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第3章-64話「分岐する運命」

 朝の鐘が三つ、砦の塔から落ちてきた。


 ゲルトは指揮所の前に立ち、中庭を見渡した。六日前とは違う景色がそこにあった。テントが増えていた。南壁沿いの空き地に二列、東の馬繋ぎ場の裏手に三列。白い帆布が朝日を受けて、くすんだ砦の石壁の中で妙に眩しい。馬の鼻息が白く立ち、藁と馬糞と炊事場の煙が混じった匂いが、冷えた朝の空気に溶けている。


 傭兵の主力五百名が到着したのは二日前だった。ブレナンの先遣隊とは別に、メルカトルから追加で派遣された部隊。指揮官は傭兵副長のエストが務め、ブレナンの指揮下に入った。正規兵と傭兵を合わせて千五百名を超える。六日前に帝国の三千を迎え撃った時の倍近い数だ。


 壁にはまだ亀裂が走っている。南壁の射撃孔は崩れたまま、石と瓦礫で応急処置がされていた。仮設の足場が壁の内側に組まれ、工兵が漆喰を練っている音が中庭まで届く。修繕は終わっていない。しかし人の数が違う。砦は息を吹き返していた。


「副指揮官殿。朝の点呼、完了しました」


 トーマスが駆け寄ってきた。右肩の包帯は薄くなっている。巻き直す回数が減ったということだ。顔色は六日前より良い。頬に血色が戻り、声に張りがある。


「欠員は」


「昨夜の哨戒で負傷した二名が衛生所に入りましたが、戦列復帰は明日の見込みです。他に異常はありません」


「分かった」


 ゲルトは頷いた。六日前、砲撃の朝には、トーマスの報告を聞くたびに胃の底が冷えた。今は違う。冷えない、というわけではない。ただ、冷えた胃のまま判断を出す方法を、身体が覚えた。


「それと」


 トーマスが革の筒を差し出した。封蝋が押してある。暗号通信ではなく、書面だった。蝋の紋章は連合統合軍のもの、鷲と盾の印が赤い蝋の中に沈んでいる。


「今朝方、伝令が持ってきました。ハロッド総司令官からです」


 ゲルトは筒を受け取った。革の表面がまだ冷たい。夜通し馬で運ばれてきたのだろう。紐を解き、中から巻かれた紙を引き出す。厚い紙だ。軍の正式な命令書に使われる上質のもので、指先に繊維の目が感じられた。


 広げた。


 暗号ではなかった。平文。ハロッドの署名と軍印がある。内容は簡潔だった。


 ——鉄門の棘。


 ゲルトの目が文面を追った。補給線妨害作戦。帝国軍が鉄門峡を通じて砦方面に送り込む補給車列を、峡谷の地形を利用して叩く。偵察フェーズの即時開始を命ずる。


 読み終えて、もう一度最初から読んだ。


 防衛ではなかった。攻勢だ。守るだけではなく、こちらから仕掛ける。


 指が紙の縁を弾いた。音は出なかった。ゲルトは命令書を巻き直し、指揮所の机に向かった。


* * *


 詰所に集めたのは三人だった。ヴォルフ、ブレナン、トーマス。


 ゲルトは机に命令書を広げた。魔導灯の光が紙面を照らし、ハロッドの筆跡が浮かび上がる。太い字だ。迷いのない線。


「ハロッド総司令官から正式な作戦命令が出た。作戦名は『鉄門の棘』。帝国の補給線を鉄門峡で妨害する。まずは偵察フェーズだ」


 ブレナンが腕を組んだ。刀傷だらけの前腕が袖から覗いている。四十がらみの傭兵団長は、六日前の防衛戦で正規兵との距離を縮めていた。壁の上で肩を並べて戦った記憶は、どんな酒宴よりも早く人と人を結ぶ。


「補給線か。帝国の腹を刺すってことだな」


「鉄門峡は一日二個大隊が限界だ。補給車列はもっと遅い。峡谷で隊列を伸ばすしかない。そこを」


 ゲルトは配置図の上に指を置いた。鉄門峡の細い線を爪先でなぞる。


「斥候を出す。峡谷の地形、帝国の補給スケジュール、護衛兵力の規模を把握する。ヴォルフ」


 壁際に立っていた古参の斥候が、微かに顎を引いた。ヴォルフは言葉が少ない。だがその目は動いていた。配置図の鉄門峡を見つめ、既に地形を頭の中で歩いている。


「三名で行く。峡谷の東端と西端に観測点を置いて、車列の数と間隔を三日間記録する。護衛の編成、武装、交代。全部だ」


 ゲルトが頷いた。ヴォルフに任せるべき仕事だ。この男に「やれ」と言えば、やる。説明も確認も要らない。


「出発は」


「今夜の第五の鐘。月が欠けている。闇が深い方がいい」


「了解した。必要な物資は」


「水と携行食を五日分。通信結晶は一個。以上だ」


 ブレナンが鼻を鳴らした。


「斥候ってのは身軽だな。俺の部下なら、まず酒と毛布がないと動かん」


「毛布は持っていく」


 ヴォルフの声は平坦だった。冗談なのか本気なのか分からない。ブレナンが一瞬目を丸くし、それから短く笑った。


「……真面目か」


 トーマスが口元を押さえた。笑いを堪えているらしい。ゲルトは詰所の空気が六日前とは確かに変わっていることを感じた。張り詰めてはいる。けれど、笑いが生まれる余地がある。


「トーマス。ヴォルフが出ている間、哨戒の穴を埋める配置を考えろ。俺に案を持ってこい」


「了解です」


 トーマスの返事は速かった。こういう実務を任せられるようになったのは、この六日間の変化だ。


 ブレナンが腕組みを解き、椅子の背もたれに手をかけた。


「なあ、副指揮官殿」


 声のトーンが変わった。軽口の色が消え、問いかけの形をした真剣な声だ。


「バルカス隊長は——いつ戻るんだ」


 詰所の空気が、一拍止まった。


 トーマスの手が膝の上で握られた。ヴォルフの目が壁の一点に固定された。ブレナンは、まっすぐゲルトを見ていた。


 部下たちが聞きたかったことを、傭兵団長が代わりに口にしたのだ。


 ゲルトは息を吸った。


 バルカスの顔が浮かんだ。日焼けした大きな顔。古傷。ぶっきらぼうな声。十年以上、あの背中の後ろにいた。砦を預かると言った時、握った手の力を覚えている。


 答えが、喉の奥で一瞬つかえた。


「隊長は……別任務中だ」


 声は平坦だった。震えてはいない。しかし「別任務」の三文字の前に間があった。ブレナンはそれを聞き逃さなかっただろう。


「必ず戻る」


 ゲルトの声が詰所の壁に当たり、返ってきた。反響のない、短い音だった。


 ブレナンが顎を引いた。それ以上は聞かなかった。


 ヴォルフが壁から背を離した。トーマスが膝の上の拳を解いた。


 詰所の中で、誰もバルカスの名を重ねなかった。ゲルトが「戻る」と言った。それで十分だった。少なくとも、今は。


 会議が解けた後、ゲルトは一人で砦の中を歩いた。


 朝の巡回は習慣になっていた。バルカスがいた頃は隊長がやっていた仕事だ。壁の上を歩き、哨兵に声をかけ、損傷箇所を目で確認し、兵士の顔色を見る。六日前のゲルトはそれを義務として行っていた。今は足が自然に動く。


 南壁の修繕現場を通りかかった時、工兵の若い兵士が漆喰の桶を担いで走っていた。仮設の足場を登る手つきが危なっかしい。桶が傾き、漆喰が壁の表面に白い飛沫を撒いた。


「おい、こぼすな。材料は有限だ」


 声をかけると、若い工兵が肩を竦めた。十八か十九。先遣隊と一緒に来た新兵だ。顔を覚えていない。


「す、すみません副指揮官殿——」


「急ぐな、丁寧にやれ。壁は明日も明後日もある」


 若い工兵が何度も頷いて足場に戻っていった。ゲルトは自分の口から出た言葉に、少し驚いていた。バルカスの口癖に似ている。「急ぐな。丁寧にやれ」。借り物の言葉か。いや、十年も隣にいれば、言葉は身体に染み込む。借りたのではない。受け継いだのだ。


 東の馬繋ぎ場の裏手を回った。傭兵たちのテントが並ぶ区画で、大きな鍋が焚き火にかけられていた。粥だ。麦と干し肉を煮込んだ匂いが、朝の冷気の中を漂っている。傭兵の一人が木の杓子で鍋をかき回しながら、隣のテントの仲間に声を張った。


「起きろ、飯だ。冷めたら鳥にやるぞ」


 正規兵の炊事場とは別の、傭兵独自の食事支度だ。ブレナンの部下たちは自分たちの食い物は自分で用意する。砦の補給に頼りすぎない。傭兵の矜持だった。


 鍋の横に、木の器が並べてあった。正規兵のものではない。傭兵が自前で持ち込んだ器だ。しかしその中に見覚えのある器が二つ混じっていた。砦の炊事場で使っている、縁の欠けた陶器の椀。正規兵の誰かが、傭兵の炊事場に椀を置いていったのだ。


 ゲルトは足を止めず、そのまま通り過ぎた。けれど口元が、僅かに緩んでいた。


 六日前、正規兵と傭兵は互いを値踏みしていた。壁の上で肩を並べて血を流した六日間が、木の器と陶器の椀を同じ鍋の周りに集めていた。


* * *


 書斎は薄暗かった。


 石壁の窓に嵌め込まれた色硝子が、外の陽光を琥珀色に濾して室内に落としている。書架が三面の壁を埋め、革装丁の背表紙が整然と並んでいた。聖典の注釈書、教義解説、布教記録、地方教区からの報告書。何十年もかけて蓄積された紙の堆積が、この部屋の主の在任期間を物語っている。


 蝋燭が一本、机の右端で燃えていた。炎は動かない。窓を閉め切った書斎に風はなく、蝋が溶けて真鍮の受け皿に薄い円盤を作りつつある。蝋の甘い匂いが、古い羊皮紙の乾いた匂いに混じっていた。


 グレゴリウスは机に向かっていた。


 首席枢機卿の執務机は広い。樫材の天板に緑の革が張られ、使い込まれた表面に細かな傷と染みが蓄積している。その上に広げられた紙は二枚。一枚は報告書。もう一枚は、まだ白紙だった。


 報告書はヴァルドからのものだった。聖罰騎士団長としての簡潔な経過報告に、ゼルギウス・フォン・リヒトホーフェンの現場証言が添付されている。聖罰騎士団の中でも精鋭に数えられる男。高潔で、融通が利かず、聖炎の使い手として帝国有数の力を持つはずの男。


 グレゴリウスの指先が、報告書の一節を辿った。爪の手入れが行き届いた、細い指だ。紙の上を滑る指先が、ある一文のところで止まった。


 ——対象の女に聖炎を放ったが、炎は触れた瞬間に霧散した。一切の効果を発揮しなかった。


 グレゴリウスは動かなかった。指が紙の上に置かれたまま、数秒。蝋燭の炎が揺れない静寂の中で、枢機卿の呼吸だけが微かに聞こえていた。


 聖炎は対魔族特効の術式だ。アステリア聖教が「神の浄化の炎」と呼ぶもの。闇の眷属に対して絶対的な効果を発揮する。教義上は。千年の歴史の中で、聖炎が効かなかった事例は記録にない。


 記録に、ない。


 グレゴリウスの唇が微かに動いた。声は出なかった。


 報告書はさらに続いていた。ゼルギウスの筆跡は乱れている。行間が途中から狭くなり、インクの乗りが不均一になっていた。書き手の精神状態が紙面に滲み出ている。


 ——蒼い瞳。幼い外見。しかし聖炎に対する絶対的な耐性。闇の眷属として分類可能か疑問。従来の教義分類では説明がつかない。


 グレゴリウスは報告書を閉じた。


 椅子の背もたれに身を預け、天井を見た。石のアーチが蝋燭の光に照らされ、影が梁の間を走っている。


 聖炎が効かない。


 その事実が意味するものを、グレゴリウスは知っていた。


 この部屋の書架の、最上段の、鍵のかかった区画に、改竄前の聖典の写本の断片が保管されている。「原初の神」が人型であったこと。血を与えて命を育んだこと。始祖が吸血鬼であったことを示唆する記述の欠片。


 聖炎は「神の浄化の炎」だ。神の権能に由来する術式。ならば、「神」と同じ系譜に連なる存在に対して聖炎が効かないのは、矛盾ではない。論理的帰結だ。


 グレゴリウスの右手が机の引き出しに伸びた。真鍮の取手を引く。引き出しの中に、封蝋と印章と、上質な羊皮紙が五枚、重ねられていた。


 一枚を取り出した。


 机の上に置く。白い紙面が蝋燭の光を受けて淡い黄色に染まった。


 ペンを取った。銀軸のペンだ。インク壺に先端を浸す。黒いインクがペン先の溝に吸い込まれ、余った一滴が壺の縁で切れた。


 グレゴリウスは書き始めた。


* * *


 宛先はヴァルド・シュトライヒャー。聖罰騎士団長。鋼鉄の秩序派の筆頭。


 ペンが紙の上を走る。乾いた音が書斎に響く。ゼルギウスの報告に対する枢機卿としての公式見解という形式を取った文書だった。


 グレゴリウスは文言を選んだ。


 ゼルギウスが報告した「聖炎無効化」という現象を、教義の枠組みの中で再定義する必要があった。聖炎が効かなかったという事実をそのまま騎士団に伝えれば、信仰の根幹が揺らぐ。ゼルギウス一人の動揺ならばまだ管理できる。しかし騎士団二百名の信仰が崩れれば、組織が瓦解する。


 ペンが止まった。


 インクの溜まりがペン先に膨らみ、落ちる寸前で表面張力に留まっている。グレゴリウスはその黒い球を見つめた。


 ゼルギウスが見たものは真実だ。聖炎が効かなかった。それは事実だ。


 しかし、事実をそのまま伝えることが正しいとは限らない。


 ペンが再び動いた。


 ——ゼルギウスが遭遇した現象について、以下の教義的解釈を提示する。


 グレゴリウスの筆が、ある言葉を紙の上に刻んだ。


 ——原初の闇。


 太古の聖典に記された、神に先立つ混沌の力。光あるところに影があるように、聖なる炎にはそれを打ち消す原初の闇が対を成す。件の存在は、この「原初の闇」の発現体と見做すのが教義的に整合的である。


 嘘だった。


 太古の聖典に「原初の闇」という概念は存在しない。グレゴリウスが今、この机の上で、ペン先から生み出した言葉だ。「神に先立つ混沌の力」という定義も、「聖なる炎の対」という構造も、全てこの数分間で組み上げた虚構だった。


 しかし虚構には説得力が要る。


 グレゴリウスのペンは淀みなく走った。教義の文体を完璧に模し、聖典の語彙を正確に引用し、架空の概念に歴史的重みを付与していく。改竄前の聖典の文体を知っているからこそ、偽の文体を作れる。本物を知る者だけが、精巧な偽物を作ることができる。


 ——この「原初の闇」の発現体に対しては、聖炎による浄化ではなく、物理的な封印と隔離が有効であると考えられる。聖罰騎士団は対象への接近戦闘を避け、捕縛を優先せよ。


 ペンが止まった。


 書き上がった文書を、グレゴリウスは読み返した。蝋燭の光の下で、インクがまだ乾ききっていない文字が光を反射している。


 整合的だった。教義の体系に矛盾なく嵌まり、聖炎の無効化を説明し、騎士団の行動指針を示している。ヴァルドは疑問を持つかもしれないが、反証する手段を持たない。禁書の内容を知っているのは、この部屋の主だけだ。


 グレゴリウスはペンを置いた。銀軸がインク壺の縁に当たり、小さな音が鳴った。


 二枚目の羊皮紙を取り出した。


* * *


 二通目の宛先は、ラステルだった。


 海神聖堂の大司祭、アマーリエ。連合側の各宗派の中で最大の勢力を持つ穏健派の長老であり、港町を拠点に六百名の聖職者を統べる女性だ。グレゴリウスの秘密情報網の中に、海神聖堂の内通者が二十名いる。アマーリエ自身はその事実を知らない。


 しかし、この書簡は秘密ルートではなく、公式の宗教間通信として送る。表向きの内容は、戦禍による避難民の急増に対する聖教間の協力要請だった。


 ——ラステルおよび西岸港湾都市における避難民救護施設の設置を提案する。帝国・連合を問わず、戦火を逃れた民に聖教の慈悲を。施設には聖職者を常駐させ、避難民の登録と救護にあたるべし。


 グレゴリウスのペンは滑らかだった。慈悲深い言葉が紙の上に並んでいく。避難民救護。聖教の使命。宗派を超えた協力。


 施設に常駐する聖職者は、避難民の登録を行う。名前、出身地、同行者、移動経路。あらゆる情報が記録され、聖教のネットワークを通じてグレゴリウスの手元に届く。


 港町を通過する全ての人間が、聖教の目に触れることになる。


 グレゴリウスは書き終えた。


 二通の書簡が机の上に並んだ。一通はヴァルドへ。もう一通はアマーリエへ。嘘の教義と、慈悲の仮面を被った監視網。


 封蝋を溶かした。蝋燭の炎に赤い棒蝋を翳すと、蝋が溶けて液体になり、透明な赤が粘りを帯びて垂れ落ちた。羊皮紙の折り目に赤い蝋が載り、その上に印章を押す。真鍮の印が蝋に沈み、枢機卿の紋章が刻まれた。太陽と書物の意匠。聖教の知恵と光明を象徴するはずのものが、偽りの教義を封じる蓋になっていた。


 二通目にも同じ動作を繰り返した。封蝋が固まるまでの数秒、グレゴリウスは机の上の二通を見下ろしていた。


 蝋燭の炎が、初めて微かに揺れた。窓の隙間から入り込んだ風か。あるいは、枢機卿の息か。


 グレゴリウスは立ち上がった。椅子が床の石畳を擦り、低い音が書斎に響いた。書架の前を通り、窓に歩み寄る。色硝子越しに外を見た。琥珀色のフィルターを通して、聖都の屋根が見える。尖塔。鐘楼。信徒たちの家の煙突から立ち上る朝餉の煙。


 この街の人間が朝の祈りを捧げている。「原初の神」に。正確には、改竄された聖典の中の「原初の神」に。


 グレゴリウスは窓から目を離した。


 書架の前で足を止めた。最上段の区画。鍵のかかった扉の向こうに、改竄前の聖典の写本が眠っている。この鍵を持っているのは、大陸で三人だけだ。グレゴリウスと、先代の枢機卿から継いだ暗号士二名。


 指先が鍵穴に触れた。開けはしなかった。触れただけだ。真鍮の鍵穴の冷たさが指の腹に伝わり、離れた。


 今日書いた文書は、あの区画の中身を永遠に閉じ込めるための蓋だ。「原初の闇」という概念が教義に定着すれば、聖炎無効化は説明がつく。真実に近づく必要がなくなる。ゼルギウスも、ヴァルドも、騎士団の兵士たちも、嘘の中で安らかに眠り続けることができる。


 安らかに。


 グレゴリウスの唇が、微かに歪んだ。笑みとも嘲りともつかない形。しかし一瞬で消え、元の無表情に戻った。


 机に戻り、二通の封書を革の鞄に入れた。鞄の留め金を閉じる音が、静かな書斎に落ちた。


 蝋燭を吹き消す前に、グレゴリウスはもう一度だけ机の上を見た。インク壺の蓋を閉め、銀軸のペンを革の筆入れに収める。ゼルギウスの報告書は引き出しの奥に仕舞った。鍵をかけた。


 書斎を出る時、色硝子の窓から差し込む光が枢機卿の背中に琥珀色の帯を落とした。影が石畳の上に長く伸び、扉の向こうに消えた。


* * *


 夜の砦は静かだった。


 ゲルトは壁の上にいた。南壁の修繕が進んだ区間。石の表面に新しい漆喰が塗られ、まだ乾ききっていない白い部分が闇の中でぼんやりと浮いている。足元の石が冷たかった。軍靴の底を通して、夜気に晒された石壁の温度が伝わってくる。


 風が吹いていた。北東から。乾いた、少し埃っぽい風だ。砦の旗が風を受けて、布が翻る音がぱたぱたと続いている。


 ゲルトは壁の胸壁に肘を置き、北東の空を見ていた。


 星が出ていた。月は細い。三日月よりさらに欠けた、爪の先のような月が地平線の近くに浮かんでいる。ヴォルフが「闇が深い方がいい」と言った通りだ。今頃、あの寡黙な斥候は二人の部下を連れて鉄門峡に向かっているはずだ。


 けれどゲルトの視線はヴォルフの方角ではなく、もう少し北を見ていた。


 バルカスがいる方角。


 通信は送れない。バルカス自身がそう判断した。発信元の方角が特定されるリスク。暗号通信でも、完全に秘匿はできない。だから砦とバルカスの間に、情報の線は存在しない。


 ゲルトは結晶片を握っていた。通信結晶ではなく、ただの水晶の欠片だ。砦の工兵から貰ったもので、指揮用の地図に目印として置くための駒だった。用途はない。しかし手の中に何かがあると、指が落ち着く。


 水晶の角が掌に食い込んでいた。


「……隊長たちは、無事だろうか」


 声は小さかった。壁の上には誰もいなかった。哨兵の交代が終わったばかりで、次の番が来るまで数分の空白がある。ゲルトの呟きは夜風に紛れ、石壁に吸い込まれて消えた。


 十年。バルカスの隊で十年以上を過ごした。あの大斧が先頭を行き、俺はその背中を見ていた。今は見ていない。背中がないのだ。前に立つのは俺だ。俺の背中を部下が見ている。


 北東の空に、星が一つ瞬いた。瞬いて、消えた。雲が流れてきたのだ。薄い雲が星を覆い、また通り過ぎる。星はまだそこにあった。見えなくなっても、消えたわけではない。


 ゲルトは壁から手を離した。結晶片をポケットにしまう。指が布越しに水晶の硬さを確かめ、離れた。


 壁を降りた。石段を一段ずつ踏む。軍靴が石の角を噛むたびに、乾いた音が壁面に跳ね返った。中庭は闇に沈んでいる。テントの隙間から漏れる焚き火の残り火が、地面に赤い染みを落としていた。傭兵のテントの方角から、低い鼾が聞こえる。正規兵の兵舎は静かだ。明日の朝が早い。


 指揮所の扉を押した。蝶番が軋み、魔導灯の薄い光が漏れた。


 机の上に、ハロッドの命令書と配置図が広げてある。「鉄門の棘」の偵察計画。ヴォルフが戻ってくれば、峡谷の情報が揃う。そこから先は、攻める番だ。


 ゲルトは椅子に座った。命令書の横に白紙を置き、ペンを取った。偵察部隊の帰還後の行動計画を書き始める。峡谷の伏撃地点の候補。必要な兵力。撤退経路。


 ペンが紙の上を走る音が、静かな指揮所に満ちた。


 あの四人が、西の港にたどり着けていれば。


 ゲルトの目は手元を見ていた。ペンは止まらなかった。書くべきことがある。守るべき砦がある。そして帰ってくる場所を、整えておかなければならない。


 隊長が、戻る場所を。


 魔導灯の光が配置図の上に落ち、鉄門峡の細い線を照らしていた。ゲルトのペンがその線の横に、小さな印を書き込んだ。伏撃候補地点、第一。


 夜はまだ長い。

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