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第4章-66話「長の重さ」

 星が消え始めていた。


 西の空に低く光っていた宵の明星が、白み始めた地平線に呑まれるように薄れていく。ロリがリディアに教わった星。季節で位置が変わる星。昨夜はあんなに鮮明だった光が、夜明けの空にじわりと溶けていった。


 四人は草原の中にいた。


 丘陵を越えて平坦な土地に出ると、草の丈が腰の高さまで伸びていた。夜通し歩いた足に、湿った草がまとわりつく。露を含んだ葉が革のブーツを濡らし、歩くたびに足元から草の青い匂いが立ち上った。


 バルカスが足を止めた。


「ここで休む」


 短い声だった。先頭を歩いていた大きな身体が、草を踏み分けて道の脇に逸れた。背中の大斧を降ろし、地面に刃を突き立てて、腰を落とした。


 燐は周囲を見渡した。東の空が淡いオレンジ色に染まり始めている。草原は南北に広がり、視界を遮るものがない。西の方角に低い丘の影がいくつか見えるが、樹木はまばらだ。隠れる場所がない代わりに、遠くまで見通せる。


「索敵に問題はない。ここでいい」


 燐がそう言うと、バルカスが一瞬だけ目を向けた。何も言わなかった。ただ顎を引いて、水筒を取り出した。


 リディアがロリの肩に手を添え、草の上に座らせた。ロリの足は限界に近かった。歩幅は最後の一時間でさらに狭まり、靴先が草の根に引っかかる頻度が増えていた。座った途端、ロリの肩から力が抜けた。


「お疲れさま。よく歩いたわね」


 リディアの声は穏やかだった。フィールドジャケットを脱いでロリの膝にかけ、隣に腰を下ろした。


 少女が小さく頷いた。頬が薄く汗ばみ、銀色の髪が首筋に張り付いている。青藍の瞳が東の空を見つめていた。日の出を、初めて開けた場所で迎えようとしている。


 燐は荷物を降ろし、保存食の袋を開けた。硬い携行パンを四つに割る。掌の中で乾いた音がした。パンの断面は灰色で、穀物の粒が粗く浮いている。一つをロリに渡し、一つをリディアに差し出した。


「バルカス」


 名前を呼んで、パンを投げた。バルカスが片手で受け取り、一口で半分を噛み砕いた。顎の筋肉が動くのが見えた。


 燐は自分の分を噛んだ。歯に硬い。塩気が口の中に広がり、唾液が出た。水で流し込むと、胃の底に小さな重みが落ちた。腹は膨れない。一日分を三日で割る生活に慣れ始めていた。


* * *


 ロリが眠った。


 リディアのジャケットを膝にかけたまま、草の上に横になって目を閉じた。疲労が深い。呼吸がすぐに規則的になり、小さな胸が静かに上下していた。右手がポケットの中に入っている。セレスの小袋を握っているのだろう。


 リディアがロリの髪から草の葉を摘んだ。指先が銀色の髪を梳くように動き、額にかかった一房を耳の後ろに流した。


 燐はロリの寝顔から視線を外し、空を見た。


 東の空が広がっていた。オレンジから白へ、白から薄い青へ。雲の底が金色に染まり、草原に長い影が伸び始めている。風が東から吹いていた。昨夜の潮の匂いは消え、草と土の匂いが戻っていた。


 バルカスが立ち上がった。


 大斧は地面に刺したまま、通信機を取り出した。昨夜と同じ動きだった。筐体の側面を親指が撫で、送信ボタンの突起に触れ、離す。


 燐は見ていた。見ていることを隠さなかった。


 バルカスが燐の視線に気づいた。通信機をポケットに戻し、大斧を引き抜いた。


「送らないのか」


 燐が聞いた。


 バルカスは答えなかった。大斧の刃についた土を靴底で擦り落とし、背中に担ぎ直した。


「送って何が変わる」


 低い声だった。感情を潰したような平坦な声。


「砦の連中は戦っている。俺はここにいる。通信を送って、それでカイが安心するか。しないだろう。余計な心配が増えるだけだ」


 バルカスが東の空を見た。日が昇り始めている。草原の地平線から光の縁が覗き、大気が金色に染まった。


「それに、位置が割れる。帝国が通信を傍受していないとは限らない」


「……ああ」


 燐は頷いた。合理的な判断だった。しかしバルカスの指が通信機に触れた回数は、合理性だけでは説明できない。


 黙っていた。それ以上は聞かなかった。


* * *


 日が高くなった頃、バルカスが口を開いた。


 ロリはまだ眠っていた。リディアが端末を操作し、昨夜の観測データの整理を始めている。燐は地面に腰を下ろしたまま、マナ遮蔽結界の維持に意識を割いていた。低出力の展開。自分たちの気配を周囲の自然に溶かす術式。脳の奥が微かに軋む。回路の焼損痕が、魔力の通過に反応して鈍い痛みを返していた。


「おい」


 バルカスの声が飛んだ。


 燐が顔を上げた。バルカスは大斧の柄に腕を載せ、あぐらをかいて座っていた。太い首が傾き、燐を見下ろしている。


「俺から一つ言っておくことがある」


「何だ」


「指揮系統の話だ」


 バルカスの目が据わっていた。斥候隊長の目だった。草原で休息中でも、あの目は変わらない。


「六人の時はゲルトが全体を統括し、俺が現場指揮を執っていた。カイとセレスが抜けて四人になった。ゲルトもいない」


「……ああ」


「俺は監視役だ。指揮はお前が取れ」


 風が吹いた。草が波打ち、ロリの銀色の髪が揺れた。リディアの指が止まり、端末から顔を上げた。


 燐はバルカスを見ていた。


「俺が、か」


「他に誰がいる」


 バルカスの声は平坦だった。質問ではなく確認だった。


「行軍ルート、休息の判断、危険の回避、物資の配分。お前が決めろ。俺は周囲の警戒と戦闘時の前衛を担う。リディアは情報と嬢ちゃんの世話だ。指揮官が誰か、はっきりさせておく必要がある」


 燐の唇が引き結ばれた。


 指揮。


 士官学校では戦術を学んだ。小隊の運用、地形の利用、敵情の判断。教科書と演習の知識はあった。けれど実際に部隊を率いた経験はない。帝国軍にいた頃は一兵卒だった。脱走してからは逃げ続けた。誰かを導いたことがない。


「リディア」


 燐がリディアを見た。


「異論は」


「ないわよ」


 リディアが端末をポケットに戻した。声に迷いがなかった。


「私は戦術も地理も素人よ。バルカスさんが後ろに回って、燐が前に立つ。妥当でしょ」


 リディアの目が燐を見据えていた。真面目な目だった。軽口を挟まない時のリディアは、この目をする。


「遺跡の中でもそうだったじゃない。あの時、判断してたのは燐よ」


 遺跡の中。聖炎を浴びた時。脱出路を選んだ時。あの瞬間、燐は確かに判断を下していた。けれどあれは追い詰められた末の反射に近かった。指揮とは違う。


「バルカス」


 燐の声が低くなった。


「お前は経験がある。俺より判断が正確だ」


「正確かどうかは関係ない」


 バルカスが遮った。短く、硬い声で。


「俺が判断を下せば、お前はいつまでも後ろに立つ。ラステルまでの二週間、黙って後ろを歩くのか。その先はどうする」


 二週間。その言葉が、燐の意識に引っかかった。


「二週間か」


「海岸まで二日。直線ならな。だがラステルは南の港だ。帝国が北の街道に斥候を出している以上、南に大きく迂回する必要がある。丘陵を越えて農業地帯を抜け、沿岸部に出てから南下する。急いでも二週間はかかる」


 燐は懐から地図を取り出した。


 レオンハルトの地図だった。折り畳まれた紙を開くと、太い筆跡が朝日の中で鮮明になった。街道と丘陵の起伏が線で示され、要所に短い注記が書き込まれている。インクが滲んだ箇所がいくつかあった。急いで書かれた文字。右下の隅に、二文字。


 生きろ。


 視線を逸らした。地図の全体を見た。


 現在地は丘陵地帯の西端。北に山塊が黒く描かれ、南に緩やかな等高線が続いている。西に向かって地形は平坦になり、沿岸部へ至る。北側の街道は帝国の進撃路に近い。太い赤線が北東から西に伸びている。EISENSTURMの攻勢軸だろう。


「リディア」


「はい」


「この地図、見てくれ。北側の街道に帝国の動きがあるなら、南寄りの道を取る。ここから」


 指が地図の上を滑った。丘陵の南端を示し、農業地帯を横切る細い道を辿り、沿岸部の小さな集落の名前で止まった。


「丘陵の南を回って、農業地帯を西に抜ける。沿岸に出たら海沿いに南下してラステルに入る」


 リディアが身を乗り出し、地図を覗き込んだ。ゴーグルを額に上げ、目を細めている。


「北の街道の方が早いけど、帝国の目がある。南回りだと……途中に集落はいくつかあるわね。補給ができるかもしれない」


「水と食糧が持つのは五日だ」


 バルカスが短く言った。


「五日以内に補給できる集落を経由するルートを選べ。それが条件だ」


 燐は地図を見つめた。指の腹が紙の繊維を感じている。レオンハルトの筆跡の上を、自分の指が通っていく。あの男が書き残した地図の上で、燐が道を選んでいる。


「ここだ」


 指が止まった。丘陵の南端から三日の距離にある集落。地図には小さな四角と、水場を示す波線が描かれている。


「三日目にこの集落で水を補給する。そこから西に二日で農業地帯を抜けて、沿岸に出る。海岸沿いに南下して、ラステルまで一週間」


「集落が無事とは限らない」


 バルカスの声が刺した。


「戦火が及んでいる可能性がある。その場合のプランBは」


 燐の眉が寄った。


 プランB。代替案。一つの道が塞がれた時のもう一つの道。指揮官は常に二手先を用意する。士官学校で習った。教科書の上では簡単だった。現実の草原の上で、四人の命を預かって判断するのは、別の重さだった。


「集落が使えない場合は……沿岸部に直接向かう。海沿いに出れば、漁村がある。そこで水を確保する」


「漁村も戦火で潰れていたら」


「……雨水を溜める。リディアの端末で天候は読めるか」


「大まかにはね。気圧配置くらいなら」


 リディアが頷いた。


「この時期は南西から湿った空気が入りやすいの。雨はそう遠くないうちに降るわ」


 燐は地図を折り畳んだ。指が紙を丁寧に折り目に沿わせる。胸ポケットに戻し、手のひらで押さえた。


「南回りで行く。三日目の集落を最初の中継点にする」


 声に出した。自分の声が、自分の耳に聞こえた。指揮の声だった。まだ不慣れで、語尾が硬い。けれど声は出た。


 バルカスが燐を見ていた。


 何かを測るような目だった。斥候隊長が未知の地形を査定する時と同じ目。燐の判断の質を、声の硬さを、覚悟の深さを、秤にかけている。


 それから、短く頷いた。


「いいだろう」


 二文字だった。それだけだった。けれどバルカスの声には、通信機の送信ボタンを押さなかった時とは違う種類の重みがあった。


 リディアが小さく息を吐いた。


「じゃ、隊長殿。出発はいつ?」


「隊長じゃない」


「指揮官でしょ。同じことよ」


 リディアの口の端が上がった。軽口だった。けれどその軽口が、空気のこわばりを少しだけ緩めた。


「ロリが起きてからだ。二時間は寝かせる」


「了解」


 リディアが片手を額に当てて敬礼の真似をした。バルカスが鼻を鳴らした。


* * *


 少女が目を覚ましたのは、日が傾き始めた頃だった。


 予定より長く眠っていた。燐は起こさなかった。回復途中の身体に、夜通しの行軍は重い。四時間の睡眠が足りたとは思えなかったが、ロリは自分で目を開いた。


「……あ」


 小さな声。青藍の瞳が開き、草原の上の空を映した。昼過ぎの空は高く、薄い雲が筋を引いている。


「おはよう」


 リディアの声が近くで聞こえた。ロリが首を巡らせ、隣に座っているリディアを見上げた。


「リディアさん……ロリ、長く寝てしまいましたか」


「たくさん歩いたもの。当然よ」


 リディアがロリの手を取り、起き上がるのを手伝った。ロリが草の上に座り直し、目をこすった。手の甲で瞼を擦る仕草が幼い。


 燐が水筒を差し出した。蓋は緩めてあった。


「飲め」


 ロリが両手で受け取り、一口含んだ。水を飲む音がした。喉が動く。ロリが水筒を燐に返し、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます、リン」


「出発する。歩けるか」


「はい」


 少女が立ち上がった。膝が一瞬揺れたが、持ち直した。足元を確かめるように、靴底で草を踏んだ。


「歩けます」


 声に力があった。昨夜の疲労の底にあった弱さが、四時間の睡眠で少しだけ持ち直していた。


 バルカスが先に歩き出した。大斧を背負い、南西の方角に足を向ける。


「待て」


 燐の声が飛んだ。


 バルカスの足が止まった。振り返らない。背中だけがこちらを向いている。


「俺が先頭だ」


 言ってから、自分の声に驚いた。口が勝手に動いた。けれど間違ったことは言っていない。指揮を取れとバルカスが言った。先頭を歩く判断も、指揮官の仕事だ。


「……俺が前を歩いて索敵する。バルカスは殿だ。後方の警戒を頼む」


 バルカスが半身で振り返った。目が細まった。何かを言いかけて、やめた。


「好きにしろ」


 それだけ言って、脇に退いた。


 燐が前に出た。


 草を踏んで、先頭に立った。レオンハルトの地図の示す方角に、最初の一歩を踏み出した。右腕が鈍く疼いた。包帯の下の傷跡が、歩行の振動で脈打っている。けれど足は前に出た。


 後ろから三つの足音がついてきた。リディアの軽い靴音。少女の小さな足音。そしてバルカスの重い靴音が、最後尾で草を踏んだ。


 隊列が変わった。


 六日間、バルカスの背中を見て歩いていた。今、前に背中はない。草原が広がっている。南西に緩やかに傾斜する草地の先に、丘の影が並んでいる。その向こうに道がある。三日先に集落がある。二週間先にラステルがある。


 全部、燐が選んだ道だった。


* * *


 日が沈んだ。


 丘陵の南端に差し掛かる手前で、燐は野営を決めた。窪地の中に平坦な草地があり、三方を低い斜面に囲まれている。風よけになり、遠くからは見えにくい。


「ここにする」


 声に出した。バルカスが窪地の周囲を一周し、斜面の上から四方を確認してから戻ってきた。


「悪くない」


 短い評価だった。褒めてはいない。けれど否定もしなかった。


 リディアが枯れ草を集め、小さな火を熾した。火花が散り、乾いた草に移って赤い光が生まれた。煙が細く立ち上り、夕暮れの空に溶けていく。焚き火の匂いが鼻腔に届いた。草と土の匂いに混じる、焦げた植物の匂い。


 少女が火のそばに座った。炎の光が青藍の瞳に映り、銀色の髪をオレンジに染めている。両手を火にかざし、指先を温めていた。


 バルカスが保存食を配分した。今日の分の携行パンと、干し肉の薄い切れ端。ロリの分だけ、干し肉が一切れ多かった。ロリは気づかなかった。燐は気づいていた。


 食事は静かだった。干し肉を噛む音。パンを割る音。水筒の水が喉を通る音。会話はなかった。疲労が言葉を奪っていた。


 リディアが端末を取り出し、星の観測を始めた。ゴーグルのレンズが焚き火の光を反射している。指先が画面の上を走り、数値を入力していく。


「南天のデータがもう少し欲しい。明日の夜も観測できるといいんだけど」


「天候次第だ」


「うん。分かってる」


 リディアの声が穏やかだった。焚き火の明かりの中で、端末に向かう横顔は落ち着いている。戦場から離れても、リディアの指は止まらない。計算は止まらない。砲声が聞こえても。


 バルカスが窪地の縁に移動し、東の斜面に背を預けた。見張りの姿勢だった。大斧を膝の上に横たえ、草原の上に広がる暗い空を見ている。


 火が小さくなった。


 リディアが端末を閉じ、ロリの隣に寝転んだ。ロリはすでにうとうとし始めていた。リディアが自分のジャケットをロリにかけ、ロリの背中に手を回した。


「おやすみ」


 少女の瞼が落ちた。


 焚き火の残り火が赤く脈打っている。燠火の熱が地面を温め、草の根の匂いが微かに立ち上っていた。


 燐は火のそばに座っていた。


 地図を取り出し、膝の上に広げた。焚き火の光が紙面を照らし、レオンハルトの筆跡が浮かび上がった。今日歩いた距離を指で測る。わずかだった。四人の足で、一日に進める距離は限られている。ロリの脚力を基準にすれば、一日の行程は十五キロが限度だろう。二週間で二百キロ余り。ラステルまでの距離に足りるかどうか。


 指が地図の上を動いた。明日の行程を辿る。丘陵の南端を越えて、緩やかな農業地帯に入る。三日目の集落までの道のりに、川が一本ある。渡れるかどうか。橋があるかどうか。地図には描かれていない。


 分からないことが多すぎた。


 地図を畳みかけた時、気配があった。


「リン」


 小さな声だった。


 燐が顔を上げると、ロリが起きていた。リディアの腕の下から抜け出し、焚き火の向こう側から燐を見ている。青藍の瞳に、残り火の赤い光が揺れていた。


「……起きていたのか」


「少し、目が覚めてしまって」


 少女が膝を抱えて座り直した。毛布の端を引き寄せ、肩にかける。焚き火を挟んで、燐と向かい合う形になった。


 沈黙があった。


 虫の声が聞こえていた。草むらの中から、細く高い音が途切れ途切れに響いている。風が凪いで、窪地の中は静かだった。遠くで夜鳥が一声鳴いて、翼が空気を叩く音がした。


「リンは大丈夫ですか」


 ロリの声が、夜の静けさに落ちた。


 燐はロリを見た。


 焚き火の光に照らされた小さな顔。頬の線が以前より少しだけふっくらしている。食事と睡眠が足り始めたのだろう。けれど瞳の奥には、遺跡で見た闇の記憶がまだ沈んでいる。


「大丈夫だ」


「嘘です」


 少女の声は静かだった。責めているのではなかった。ただ、見抜いていた。


「リンは今日、ずっと地図を見ていました。眉の間に、しわが寄っていました」


 燐の手が、無意識に眉間に触れた。指の腹が皮膚の筋に触れて、離れた。


「……バルカスに、指揮を取れと言われた」


「はい。聞こえていました」


 少女がそう言った。眠っていたのではなかったのか。あるいは、半分は起きていたのかもしれない。


「リンは、怖いのですか」


 直截な問いだった。ロリの言葉は時々、核心を衝く。飾らないからだ。言葉を選ぶ技術がない分、質問がまっすぐに届く。


 燐は答えなかった。


 焚き火の燠が崩れ、灰が舞い上がった。赤い粒が闇に散り、消えた。


「大丈夫じゃなくても、歩くしかない」


 声は低かった。ロリに向けた言葉であり、自分に向けた言葉でもあった。


「四人で、ラステルまで行く。それだけだ」


 少女が小さく頷いた。


「ロリも歩きます」


 声が静かだった。宣言ではなかった。約束でもなかった。ただ当たり前のことを、当たり前に言っただけだった。


 燐の口の端が、微かに動いた。笑みと呼べるほどではない。筋肉の微細な反射。けれどロリはそれを見ていた。


「リン」


「何だ」


「おやすみなさい」


 少女が毛布の中に身を沈めた。リディアの隣に戻り、目を閉じた。銀色の髪が焚き火の残り光に照らされて、暗い草の上に薄く光っていた。


 燐は地図を胸ポケットに戻した。


 焚き火の向こうで、二人が眠っている。窪地の縁でバルカスが空を見ている。虫が鳴いている。草の匂いがする。夜が深い。


 膝の上に手を置いた。掌を開き、閉じた。指の腹に地図の紙の感触が残っていた。レオンハルトの筆跡。生きろの二文字。その上を辿った、自分の指。


 道を選んだ。


 正しいかどうかは分からない。三日先の集落が無事かどうかも分からない。二週間でラステルに着けるかも分からない。分からないことだらけの地図の上で、燐は一本の線を引いた。四人分の命の重さを載せた線を。


 西の空を見上げた。宵の明星はもう沈んでいた。代わりに無数の星が散らばっている。天の川が南北に白い帯を引き、その中に小さな光が瞬いていた。どの星がリディアの探している星なのか、燐には分からない。


 分からないまま、空を見ていた。


 指が地図の入ったポケットの上で止まっていた。紙の端の感触が布越しに伝わる。明日、このポケットから地図を取り出して、道を確かめる。三日目の集落を目指して歩く。水場を探す。四人分の水を確保する。食糧を計算する。危険を避ける。判断する。


 全部、燐がやる。


 長の重さ。


 その言葉が、胸の中で形になった。バルカスが燐に渡したのは、指揮権だけではなかった。判断の責任。失敗した時の重さ。四人の命が自分の一言にかかる、その圧力。


 ダグザの声が、記憶の底で響いた。


 お前が決めろ。


 あの男もそう言った。同じ構造だ。教えない。導かない。ただ選ばせる。選ばせることで、背負わせる。背負った者だけが知る重さを、体験させる。


 バルカスが東の空を見ている背中が、窪地の縁に黒い影を落としていた。大斧の柄が月光を受けて鈍く光っている。


 あの男は、見守っている。前に出ないことを選んでいる。それがバルカスのやり方だった。


 燐は目を閉じた。


 明日、先頭を歩く。地図を読む。道を選ぶ。四人で、歩く。


 分からないことは、歩きながら考える。


 焚き火の燠が最後の赤い光を放ち、灰に沈んだ。闇の中に、四人の呼吸だけが残った。


 南西の地平線の上、低い雲の底がまだ微かにオレンジに光っていた。ラステルの篝火。昨夜より、少しだけ近い。


 燐は目を開けた。その光を見つめた。


 選んだ道の先に、あの光がある。正しい道かどうかは分からない。けれど今夜、四人はここにいる。明日も歩く。明後日も。地図の上の線を、足で辿る。一歩ずつ。


 南西の光が、雲の底で揺れていた。

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