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第4章-67話「焼け野原を越えて」

 匂いが先に来た。


 丘陵の南端を越えた時、風が変わった。草と土の匂いに混じって、焦げた木材の匂いが鼻腔の奥を刺した。甘さのない、乾いた炭の匂い。燐は足を止めた。


 眼下に、集落の残骸が広がっていた。


 石壁の家が六軒ほど並んでいる。いや、並んでいた。屋根が焼け落ちた家が三軒、壁の上半分が崩れた家が二軒。残る一軒だけが、かろうじて原型を保っていた。畑は踏み荒らされ、轍が深く刻まれている。荷馬車ではない。重い車輪——軍用の物資車の跡だった。


 燐は振り返った。


「止まれ」


 リディアがロリの肩に手を置いた。ロリの足が止まる。バルカスが殿から前に出て、燐の隣に並んだ。


「帝国の進撃路から外れているはずだが」


 バルカスが低く言った。目が集落を走査している。


「進撃路の外でも、斥候や物資調達隊は通る。通った跡だ」


 燐は地図を開いた。レオンハルトの筆跡が朝日の中で滲んでいる。この集落は三日目の中継地として選んだ場所だった。水場を示す波線が描かれている。


「水場を確認する。バルカス、周囲を見てくれ」


「ああ」


 バルカスが大斧を背中から下ろし、片手で柄を握ったまま集落の外周に向かった。


* * *


 集落の中は、思ったよりも静かだった。


 焼け跡に鳥が戻り始めている。崩れた壁の上に小さな茶色い鳥が止まり、首を傾げてこちらを見ていた。瓦礫の間から雑草が伸び、焼けた木の根元に苔が薄く張っている。焼かれてから日が経っている。一週間か、十日か。


 井戸は無事だった。石組みの井戸に釣瓶が残っており、引き上げると冷たい水が満ちていた。燐は水に指を浸した。匂いを嗅ぎ、一口含んで吐いた。異臭はない。


「飲める」


 リディアが水筒を四つ並べた。一つずつ満たしていく。水が水筒の口から溢れ、石組みに跳ねた。


「三日ぶりにまともな水ね」


 リディアの声に安堵があった。額のゴーグルを押し上げ、自分も一口飲んだ。喉が動く。


 ロリが井戸の縁に手をかけ、水面を覗き込んだ。深い井戸の底に、銀色の髪が小さく映っている。


「リン、お水がきれいです」


「ああ」


 ロリが両手で水を掬い、顔を洗った。水滴が顎を伝い、首筋を流れて襟元を濡らした。ロリが目を閉じた。冷たい水の感触が、埃と汗を洗い流していく。


 燐はその横で、焼けた家屋の壁に目を向けた。煤の跡が壁を黒く染めている。石壁の上部が熱で変色し、白い石材が灰色に焼けていた。窓枠の木は炭化して、触れれば崩れるだろう。


 人の気配はなかった。住人は逃げたか、連れ去られたか。


 バルカスが戻ってきた。


「北東の畑に足跡がある。十人前後。軍靴じゃない。平民の靴底だ」


「住人か」


「避難民だろう。足跡は南西に向かっている。ここを通過して、さらに南に逃げた」


 燐は地図を見た。南西に向かえば、農業地帯の奥に小さな村がいくつかある。帝国の進撃路からさらに遠い。逃げる方角としては正しい。


「俺たちと同じ方角だ」


「ああ。追いつく可能性がある」


 バルカスの声が低くなった。警告の調子だった。


「避難民と接触するかどうか、先に決めておけ」


 燐は黙った。掌の中で水筒の蓋を回した。金属の蓋が指の腹に食い込んでいる。


「……接触は避けない。敵でなければ、情報が取れるかもしれない」


 バルカスが頷いた。


* * *


 集落を出て半日歩いた。


 丘陵は完全に終わり、緩やかな農業地帯が南西に広がっていた。麦畑が続いている。穂がまだ青い。収穫前の畑が無人のまま風に揺れている。農具が畦道に放置されていた。鍬が一本、刃を上にして土に突き刺さっている。主人が急いで離れた跡だった。


 燐のマナ遮蔽結界が安定してきていた。


 低出力の展開を三日間続けたことで、回路が術式に馴染み始めている。脳の奥の軋みが減った。鈍い痛みが消えたわけではないが、術式を維持しながら歩行と索敵を両立できるようになっていた。


 戦闘力の回復を実感したのは、今朝のことだった。索敵用の感知を広げた時、範囲が昨日より二割ほど伸びていた。半径五十メートル。遺跡の戦闘前の三分の一程度だが、十日前の二割に比べれば回復している。三割五分。数値にすればその程度だ。刀を抜いて戦える状態ではない。けれど遮蔽結界の維持と索敵の並行処理が安定したことは、四人の安全に直接寄与していた。


 夕方に差し掛かった頃、ロリが立ち止まった。


「リン」


 声が違った。ロリの声から、呑気な響きが消えている。前方を見つめている。青藍の瞳が細められ、視線が低い位置に集中していた。


 燐も見た。


 道の先に、人がいた。


 三十メートル先。農道の脇に座り込んだ人影が二つ。立っている影が一つ。小さな影が二つ。一人は大人の足元にしがみつき、もう一人は地面に座り込んでいた。


「難民だ」


 バルカスが静かに言った。大斧を背負い直し、一歩下がった。殿の位置に戻る動作だった。


「お前が判断しろ」


 燐は歩みを止めなかった。


 近づくと、輪郭が見えてきた。農夫だった。日焼けした顔に泥がこびりついている。隣に座っている女は妻だろう。膝の上に布の包みを抱えている。立っている男——老人だった。杖をつき、白い髪が風に散っている。子供は二人。五つか六つの男の子と、三つほどの女の子。男の子が老人の足にしがみつき、女の子は地面に座って泣いていた。声は出ていなかった。涙だけが、泥の付いた頬を流れている。


 燐が足を止めた。五メートルの距離を置いて。


 農夫が顔を上げた。怯えた目だった。燐の腰の刀に視線が走り、それからバルカスの大斧に移り、身を縮めた。


「旅の者だ。帝国軍じゃない」


 燐は片手を上げて見せた。武器を持っていない方の手を。声は低く、抑えていた。


 農夫の身体から、わずかに力が抜けた。しかし警戒は解けていない。妻が包みを抱き締める手に力を込めたのが見えた。


「北の村からか」


 農夫が唇を舐めた。乾いた唇に、土が付いている。


「三日前に出た。兵隊が通った。家が焼かれた。逃げるしかなかった」


 声が掠れていた。喉が渇いている。何日もまともに水を飲んでいない声だった。


 燐は水筒を取り出した。新しい蓋を外し、農夫に差し出した。


「飲め」


 農夫が震える手で受け取った。一口含み、妻に渡し、妻が子供に飲ませた。男の子が喉を鳴らして水を飲んだ。女の子は妻の手に支えられて、小さな口で水を受けた。


 老人が最後に一口だけ飲み、水筒を返した。中身は半分以下になっていた。


「……すまない」


 農夫が頭を下げた。


 燐は水筒を受け取り、腰に戻した。三日分の水の計算が頭の中で動いた。四人分の水を五人分に割り直す必要はない。すれ違うだけだ。けれど目の前の子供は泥だらけで、女の子の裸足の底が赤く擦り切れていた。


 後ろで、小さな足音がした。


 ロリが燐の横を通り過ぎた。


 制止する間もなかった。制止しようとも思わなかった。少女は五メートルの距離を自分の足で詰めた。膝が震えることもなく、真っ直ぐに歩いた。銀色の髪が風に揺れ、夕日の光を受けて白く光っていた。


 少女は地面に座り込んでいる女の子の前にしゃがんだ。


 女の子が顔を上げた。泥と涙の跡がついた顔。大きな目が、目の前に現れた銀色の髪の少女を見つめていた。


 ロリが手を伸ばした。自分のポケットから、保存食の包みを取り出した。携行パンの欠片が二つ。今日の夕食の分だった。


「お腹が空いているのですね」


 声が静かだった。ロリの声は子供に向けると、普段よりもさらに一段柔らかくなった。水が石の上を流れるような響きだった。


 女の子がパンの欠片を見つめた。手を出さなかった。怯えている。知らない人間から物を受け取る余裕がないのだ。


 ロリがパンを半分に割った。片方を自分の口に入れ、噛んだ。乾いた音がした。そしてもう片方を女の子に差し出した。


「大丈夫です。ほら」


 女の子の小さな手が、ゆっくりと伸びた。パンの欠片を握った。口に運んだ。噛む力が弱い。小さな顎が何度も動いて、やがてパンが喉を通った。


 男の子が老人の足元から離れ、近づいてきた。ロリがもう一つのパンを差し出した。男の子は無言で受け取り、一口で頬張った。


 ロリが自分の荷物に手を入れた。燐がロリに渡していた干し肉の残り。明日の朝食の分だった。それを紙ごと取り出し、農夫の妻の前に置いた。


「少しですけれど」


 妻が顔を上げた。ロリを見た。銀色の髪、青藍の瞳。異質な容貌の少女が、自分の食糧を差し出している。妻の唇が震えた。何か言おうとしたが、声にならなかった。頭を深く下げた。


 バルカスの目が燐を見た。燐の目がバルカスを見た。


 食糧の計算が頭の中を走った。四人分の保存食は、あと四日分だった。ロリが差し出した分で三日半に減る。ラステルまでの行程を考えれば余裕はない。


 燐は何も言わなかった。


 バルカスも何も言わなかった。


 リディアが黙って自分の携行パンを一つ、農夫の隣に置いた。三日分になった。


 女の子が泣いていた。今度は声が出ていた。小さな泣き声が、夕暮れの麦畑に響いた。ロリが女の子を抱き上げた。膝の上に乗せた。女の子の頭がロリの胸に収まった。泥だらけの髪から、汗と土の匂いがした。ロリの白い指が、女の子の背中を撫でた。


「泣かなくていいのですよ」


 声が低く、穏やかだった。子守唄のような抑揚があった。女の子の泣き声が小さくなっていく。肩の震えが減っていく。ロリの手が、一定のリズムで背中を撫で続けていた。


 男の子が近寄ってきた。ロリの隣に座り、ロリの袖を掴んだ。ロリが男の子に微笑んだ。笑顔だった。燐がほとんど見たことのない、迷いのない笑顔。


「大丈夫ですよ」


 女の子が目を閉じた。ロリの膝の上で、泥だらけの小さな身体が弛緩していった。泣き疲れたのか、疲労が限界だったのか。呼吸が穏やかになった。眠り始めている。


 ロリは動かなかった。


 膝の上の子供が眠るのを、じっと待っていた。背中を撫でる手は止めなかった。麦畑を渡る風が、少女の銀色の髪と女の子の茶色い髪を一緒に揺らしていた。


 農夫が燐に話しかけてきた。


「南に安全な場所はあるのか」


「分からない。帝国の進撃路からは外れている。南に行くほど安全だとは思う」


「ラステルという港町に行けば、船が出るかもしれない」


 老人が杖を突いて言った。声が弱い。けれど目は澄んでいた。


「ラステルか」


「南西に……十日ほどだと、昔聞いた」


 燐は頷いた。同じ方角だった。


 農夫が妻の肩に手を置いた。妻が包みを抱え直した。中身は布に包まれた何か——形から察するに、種だった。麦の種。焼かれた家から持ち出したのだろう。家財ではなく、種を持って逃げた。どこかに辿り着いた時に、また畑を作るために。


 燐は視線を戻した。


* * *


 日が沈んだ。


 難民の家族は道の脇に身を寄せ合って眠り始めた。農夫が妻と老人を壁のない場所で風から守るように座り直し、男の子が老人の膝に頭を預けた。


 ロリはまだ女の子を膝に乗せていた。


 リディアが端末を取り出し、星を見上げた。ゴーグルのレンズが星の光を拾っている。指先が画面の上を走り、数値が並んでいく。


「見つけた」


 リディアの声が弾んだ。小声だったが、興奮が滲んでいた。


「何が」


「ヴェガ。基準星よ。壁画の天体配置を解くための鍵。ずっと探してたの」


 リディアが空の一点を指さした。天頂に近い位置に、青白い星が一つ光っている。周囲の星よりも明るく、揺らぎが少ない。


「あの星の位置を基準にすれば、壁画に描かれた天体配置がいつの空なのか計算できる。歳差運動の補正値が出るの」


「壁画の年代が分かるのか」


「年代というか……壁画が描かれた時代の空の配置が分かる。数千年単位の精度だけど。ロリの正体に繋がる手がかりになるかもしれない」


 リディアの目が光っていた。焚き火のない闇の中で、端末の画面の光が横顔を照らしている。汗と埃で汚れた顔が、少女のように輝いていた。


「すごいな」


 燐の声は短かった。けれどリディアは笑った。


「すごいのよ。ここ三日間ずっと探してて、やっと見つけた。南天のデータが足りなくて諦めかけてたの。でも今夜は空がきれいで、雲がなくて——」


「リディア」


「何?」


「ありがとう」


 リディアの指が止まった。端末から顔を上げ、燐を見た。


「……そういうこと言うの、珍しいわね」


「ああ」


 それだけだった。リディアが端末に視線を戻した。口の端が上がっていた。


* * *


 夜が深くなった。


 バルカスが見張りに立ち、燐は地面に背を預けて空を見ていた。遮蔽結界を最低出力で維持している。脳の奥に薄い圧迫感がある。慣れ始めた痛みだった。


 ロリはまだ同じ場所にいた。


 女の子は眠っていた。小さな拳がロリの服の裾を握っている。泥だらけの指が、白い布に茶色い跡をつけていた。男の子はロリの隣で横になり、ロリの腕に頭を預けて寝息を立てていた。


 ロリは二人の子供を抱えたまま、動かなかった。


 足が痺れているはずだった。ロリの脚力はまだ完全ではない。膝の上に子供の体重を載せたまま、一時間以上座り続けている。けれどロリは姿勢を変えなかった。


 燐は見ていた。


 焚き火がないから、少女の表情は見えなかった。星明かりだけが、銀色の髪を淡く照らしている。少女の輪郭が闇の中に浮かび上がっていた。小さな身体に、もっと小さな二つの身体が寄りかかっている。


 風が止んだ。


 麦畑の穂擦れの音が消え、夜が静まった。虫の声だけが低く響いている。


 ロリの唇が動いた。


「この子たちを……傷つけないでください」


 呟きだった。誰に向けたのか分からなかった。農夫に向けたのでも、燐に向けたのでもなかった。夜の空に向けて、麦畑の向こうに広がる暗い世界に向けて、少女は呟いた。声は小さかった。吐息に混じるほどの音量で、けれど燐の耳には届いた。


 ロリの手が、女の子の背中に置かれていた。子供の体温を感じている手が、微かに震えていた。


 燐は目を閉じた。


 あの声は祈りに似ていた。しかし祈りではなかった。祈りは届くかどうか分からない相手に向ける。ロリの声はもっと確かなものだった。確かで、小さくて、震えていて——願いというよりも、決意に近い何かだった。


 この子たちを、傷つけないでください。


 守られるだけだった少女が、守りたいものを見つけた。目の前の子供たちを。名前も知らない、明日には別れる、泥だらけの子供たちを。


 燐の掌が、膝の上で開いた。閉じた。


 セレスの小袋を握って眠るロリの手を思い出した。あの手が今、子供の背中を撫でている。握り締めるのではなく、差し出すために使われている。


 目を開けた。


 ロリの横顔が、星明かりの中に浮かんでいた。子供の寝息に合わせるように、少女の呼吸も穏やかだった。膝は痺れているはずだ。足は痛いはずだ。けれどロリは動かない。


 燐は口を開きかけた。何か言おうとした。けれど言葉が見つからなかった。ロリに何を言えばいいのか、分からなかった。


 何も言わなかった。代わりに、自分の上着を脱いだ。立ち上がり、音を立てないように歩いて、ロリの肩にかけた。ロリが顔を上げた。青藍の瞳が燐を見た。


「……リン」


「冷える」


 それだけ言って、元の場所に戻った。地面に背を預けた。空を見た。星が見えた。リディアが基準星と呼んだ青白い光が、天頂の近くで静かに光っていた。


 バルカスが見張りの位置から、こちらを見ていた。暗くて表情は分からない。けれど大きな影が、小さく動いた。頷いたのかもしれなかった。


 麦畑の向こうで、夜鳥が一声鳴いた。翼が空気を切る音がして、闇の中に消えた。


 ロリの手が、子供の背中の上で止まっていた。上着の下で、少女の肩の線が柔らかくなっていた。


 明日、難民の家族と別れる。同じ方角に歩いているが、速度が違う。パーティの足でも一日十五キロが限度だ。老人と幼い子供を抱えた家族は、もっと遅い。


 けれど今夜、ここにいる。同じ空の下で。


 燐は目を閉じた。遮蔽結界の出力を微かに上げた。八人分の気配を、麦畑の自然の中に溶かした。脳の奥が軋んだ。許容範囲だった。


 ロリが子供の髪を撫でる音が、かすかに聞こえていた。

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