第3章-65話「遠い砲声」
地形が変わった。
荒野の硬い土が、いつの間にか丘陵の柔らかな草地に移り変わっていた。足の裏に伝わる感触が違う。石混じりの地面を踏む乾いた音が消え、草を押す湿った音に変わっている。靴底が土を噛むたびに、短い草の茎が折れる微かな音がした。
月が出ていた。半分だけ欠けた月が南東の低い位置にかかり、丘の稜線を銀色の輪郭で縁取っていた。草の先端に夜露が光っている。風が吹くと草原が波のように揺れ、月光が無数の白い粒になって散った。
バルカスが先頭を歩いている。
大斧を背中に負ったまま、太い首が左右にゆっくりと振れていた。斥候隊長の習性だ。視界に入る全てを確認し、脅威の有無を判定し続けている。革のブーツが草を踏む音は重く、間隔は正確だった。軍人の歩幅。疲労が溜まっても崩れない一定のリズム。
燐はその背中を見ていた。
四人の隊列は変わらなかった。バルカスが先頭、リディアが二番手、ロリが三番目、燐が殿。六人の時と同じ順序で、人数だけが減っていた。
右腕が鈍く疼いた。包帯の下で皮膚が引き攣り、肘を伸ばすたびに筋が軋む。歩行の振動が肩から腕に伝わり、傷口の周辺が熱を持っていた。しかし三日前よりは楽だった。痛みの質が、裂けるような鋭さから、重い凝りに変わっている。回復している、と思った。遅いが。
前を歩く少女の銀色の髪が、月光の中で淡く光っていた。
歩いていた。少女は、歩いていた。三日前には自力で車を降りるのがやっとだった身体が、今は草地を踏みしめている。歩幅は小さい。時折、足元の石に靴先が引っかかって体勢が揺れる。それでも倒れなかった。膝が沈みかけて、持ち直す。
リディアが時々振り返り、少女の足元を確認していた。フィールドジャケットのポケットに手を入れたまま、何でもないような顔で歩調を緩める。少女が追いつくのを待ってから、また前を向く。その間合いが自然で、少女は気づいていないだろう。
丘を一つ越えた。
下り斜面に差し掛かると、視界が開けた。月明かりの下に、緩やかな丘陵が幾重にも連なっていた。北に黒い山塊の影がぼんやりと浮かんでいる。西の方角は地平線の輪郭が低い。山がない。空と地面の境界が、東側より遠くまで伸びている。
風が変わった。
東から吹いていた乾いた風に、微かに別の匂いが混じった。鼻腔の奥をかすめる程度の、ほとんど気のせいのような匂い。塩気を含んだ、湿った空気。草と土の匂いの底に、ごくわずかに、潮の匂い。
バルカスの足が止まった。
「……西か」
低い声だった。鼻を鳴らすように短く息を吸い、顎を上げて風を嗅いだ。
「海が近いのか」
燐の問いに、バルカスが首を振った。
「まだ遠い。二日はかかる。だが風向きが変わっている。西風だ」
リディアが立ち止まり、ゴーグルを額に上げた。髪が風に煽られて目にかかり、指で横に払った。
「海風ね。気圧が変わってるのかも。西岸から内陸に向かって空気が流れてる」
少女が風に顔を向けた。
銀色の髪が東に流される。青藍の瞳が細められ、見えないものを見ようとするように遠くを見つめていた。唇が微かに開いている。
「……しおの匂いがします」
小さな声だった。匂いという言葉を口にするのが珍しかったように、自分の声に驚いたような表情をした。
「海を見たことはあるか」
燐が聞いた。
少女が首を横に振った。青藍の瞳に、月の光が映っている。
「ありません」
それだけだった。けれど声の中に好奇心の欠片が混じっていた。恐怖でも不安でもなく、ただ知らないものに対する、静かな関心。
リディアが少女の肩に手を置いた。
「きっと広いわよ。見渡す限り水で、端が見えないの。朝日が水面に落ちると、全部が金色に光るの」
「全部が……」
少女の唇が、言葉の形を繰り返した。想像しているのだろう。見たことのない光景を、頭の中で組み立てている。
「行けば分かるわ。あと二日」
リディアの声が穏やかだった。少女の肩に置いた手が、軽く一度だけ叩いた。
* * *
歩き始めて六日目の夜だった。
丘陵の尾根沿いの道を選んだのはバルカスだった。谷間の道は視界が狭く、待ち伏せに弱い。尾根を歩けば遠くが見渡せる代わりに、自分たちの影が月明かりに晒される。バルカスは後者を選んだ。追手の気配がないことが確認できている以上、視界の確保を優先する判断だった。
燐は異論を挟まなかった。
六人の時は違った。カイが前衛で、バルカスが指揮を執り、リディアが情報を集め、セレスが後方を警戒し、燐が全体を見渡す。役割が分散していた。六人分の選択肢があった。
四人になって、一人が負う重みが増えた。バルカスの判断にかかる荷重が大きくなり、燐の索敵の責任が増え、リディアがロリの世話と情報整理を同時にこなす必要が出た。
誰もそれを口にしなかった。
ただ、車内が広くなった代わりに会話が減った。カイの明るい声がない。セレスの静かな気配がない。五人の呼吸と六人の呼吸は、聞こえる音が違う。
「リディア」
燐が声をかけた。
リディアが振り返った。端末の画面が暗い中でぼんやり光り、リディアの顔を下から照らしている。歩きながらデータを確認していたらしい。
「壁画の計算、進んでいるか」
「うん。進んでる、って言いたいんだけど」
リディアの眉が寄った。端末を操作する指が止まり、画面を燐に向けた。数式と図形が並んでいる。燐には読めないが、リディアの表情から複雑な問題であることは分かった。
「天球の配列。壁画に描かれてたのは、特定の星の並びなの。あれが揃う夜にだけ開くって書いてあった。問題は、その星の配列がいつ揃うか。観測データが足りない」
「ラステルで揃えられるのか」
「港町なら天文台があるかもしれない。なくても、海から空を観測すれば精度が上がる。内陸の空は山が邪魔をして低緯度の星が見えないから」
リディアが端末を閉じ、ジャケットの内ポケットに収めた。
「あの港町で計算を仕上げないと。天球の配列が揃う日を特定できなかったら……壁画の情報が宝の持ち腐れになるわ」
「急ぐ理由が一つ増えたな」
「もともと急ぐ理由しかないでしょ」
リディアが口の端を上げた。笑顔と呼ぶには硬かったが、軽口を言える余裕が残っていた。その余裕が四人の空気を、わずかに軽くした。
少女がリディアの横を歩きながら、上を見上げた。
「お星さまの並びで、何かが開くのですか」
「そう。古い遺跡よ。壁画にはそう描いてあった。でも、どの星がいつ揃うかは、計算しないと分からないの」
「リディアさんは、お星さまに詳しいのですか」
「天文学は専門じゃないわ。でも遺跡工学やってると、嫌でも古代の天文観測と付き合うことになるの。遺跡の配置が星の位置と対応してること多いから」
少女が頷いた。理解しているかどうかは分からなかったが、リディアの話を聞く姿勢は真剣だった。青藍の瞳が空に向けられ、星を一つ一つ確かめるように視線が動いた。
「あの明るいのは?」
少女の白い指が、南西の低い位置に光る星を指した。
「金星。この時期は宵の明星って呼ばれるの。一番明るく見える星よ」
「きんせい」
少女が言葉を繰り返した。指先は下ろさず、星を指したまま小首を傾げた。
「いつもあそこにいるのですか」
「ううん。季節で位置が変わるの。だから観測が大事なのよ」
リディアが少女の髪に手を伸ばし、風で乱れた毛先を耳の後ろに流した。少女が小さく目を細め、リディアの手の感触を受け入れた。
バルカスが先を歩きながら、一度だけ振り返った。会話の内容を確認するように。けれど何も言わず、また前を向いた。
* * *
丘の頂で休憩を取ったのは、月が天頂を過ぎた頃だった。
バルカスが荷物を下ろし、大斧を地面に立てかけた。刃が月光を反射して白く光った。使い込まれた柄の木肌に、乾いた汗の染みが層になっている。握り部分が掌の形にすり減り、革の巻きが薄くなっていた。
リディアが毛布をロリの肩にかけた。
一枚しかない毛布だった。荷物の分配で、大きな毛布はカイたちに渡した。残ったのは小さな予備の一枚と、保存食の袋と、水筒が二つ。リディアは自分の上着を脱いで少女の膝に載せ、少女の身体を二重に包んだ。
「リディアさん、寒くありませんか」
「平気よ。歩いてると暑いくらい」
嘘だった。リディアの腕に鳥肌が立っていた。けれど少女は問い返さなかった。代わりに毛布の端を持ち上げ、リディアの方に差し出した。
「一緒に入りましょう」
リディアが一瞬、目を丸くした。それから小さく笑った。
「……ありがと」
二人が肩を寄せ合い、一枚の毛布の中に収まった。少女の銀色の髪がリディアの肩にかかり、リディアの腕が少女の背に回った。
燐は岩に腰を下ろし、保存食を取り出した。硬い携行パンを片手で千切り、口に入れた。塩気が強い。水筒の水で流し込むと、胃の底に重さが落ちた。一日分の食糧を三日で割っている。空腹は消えないが、飢えてはいない。
バルカスが水筒を少女に差し出した。蓋が緩めてあった。少女の指の力では硬い蓋が開けにくいことを、バルカスは覚えていた。
「飲め」
少女が両手で水筒を受け取り、一口飲んだ。水が喉を通る音が、夜の静けさの中で聞こえた。
「ありがとうございます、バルカスさん」
バルカスは鼻を鳴らしただけだった。少女から水筒を受け取り、蓋を閉めた。それから自分は飲まなかった。残量を計算しているのだろう。軍人の水管理は染みついた習慣だ。
燐は保存食を噛みながら、西の空を見ていた。
星が多かった。盆地にいた頃よりも空が広い。遮るものがない丘陵の頂からは、地平線まで星が散らばっている。天の川が南北に白い帯を引き、その中を小さな光が無数に瞬いていた。
リディアが空を見上げた。
「……きれいね」
呟きだった。技術者の目ではなく、ただ空を見ている目だった。
沈黙が降りた。
風の音。草が揺れる音。遠くで虫が鳴いている。夜行性の小動物が草むらを走り抜ける微かな音が、丘の斜面から聞こえた。
四人がいた。丘の頂に、四つの影が座っている。六人から四人に減った影。しかし空いた二つ分の隙間を、残った四人が自然に詰めていた。バルカスが少し内側に座り、リディアが少女に寄り添い、燐が三人を視界に入れる位置にいた。
その時だった。
音がした。
遠い。ごく遠い。耳の奥に届くか届かないかの境界にある低い、重い音。
燐の身体が反応した。腹筋が硬くなり、背筋が伸びた。右手が無意識に腰に伸びて、何もない空間を掴んだ。剣はない。しかし身体が、音の種類を記憶していた。
砲声。
もう一度。かすかに遅れて、三発目。連続ではない。間隔がある。単発の砲撃が、遠い場所で繰り返されている。
バルカスが立ち上がっていた。
大斧に手をかけたまま、東の方角を向いている。太い首が傾き、耳を風上に向けた。斥候隊長の身体が、音源の方角と距離を測定している。
「……東南東。四十キロ以上先だ」
声は低く、硬かった。
「砲声か」
燐の問いに、バルカスが頷いた。
「間違いない。口径が大きい。野戦砲か、攻城砲か。いずれにしろ、軍の装備だ」
リディアが毛布から腕を出し、端末を取り出した。画面の光が顔を照らし、目が細められた。
「方角的には、キルヒベルク方面? 砦よりは南寄り」
「ああ。帝国が南に押している。EISENSTURM、鉄の嵐の攻勢が広がっている」
バルカスの声に、感情が滲んだ。滲んだことを自覚したのか、すぐに声を引き締めた。けれど一瞬だった。一瞬だけ、声の底が揺れた。
少女が毛布の中で身を縮めていた。
砲声の意味を理解していた。小さな身体が硬くなり、リディアの腕に身を寄せている。青藍の瞳が東の空を見つめていた。暗い空に、何も見えない。砲声だけがある。音だけが、戦争の存在を証明していた。
四発目の砲声が、空気を伝わってきた。
鼓膜が微かに震える程度の振動。しかし確かにあった。大気そのものが、遠い暴力の余波を運んでいた。丘の上の草が揺れたのは風のせいか、振動のせいか。区別がつかないほど微弱な波が、四人の足元を通り過ぎていった。
沈黙。
五発目は来なかった。風の音だけが戻ってきた。虫の声が再び聞こえ始め、夜の静けさが砲声の余韻を飲み込んでいった。
バルカスが座り直した。しかし姿勢は変わらなかった。東を向いたまま、大斧の柄に手をかけたまま。
「……行軍を続けるか」
燐に向けた問いだった。
「ああ。夜が明ける前にあの丘を越える」
燐は立ち上がった。右腕が引き攣ったが、顔には出さなかった。
* * *
歩き始めてから、誰も口を開かなかった。
砲声が変えた。四人の間の空気を。それまでは旅の一部だった沈黙が、重さを帯びた。足音だけが丘陵の夜に響いている。草を踏む音。靴底が小石を転がす音。四人分の呼吸。
燐は殿を歩きながら、懐に手を入れた。
指先が紙に触れた。折り畳まれた地図の端。何度も開いて閉じたせいで、折り目が柔らかくなっている。ポケットの中で体温を吸い、紙が温かかった。
取り出さなかった。しかし指は離さなかった。地図の端を親指と人差し指で挟み、紙の繊維の感触を確かめた。
レオンハルトの地図。
走り書きの文字が脳裏に浮かんだ。太い筆跡。インクが滲んで、最後の一画がかすれている。急いで書いたのだろう。けれど読めた。明瞭に読めた。
生きろ。
二文字。それだけだった。それだけで十分だった。
砲声が東から聞こえた。レオンハルトは今、あの方角にいるのだろうか。第3機甲魔導大隊の指揮を執り、鉄の嵐作戦の中にいるのだろうか。帝国の将校として、侵攻の先頭に立っているのだろうか。
燐を逃がすために偽報告を書いた男が。命を預けたままだと笑った男が。背中合わせで聖炎と戦った男が。
あいつは、無事だろうか。
口の中が乾いていた。水筒に手は伸ばさなかった。
空を見上げた。
星が散らばっていた。盆地で見た空より、広い。遮る山がなく、地平線の際まで星が落ちている。天の川の白い帯が斜めに横切り、その中に赤い星が一つ混じっていた。冬の終わりに東の空に昇る、古い星。名前は知らない。しかしこの季節に見える星だということは知っていた。士官学校で星座の読み方を習った時、レオンハルトと二人で屋根に上がって空を眺めた夜があった。
遠い記憶だった。嘘のように遠い。けれど地図の紙の温度は、嘘ではなかった。
唇が動いた。
「……いつか」
声にしたつもりはなかった。しかし喉が震えて、音が漏れた。
「……胸を張って、会いに行く」
風が吹いた。西から。唇から漏れた声を攫い、東へ運んでいった。届くはずがない。四十キロ以上先の、砲声の向こうには。
それでも言葉は口から出た。出てしまった。燐の意志とは別の場所から、声帯が勝手に震えた。
指が地図を離した。ポケットの中で手を握り、開いた。紙の感触が指の腹に残っていた。
前を歩く少女が振り返った。
月明かりの中で、青藍の瞳が燐を見上げていた。聞こえたのだろう。風が運ばなかった分の声が、三歩先を歩く少女の耳に届いた。
少女の足が止まった。
燐も足を止めた。前を歩くリディアとバルカスの背中が遠ざかっていく。二人は気づかず歩き続けている。少女と燐だけが丘の中腹で、立ち止まっていた。
「リン」
少女の声は小さかった。
「……会いに行くのですか。レオンハルトさんに」
燐は答えなかった。答える言葉が見つからなかった。「会いに行く」と呟いたのは自分だ。しかしそれは約束ではなく、祈りに近い何かだった。いつかという言葉が意味する不確かさを、燐は知っていた。
少女が一歩、近づいた。
白い手が伸びた。月光の中で少女の指が燐の左手に触れた。冷たかった。夜気に晒された小さな指が、燐の手の甲に触れ、掌を探し当てて、握った。
小さな手だった。燐の掌の中にすっぽり収まるほどの。しかし握力は確かだった。三日前より、強い。
「ロリも一緒に行きます」
少女の声が、震えなかった。
青藍の瞳がまっすぐ燐を見ていた。月の光が瞳の中で揺れている。恐怖はなかった。不安もあったかもしれない。けれど少女の声には、不安を押し退けた何かがあった。
燐は少女の手を見下ろした。自分の手の中にある、白い小さな手。指の関節がまだ細く、爪が薄い。回復途中の身体の手だ。しかしこの手は遺跡の中で光を放った手だ。ゼルギウスの聖炎を押し返した手だ。
握り返した。
言葉は出なかった。左手の指が、少女の手を包んだ。力は入れなかった。ただ手のひらの中に、小さな温度を受け止めた。
少女が微かに頷いた。燐が頷き返した。
それだけだった。
前方で、リディアの足音が止まった。
「二人とも、どうしたの?」
振り返ったリディアの声が、丘の中腹に届いた。ゴーグルが額の上で月光を反射している。
「何でもない」
燐の声は、いつも通りだった。少女の手を離し、歩き始めた。少女が隣を歩いた。半歩遅れて、同じ方向に。
リディアが二人を見比べた。何かを察したのだろう。口を開きかけ、閉じた。口の端だけが上がった。
「手、繋いでたでしょ」
「……見るな」
「見るわよ。丸見えだもの」
リディアの声が明るかった。暗い丘陵の中に、その声だけが色を持っていた。
バルカスが先頭で足を止めず、声だけを後ろに投げた。
「無駄話は歩きながらにしろ」
「はいはい」
リディアが片手を上げて返事をし、少女の肩に手を添えて歩き出した。四人の足音が再び揃った。
* * *
丘の下り斜面に差し掛かった時、リディアが足を止めた。
「待って」
端末を取り出し、空に向けた。画面に星図が表示されている。リディアの目が画面と空を往復した。
「この角度なら南天が見える。海が近いから、低い星も観測できる」
リディアが端末を操作し、星の位置を記録し始めた。指先が画面の上を走り、数値を入力していく。
「ねえ燐。五分だけ時間ちょうだい」
「三分」
「四分」
「……三分半」
リディアが口笛を吹いた。端末に向き直り、集中した。ゴーグルのレンズが端末の光を反射し、二つの白い丸が暗闇の中に浮かんでいる。
バルカスが無言で周囲を警戒した。大斧を降ろし、片膝を突いて草の間に身を低くした。燐も同じ姿勢を取った。少女がリディアの隣にしゃがみ込み、端末の画面を覗いている。
「この星と、あの星の角度が……」
リディアの指が、画面上の二つの点を結んだ。
「壁画に描かれてたのは、この三つの星が一直線に並ぶ夜。でも三つ目の星がまだ確認できない。ラステルに着いたら、海上から……」
言葉が途切れた。
砲声がもう一度、聞こえた。
さっきより近い。いや。近いのではなく、風向きが変わったのだ。西風が止まり、東からの風が戻ってきた。砲声を運ぶ空気の流れが変わり、音がはっきり届くようになった。
重い。低い。腹の底に響く種類の振動。
リディアの指が止まった。端末の画面を見つめたまま、唇が引き結ばれた。
沈黙が数秒。
リディアが端末を閉じた。
「……三分半、終わり」
声が少しだけ硬かった。
立ち上がり、端末をポケットに戻した。顔を上げて東の空を見た。星が瞬いている。砲声の方角の空は、他の方角と何も変わらない。暗くて、星があって、雲がない。しかしその空の下で砲弾が飛んでいる。
「計算、できたのか」
「途中よ。でもラステルで続きをやる。データは取れた」
リディアが髪をかき上げた。指先が耳の裏を通り、首筋に触れた。
「——やるしかないでしょ。砲声が聞こえても、計算は止まらないし」
その声は、自分に言い聞かせているようだった。
* * *
バルカスが足を止めたのは、次の丘を越える手前だった。
四人が歩いている。バルカスが先頭。大斧の柄が背中の上で月光を受けている。リディアと少女が並んで歩き、燐が殿。
バルカスの右手がジャケットの内ポケットに入った。
燐はその動きを見ていた。殿を歩く位置から、バルカスの右手が胸元に消えるのが見えた。何を取り出すのかは分かっていた。
通信機だった。
掌に収まる大きさの金属の筐体。角が丸く削られ、表面に無数の小さな傷がある。軍の制式装備だ。短距離の暗号通信が可能な、斥候隊の標準機材。バルカスが砦から持ち出した一台。
バルカスの親指が、筐体の側面を撫でた。送信ボタンの突起を、触れて、離した。触れて、離した。押しはしなかった。
足が止まった。
バルカスの大きな身体が、丘の稜線上で立ち止まった。前を向いていた顔がゆっくりと、東に向いた。
砲声の方角。砦の方角。カイとセレスが走って行った方角。ゲルトがペンを走らせている方角。バルカスの部下たちが生きているか死んでいるか分からない方角。
東の空は暗かった。星が散らばっている。砲声はもう聞こえない。風が草を揺らし、虫が鳴き、丘陵の夜が静まり返っている。何の変哲もない空だった。しかしバルカスの目はその空の一点を見ていた。見えないものを見ようとしていた。
通信機を握る右手の指が、白くなっていた。
燐は足を止めなかった。バルカスの横を通り過ぎず、三歩手前で歩みを緩めた。待っていた。リディアが気づき、少女の手を引いて足を止めた。
丘の上に、風だけがあった。
バルカスの唇が動いた。声にはならなかった。何を言おうとしたのか、燐には読めなかった。バルカスの背中だけが見えている。大斧を背負った広い背中。その背中が、わずかに震えた。
一秒。二秒。三秒。
バルカスの右手が、通信機を——ゆっくりと、ポケットに戻した。
送信ボタンは押されなかった。暗号も送られなかった。砦への声は、東の空に届かなかった。
バルカスが、前を向いた。
西を。ラステルのある方角を。四人が向かっている方角を。
足が動いた。一歩。靴底が草を踏み、土を噛んだ。二歩目。三歩目。バルカスの歩幅は変わらなかった。軍人の一定のリズム。疲労が溜まっても崩れない間隔。さっきまでと同じ歩幅で、同じ速度で、前を向いて歩き出した。
けれど肩が、少し下がっていた。ほんのわずか。大斧の重さに押されたのではなく、別の何かを背負ったように。
燐は何も言わなかった。
バルカスの三歩後ろを歩き始めた。リディアが少女を連れて続いた。四人の足音が再び揃った。
砂利を踏む音。草を踏む音。四つの足音が夜の丘陵に刻まれていく。
* * *
夜が深まった。
月が西に傾き、丘陵の稜線が影を落として道が暗くなった。バルカスが時折、方位を確認するように立ち止まり、星の位置を見上げてからまた歩き出す。レオンハルトの地図と星を照らし合わせて、進路を修正しているのだろう。
少女の足が重くなっていた。
歩幅が狭まり、足を上げる高さが低くなった。草の根に靴先が引っかかる頻度が増え、リディアの手を掴む力が強くなった。疲労だ。回復途中の身体には、夜通しの行軍は重い。
バルカスが振り返った。
少女の足元を一瞬だけ見て、何も言わず歩調を落とした。一歩の間隔が広がり、速度が二割ほど落ちた。自然に。命令としてではなく。
少女は気づかなかっただろう。リディアは気づいていた。バルカスの背中に、小さく口角を上げた。
燐も気づいていた。
六人の時もそうだった。ロリの足が遅くなると、バルカスは何も言わずに全体の歩調を緩めた。「休むか」とも「大丈夫か」とも聞かなかった。ただ速度を落とした。それがバルカスのやり方だった。
少女のポケットから、微かに匂いがした。
乾いた薬草の匂い。甘くて、わずかに苦い。セレスの小袋が少女のポケットの中で、歩くたびに布に揉まれて香りを放っていた。
少女の右手がポケットに入り、小袋の上に置かれた。
指先が麻布の表面を撫でた。袋の中の乾燥した葉の輪郭を、指の腹で確かめるように。目は前を向いていた。足は動いていた。ただ手だけが、離れた人の残した物に触れていた。
丘をもう一つ越えた。
下り斜面の先に、平坦な草地が広がっていた。月明かりの下に銀色の草原が伸び、その先の暗い地平線の上に、低い雲が光っていた。雲の底が微かにオレンジ色に染まっている。
「あれは——」
リディアが声を上げた。
バルカスが足を止め、遠くを見た。
「篝火だ。大きな街がある」
「ラステル?」
「まだ遠い。だが、あの方角だ」
バルカスの声に、少しだけ安堵に似た何かがあった。目的地の存在を、初めて目で確認できた。地図の上の名前でしかなかったものが、雲の底に映る光として、現実になった。
少女が草原の先を見つめていた。
オレンジ色に染まった雲。その下にある、まだ見えない街。海。空を全部映す水面。リディアが言っていた、朝日の金色。
少女の唇が、微かに動いた。言葉にはならなかった。けれどその表情には疲労の底に沈んでいた好奇心が、再び浮かんでいた。
* * *
歩き続けた。
砲声は聞こえなくなっていた。東の空は変わらず暗く、星が瞬いている。風が西から吹いていた。潮の匂いがさっきよりはっきりしていた。もう気のせいではない。空気の質が変わっている。乾いた荒野の空気から、湿り気を帯びた沿岸の空気へ。
燐は歩いていた。
右腕が疼く。包帯の下で、傷口が歩行の振動に合わせて脈打っている。けれど足は止まらなかった。
地図がポケットの中にあった。レオンハルトの文字が、胸の内側で温まっている。
いつか、と言った。いつかとは、いつだ。明日か。一月後か。一年後か。分からない。分からないが、言葉は口から出た。出たということは、そう思っている自分がいるということだ。
砲声は遠かった。
だが足音は近い。
バルカスの重い靴音が先頭で刻まれ、リディアの軽快な足取りが続き、少女の小さな靴音がその後ろにある。燐の足音が最後尾で草を踏む。四つの足音が、夜の丘陵に一定のリズムを刻んでいた。
砲声は遠い。足音は近い。
その二つの音の間に世界がある。戦争と、旅と。砦と、港と。残してきた人たちと、一緒にいる人たち。東と、西。
どちらも自分の世界だった。
燐は前を見た。バルカスの背中。大斧の柄。リディアの髪。少女の銀色の後ろ姿。
この四人で、歩いている。
それだけが、今、確かなことだった。
西の空に星が一つ、低く光っていた。宵の明星。リディアが少女に教えた星。季節で位置が変わる星。今だけ、この角度でだけ見える光。
その光に向かって、四人の影が草原を横切っていった。
足音が続いている。砂利を踏む音。草を分ける音。四つの靴底が大地を踏む、近い音。
遠い砲声。
近い足音。
西の空に、星。




