に短剣で線を引いた。星明かりで見える程度の浅い溝。
「ここ。旗岩の西百メートル。合流後は斥候が殿を務める。弓兵と傭兵が先に走れ。全員揃ってから砦に向かう。一人も残さない」
最後の一文は、自分に言い聞かせていた。バルカスの声がどこかで重なった気がした。
* * *
夜が明ける前の闇は、一番深い。
第三の鐘が砦の塔から落ちた時、十五名は既に南門の外にいた。月はなかった。星だけが空にあり、峡谷に向かう荒れ地の石が、星光を受けて鈍く光っている。足元の石を踏むたびに、靴底を通して冷気が伝わってきた。昼間の熱が抜けきった石は、鉄のように冷たい。
先頭をヴォルフが歩いていた。偵察で三日間歩いた道だ。暗闇の中でも足が迷わない。カイはヴォルフの背中から五歩の距離を保ち、後続の気配を耳で拾いながら進んだ。十五人分の足音。砂利を踏む音。革鎧が擦れる音。呼吸。
峡谷の縁に着いたのは、空の東端が鉛色に変わり始めた頃だった。
カイは崖の縁に腹這いになり、下を覗いた。四十メートル下の谷底は、まだ闇の中だ。干上がった川床の白い石が、僅かに浮いて見える。風が谷底から吹き上がり、カイの前髪を押し上げた。岩と砂の匂い。乾いた、硬い匂い。
「配置」
カイの囁きが、後方に伝わっていく。
弓兵八名は崖の縁に沿って二十メートルの間隔で展開した。傭兵の三名がその間に入り、火矢の準備を始める。油壺の栓を抜く音が聞こえないように、布で包んで静かに捻った。油の甘い匂いが岩の上に広がった。
斥候四名はカイの指示で退路の確保に散った。崖の西端と、川床に降りる獣道の入り口。万が一の退却路が開いていなければ、伏撃は罠になる。自分たちが嵌まる罠に。
カイは崖の縁に伏せたまま、東の空を見た。
まだ太陽は出ていない。だが空の色が変わり始めている。藍が灰に。灰が薄い橙に。峡谷の上端だけが光を受けて、岩壁の頂が細い金色の線で縁取られていく。谷底はまだ暗い。あと二十分もすれば、光は崖の上半分まで降りてくるだろう。
そこに。
東から、音が来た。
蹄の音だった。石を踏む硬い音。等間隔。馬車の車輪が軋む低い連続音がその下に重なっている。峡谷の岩壁が音を増幅し、実際の距離より近くに聞こえる。
カイの心臓が跳ねた。
手を上げた。弓兵たちが矢を番えた。火矢の穂先に布が巻かれ、油が染みている。傭兵が火打ち石を構えた。まだ火はつけない。煙が昇れば気づかれる。
待った。
蹄の音が近づいてくる。車輪の軋みが大きくなる。護衛の兵士の足音が混じり始めた。革靴が石を踏む音。金属が擦れる音。鎧だ。声がした。帝国語だ。何を言っているかは分からない。だが声の調子は弛緩していた。警戒していない。昨日まで何も起きなかった道を、今日も同じように歩いている。
先頭の斥候が、カイの真下を通過した。十名。隊列を組まず、散開して川床を歩いている。上を見ていない。峡谷の底で上を見ても、崖の縁しか見えない。
荷馬車の一両目が屈曲点に差しかかった。帆布を被った荷台。馬が二頭で引いている。御者が一人。荷台の横を歩兵が四名。
二両目。三両目。
カイは待った。
四両目が屈曲点に入った時、先頭の斥候はもうカーブの向こうに消えていた。殿の弓兵はまだカーブの手前にいる。予測通りだ。先頭と殿が分断された。
カイは腕を振り下ろした。
傭兵が火打ち石を叩いた。火花が油に触れ、穂先が橙色に燃え上がった。弓兵が弦を引き絞る音が、八つ同時に鳴った。
「放て」
火矢が弧を描いて谷底に降りていく。橙色の軌跡が薄明の空に線を引いた。八本の火の矢。乾いた帆布に突き刺さる音が、岩壁に反響した。
炎が広がるのは速かった。帆布は乾ききっていた。最初の一本が刺さった箇所から炎が走り、二秒で帆布の半分を覆った。四両目の荷馬車が燃え、三両目に火が移った。馬が嘶いた。峡谷の底に馬の悲鳴が反響し、壁に当たって増幅される。
「第二射」
八本の火矢が再び弧を描いた。今度は二両目を狙った。帆布に火が点き、御者が飛び降りて転がった。煙が立ち上り、峡谷の底を白い霧のように埋め始めた。
帝国の護衛兵が叫んでいた。命令が飛び交っている。混乱している。崖の上を見上げた兵士がいたが、薄明の逆光でカイたちの姿は見えない。
「撤退」
カイは短く命じた。
弓兵が弦を解き、矢筒を背負い直した。傭兵が油壺の残りを懐にしまった。十五人が崖の縁から後退し、西に走り始めた。足音を殺す。走りながら、呼吸を押し殺す。
背後で、煙が空に昇っていく。峡谷の底から立ち上る黒い柱が、朝焼けの空を汚していた。
カイは走りながら振り返った。一度だけ。炎の光が峡谷の縁を照らしている。帆布が燃え、積荷が燃え、帝国の補給物資が灰になっている。
走った。
十五人全員が走った。崖の上を西に、岩と灌木の間を縫うように。ヴォルフが先頭で、カイが殿を走った。心臓が耳の中で鳴っている。脚が軽い。恐怖ではなかった。興奮だった。成功した。火矢は全弾命中し、荷馬車は燃え、帝国は混乱している。誰一人怪我をしていない。完璧だ。
旗岩に着いた時、全員が揃っていた。一人も欠けていない。
カイは膝に手をつき、息を整えた。朝の空気が肺に冷たい。汗が額を伝い、顎の先から落ちた。
「全員無事か」
「全員」
マルクスが応えた。弓兵もうなずいた。傭兵のドリスが額の汗を腕で拭い、にやりと笑った。
「やったな、坊主」
カイの口元が緩んだ。笑いが込み上げてきた。腹の底から湧き上がる熱い波。成功した。俺が指揮して、十五人で帝国の補給車列を焼いた。荷馬車二両。誰も死んでいない。バルカス隊長に報告したい。ゲルト殿に、セレスに、この手帳の数字が正しかったと——
「戻るぞ」
ヴォルフの声がカイの思考を断ち切った。感情のない声。任務が終わった。次は帰還だ。それだけだった。
カイは息を吐き、頷いた。
「了解。全員、砦に向かう」
* * *
砦に戻ったのは、日が高くなり始めた頃だった。
詰所でゲルトに報告した。荷馬車二両炎上。帝国側の負傷者は確認できた範囲で五名。連合側の損害はゼロ。弓矢の消費は十六本。
ゲルトは報告を聞き終えて、しばらく黙っていた。配置図の上に広げたカイの手帳を見つめ、指で数字の列をなぞっている。
「よくやった」
短い言葉だった。カイの胸に温かいものが落ちた。バルカスのような声だ、と思った。言葉は短いのに、重い。
ブレナンが壁に寄りかかったまま、片手を上げた。
「まあ、及第点だ。俺の部下なら、もう一両焼いてたがな」
「次は三両焼きます」
「おう、言ったな」
ブレナンの軽口に応じている自分に、カイは少し驚いた。三日前まで峡谷の岩の上で震えていた自分が、今は冗談を返している。
ゲルトが立ち上がった。
「カイ」
声の温度が変わった。
「一つ言っておく。成功を重ねるほど、油断が生まれる。帝国は馬鹿じゃない。荷馬車が焼かれた翌日から、護衛の数を倍にする。次の車列には五百名がつくかもしれない。峡谷の崖の上にも哨兵を置くだろう。同じ手は二度通じないと思え」
カイの口から、返す言葉が消えた。
胸の中の熱い波が、冷水を浴びたように引いていく。ゲルトの目は厳しかった。称賛した直後に警告を入れる。バルカスがよくやった手法だ。褒めて終わりにしない。褒めた上で、次を見据えさせる。
「……了解です」
ゲルトが頷いた。
「次の伏撃は同じ場所では打てない。新しい候補地点を探せ。セレスに帝国の通信パターンを追わせろ。お前が偵察に出る必要はない。ヴォルフに任せて、お前は計画を練れ。指揮官は前線に出るな。指揮官が死んだら、部隊が死ぬ」
カイは拳を握った。指の関節が白くなるほど。
「了解です」
今度の「了解」は、さっきとは違う重さだった。
* * *
日が沈んだ。
砦の壁の上で、カイは一人で座っていた。
石壁の上面に腰を下ろし、足を外側に垂らしている。軍規に照らせば行儀が悪い。バルカスなら「落ちたら自己責任だ」と鼻を鳴らすだけだが、ゲルトなら一言注意するかもしれない。それでもカイはここが好きだった。壁の上から見る空が一番広い。
風が吹いていた。北東から。乾いた風に混じって、微かに煙の匂いがする。峡谷の方角だ。まだ燃えているのだろうか。あるいは、鼻が覚えているだけかもしれない。
手のひらを見た。火矢の命令を出した手。十五人の命を握った手。まだ震えていなかった。終わってから震えるかと思ったが、来なかった。
成功した。損害ゼロ。完璧だ。
ゲルトの言葉が、鳩尾の辺りに居座っていた。同じ手は二度通じない。次は護衛が倍になる。崖の上にも哨兵が来る。
当たり前だ。帝国が馬鹿なわけがない。一回目が通ったのは、向こうが油断していたからだ。次は油断しない。こっちが油断する番になる。成功した記憶は気持ちいい。気持ちよさは油断を生む。油断は——
カイは頭を振った。
考えすぎだ。今日は成功した。それでいい。明日から次を考えればいい。
空を見上げた。
星が出ていた。月はまだ昇っていない。北の空に、見慣れた星座が架かっている。砦に来てから覚えた星座だ。農村にいた頃は星の名前など知らなかった。バルカスが教えてくれた。「方角が分からなくなったら空を見ろ」と。
北の空。
その向こうに、西がある。バルカスが向かった方角。燐殿たちが歩いている方角。
足音がした。
カイが振り返ると、セレスが壁の階段を登ってくるところだった。迷彩外套は脱いでいる。白い軍服の肩に、銀灰色の髪が落ちている。手に木の杯を二つ持っていた。
カイの隣に来て、杯を一つ差し出した。湯気が立っている。
「……ハーブティー」
「ああ。ありがとう」
受け取った。杯の木が手のひらに温かい。口をつけると、干した花の甘い匂いが鼻に抜けた。苦くない。セレスのハーブティーは苦いことが多いのに、今日は甘い。
「よく淹れたな。美味い」
セレスは応えなかった。自分の杯に口をつけ、北の空を見ていた。
しばらく、二人とも黙っていた。壁の上に風が渡り、砦の旗がぱたぱたと鳴っている。中庭から焚き火の光が漏れ、兵士たちの低い話し声が聞こえる。傭兵と正規兵が同じ火を囲んでいるらしい。
「帝国の通信、追えてるのか」
「追ってる。パターンは崩れ始めてる。暗号の更新周期が短くなった」
「それは——」
「警戒されてる」
カイは杯の縁を見つめた。湯気が夜風に流され、消えていく。
「ゲルト殿の言った通りだな。同じ手は通じない」
セレスは何も言わなかった。
風が吹いた。北東から。峡谷の方角から。カイの前髪が押し上げられ、星空が視界いっぱいに広がった。
「バルカス隊長たちは今頃……」
声は小さかった。壁の上にはセレスしかいない。セレスは聞いていた。杯の縁に唇をつけたまま、動かなかった。
カイは空を見ていた。
西の星が瞬いていた。見えなくなっても、消えたわけじゃない。ゲルトが壁の上で呟いた夜の言葉を、カイは知らない。ただ同じ空を見て、同じことを思った。
杯の中のハーブティーが、ゆっくりと冷めていった。




