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第3章-61話「同じ日に」

 夢を見ていたのかもしれなかった。


 景色が断片的に明滅していた。岩肌の赤。灌木の灰色。星の白。それらが車の振動に合わせて揺れ、溶け、また固まった。現実と夢の境界が水に浸された紙のように曖昧になり、滲んだ色がこめかみの奥に流れ込んでいく。

 脳内魔法式の残骸が、鈍い拍動を繰り返していた。焼損した回路の端末が発する熱は微弱だったが、意識が沈むたびにその熱が首の付け根まで降りてきて、また引いた。波だ。遠い海の波が頭蓋の中に打ち寄せている。


 鋼板の継ぎ目から、夜風が忍び込んでいた。


 冷たかった。五月の夜の、乾いた冷気。荒野を渡ってきた風は砂と枯草の匂いを含み、車内の鉄と革の匂いに混じって鼻腔を通り抜けた。車体が石を踏むたびに座席の下からガリガリという音が伝わり、タイヤが大きな窪みを越えると身体が左右に揺すられた。


 右腕が熱い。


 火傷の上に塗った軟膏が乾き始めている。包帯越しに皮膚が引き攣り、肘から手首までの鈍痛が脈拍と同期して脈打っていた。動かさなければ耐えられる痛みだ。しかし車の振動が容赦なく腕を揺らし、そのたびに灼けるような閃痛が肩まで走って、意識の底に沈みかけた燐を浮上させた。


「——ン」


 声。近い。


「リン」


 ロリの声だった。


 瞼を開けた。暗い。車内の闇の中に、微かな光——リディアの端末の最低光量が天井に反射して、ぼんやりとした輪郭を作っていた。


 隣に少女がいた。


 断熱シートの下から上半身を起こし、燐の顔を覗き込んでいる。銀色の髪が燐の肩に触れ、青藍の瞳が暗闘の中で微かに光を帯びていた。少女の顔色はまだ蒼白に近かったが、唇に血の気が戻っている。


「うなされていました」


 小さな声だった。


 燐の口が開きかけ——喉が張りついて声が出なかった。唇が乾いている。唾を飲み込もうとしたが、口の中が砂地のように渇いていた。


 少女の手が動いた。


 白い指が伸び、燐の額に触れた。掌が広がり、髪の生え際に沿うようにして、額全体を覆った。小さな掌だった。冷たくて、柔らかくて、額に張りついた汗の膜を吸い取るように——ひんやりとした温度が皮膚に沁みた。


「熱いです。リン、すこし」


 少女の声が途切れた。何をすればいいか分からないのだろう。掌を額に当てたまま、眉が寄った。


 燐の左手が上がり、少女の手首に触れた。


「……大丈夫だ」


 掠れた声だった。自分の声とは思えないほど弱い。けれど掌の下の冷たさが、こめかみの熱を確かに和らげていた。少女の体温ではなく、それよりもずっと低い手の冷たさが、焼けた回路の残骸を冷やしている。


「ありがとう」


 少女の瞳が揺れた。唇が震え——閉じ、また開いた。何か言おうとして、言わなかった。代わりに、掌を額の上でゆっくりと動かした。母親が子供の熱を確かめるような——あるいは、子供が親を看るような——その区別のつかない、素朴な仕草。


 燐は目を閉じた。


 掌の冷たさが額を覆っている。車の振動が遠くなった。こめかみの熱が一段下がり、意識が再び深い場所に沈んでいく。けれど今度はうなされることはなかった。


* * *


 帝国の砲撃が三日目にして初めて止んだのは、夜明けの第二刻だった。


 ゲルトは東壁の指揮所で、その沈黙に目を覚ました。


 静かすぎる。三日間、定刻に壁を揺らしてきた砲撃の振動が——ない。石壁を伝わる低い震えが消え、硝煙と粉塵の混じった空気だけが指揮所の窓から流れ込んでいた。


「……止んだか」


 声が掠れていた。三日間の戦闘で、声帯が枯れ始めている。水を一口含んだ。冷たい水が喉の奥に染みて、乾いた組織が膨らむ感覚があった。


 トーマスが駆け込んできた。肩の布巻きが新しくなっている。誰かが巻き直したのだろう——ヴォルフの手つきだ。


「副指揮官殿。帝国軍に動きがあります」


「攻撃か」


「違います。——撤収です」


 ゲルトの手が止まった。水筒を握ったまま、トーマスの顔を見た。


「東壁前方三百メートルの野営地から、荷駄が東に向かって移動を開始。歩兵の隊列も東に——鉄門峡方面へ後退しています」


 後退。


 ゲルトは立ち上がった。膝が三日間の疲労を訴えたが、無視した。指揮所の窓に歩み寄り、東の空を見た。夜明けの薄明かりの中に、確かに——帝国の隊列が動いている。壁に向かってではない。壁から離れていく方向に。


「ヴォルフは」


「西壁の監視哨です。呼びますか」


「いや。このまま報告を続けろ。帝国の後衛の動きを見張れ。偽装撤退の可能性がある——壁の配置は変えるな」


 トーマスが走った。


 ゲルトは窓の縁に拳を置いた。石壁が冷たい。三日間の砲撃で表面が剥がれ、指の下に新しい石肌のざらつきが感じられた。


 偽装撤退か。本物の後退か。

 判断を急ぐな。帝国が壁の前から消えても、それが罠でないと確認できるまでは動くな。


 一時間が経った。


 帝国の隊列は鉄門峡方面に向かって縦列行進を続けていた。後衛に殿軍が残っているが、攻撃態勢ではなかった。馬車が瓦礫の上を軋みながら東に移動し、歩兵が隊列を組んで壁から遠ざかっていく。砲兵陣地の解体が始まっていた。


 ヴォルフが指揮所に現れた。


「偽装ではないと見ます。砲兵が陣地を畳んでいる。砲を分解して荷駄に積んでいます。偽装撤退なら砲を残す」


 ゲルトは頷いた。ヴォルフの判断は信頼できる。三十年の実戦経験が裏打ちしている目だ。


「だが、なぜだ。砦を落とせなかったからか」


「いえ。落とせなかったのは事実ですが——撤退の方向が引っかかります。鉄門峡に戻るのではなく、峡谷を通過した後に南東へ進路を変えている。偵察班が確認しました」


「南東——キルヒベルクか」


 ヴォルフが小さく頷いた。


「キルヒベルクの穀倉地帯を押さえに行く気です。砦を迂回して連合の奥を狙う。攻略に兵力を使うより、目標を変えた——上層部の判断でしょう」


 ゲルトの奥歯が鳴った。


 砦を迂回する。つまり、砦は帝国にとって攻略の優先順位を下げられた。三日間の戦闘で帝国の第1梯団に十分な出血を強い、さらに鉄門峡のボトルネックで増援が遅れたことで、砦攻略のコストが帝国の許容線を超えたのだ。


 安堵すべきだった。砦が生き延びた。迂回される——つまり、当面は攻撃を受けない。


 けれど。


「キルヒベルクが落ちれば、連合の穀物供給が断たれる。砦が立っていても、後方が崩れれば——」


「戦争は長くなります」


 ヴォルフの声は平坦だった。事実を述べただけだ。


 ゲルトは配置図に目を落とした。インクの線と炭筆の書き込みが重なり合い、三日間の戦闘の痕跡が紙の上に刻まれている。


「砦の防衛は継続する。帝国が方向を変えたからって、ここを空けるわけにはいかん。鉄門峡を押さえてる限り、補給線に圧力をかけ続けられる」


「了解です」


「それと——ハロッドに通信を打て。帝国の進路変更を報告する。キルヒベルクの守備隊に警告が必要だ」


 ヴォルフが敬礼して出ていった。


 指揮所に一人残され、ゲルトは窓の外を見た。東の空が白み始めている。砲撃のない夜明け。三日ぶりの、静かな朝。


 壁の外には帝国兵の死体がまだ横たわっていた。回収されていない遺体が、朝露に濡れて黒ずんでいる。その向こうに——空っぽになった野営地の焚き火の痕が、薄い煙を上げていた。


* * *


 目が覚めたのは、車が止まっていたからだった。


 振動が消えている。エンジンの唸りも。車体が静止し、鋼板が冷えて収縮するカチカチという音だけが響いていた。


 窓の外に、灰色の光が広がっていた。夜明け前の薄明。丘陵の稜線が暗い空に浮かび、東の地平線がほんの僅かに赤らんでいる。


 助手席が空だった。リディアがいない。運転席にもカイの姿がない。


 隣を見た。ロリがまだ眠っている。断熱シートを顎の下まで引き上げ、小さな寝息を立てていた。額に触れていた掌が、いつの間にか燐の革鎧の裾に移動し、指先が布地を軽く掴んでいる。


 車外に人の気配があった。


 燐は左手でドアのレバーを引いた。金属が冷えていて、指先に鉄の冷たさが刺さった。ドアが開くと、夜明け前の冷気が一気に流れ込んだ。肺の奥まで冷たい空気が沁み、喉の渇きが増した。


 丘陵の陰に車が止まっていた。岩の張り出しが自然の屋根を作り、車体を空から隠している。偽装網がかけられていた。麻布の網目の隙間から星の光が漏れている。


 カイが車の前方で地面にしゃがんでいた。大柄な身体を丸め、携行コンロの上にカップを載せている。炎は見えなかった。無炎調理器だ。煙も光も出さない。斥候の装備。湯気だけが微かに立ち上り、夜明け前の空気に溶けている。


「燐殿。起きましたか」


 カイの声は小さかった。夜間の音響管理——声量を抑える訓練が滲んでいる。


「状況は」


「現在位置はレオンハルトの地図で三番目の水場から西に十二キロ。リフトグライダーの航続圏内ですが……夜間は飛ばないはずだとリディアさんが」


「リディアは」


「向こうの岩場で、通信機の調整中です。車載の受信機を引き出して——帝国の通信周波数をスキャンしてるって言ってました」


 燐は頷いた。声を出すのが億劫だった。身体が重い。脳内魔法式の焼損による神経への負荷が、全身の筋肉を鈍くしていた。


 カイが湯気の立つカップを差し出した。


「粉末スープです。塩が入ってる。飲んでください」


 左手で受け取った。金属のカップが掌に熱を伝え、その温度だけで胃の奥が反応した。一口含むと、塩と乾燥野菜の味が舌の上に広がった。身体が水分を欲している。二口目は最初より速く喉を通り、三口目で胃が落ち着いた。


「バルカスは」


「セレスさんと交代で見張りを。——あ、今はセレスさんが南西の高台にいます。バルカスさんはリディアさんのところに」


 燐はカップを膝に置き、岩場の方角に目を向けた。薄明の中に、二つの影が見えた。リディアとバルカス。岩の平面に何かを置いて、屈み込んでいる。


 嫌な予感はなかった。けれど車を降りてから、空気の質が微かに変わっていた。夜の静寂とは違う。何かを待っている静けさだ。


* * *


 三日目の午後、帝国の最後の後衛部隊が砦の前方から消えた。


 ゲルトは東壁の上に立ち、空になった野営地を見下ろしていた。焚き火の痕。踏み荒らされた地面。折れた梯子の残骸。帝国兵の遺体は——夜のうちに帝国の回収班が大半を運び去っていた。残されたのは、壊れた防楯と矢の破片と、地面に染み込んだ血の跡だけだ。


「壁の修復を始める」


 ゲルトの声に、周囲の兵士たちが動いた。


 東壁の亀裂に土嚢が積み直された。南壁の崩落した射撃孔に板材が当てられ、補強の石組みが始まった。三日間の戦闘で消耗した弩砲の弦が張り替えられ、矢の残数が再集計された。


 ブレナンが中庭で傭兵弓兵隊の点呼を取っていた。


「傭兵弓兵隊。生存者二百十六名。戦闘可能百八十二名。負傷して後方で回復中三十四名」


 その声は淡々としていた。二百四十名で始まった弓兵隊が二百十六名になっている。二十四名の差が——名前であり、顔であり、二度と弦を引かない指だった。


 ゲルトはブレナンの横に立った。


「メルカトルからの傭兵主力隊は」


「出発したって通信があった。五百名。メルカトルからここまで——十二日の行軍だ。D+5には着く計算になる」


「五百名」


 ゲルトは数字を頭の中で転がした。現在の残存兵力が約千九十名。そこに五百名が加われば、千五百名を超える。砦の防衛能力が——質的に変わる。


「ブレナン殿」


「なんだ」


「——よく持ちこたえた」


 ブレナンの日焼けした顔が、一瞬だけ緩んだ。口角が持ち上がりかけ——すぐに戻った。


「持ちこたえたのは俺だけじゃない。壁の上で槍を握った正規兵も、土嚢を運んだ補給兵も、怪我人の手当をした衛生班も——全員だ。それと」


 ブレナンがゲルトの肩を叩いた。太い手だった。


「あんたがいなけりゃ、二日目の夜に壁が抜けてた」


 ゲルトは何も返さなかった。代わりに——ブレナンの手が肩に残した重みを、しばらく感じていた。


* * *


 リディアの声が車載通信機のノイズに混じって聞こえた時、バルカスは岩の上で大斧の刃を布で拭いていた。


「バルカスさん、ちょっと来て」


 声量が抑えられていた。しかしその声の底に、普段のリディアにはない硬さがあった。


 バルカスは大斧を岩に立てかけ、リディアのいる岩場に向かった。朝日がまだ地平線の下にある時刻だ。東の空だけが紅く染まり、丘陵の稜線が黒いシルエットになっている。足元の砂利が軍靴の下で鳴った。乾いた音が、夜明け前の静寂に響く。


 リディアは岩の平面に車載通信機の受信ユニットを置いていた。魔導装甲車のダッシュボードから引き出した携帯型の筐体で、天面の結晶が微かに脈動している。端末と配線で繋がれ、画面に波形が表示されていた。


「帝国の通信を拾った」


 リディアの声は低かった。ゴーグルを額に上げ、端末の画面を睨んでいる。


「第二層の暗号で……解読はできないわ。でも通信量が異常なの。昨夜から断続的に、帝国の軍事周波数帯で——大量の通信が飛び交ってる」


 バルカスの目が細くなった。


「量だけで中身は読めないのか」


「暗号は無理。でも発信元と受信先の方角は特定できるわ。これ見て」


 リディアが端末の画面を傾けた。波形の横に、方位角の数値が並んでいる。


「発信元は東——鉄門峡方面。受信先は北東、帝国本国の方角ね。前線と後方の通信よ。普通なら一日に数十件。でも昨夜は三時間で二百件以上——作戦命令の発令だと思う」


「作戦命令——」


 バルカスの声が途切れた。


 レオンハルトの地図の余白に書かれていた走り書きが、頭の中で甦った。燐から聞かされた情報。「第2梯団の攻勢がD-1日に始まる」。


「日付は——今日がD-1日だ」


 バルカスの声が変わった。低い。硬い。


「EISENSTURM。レオンハルトが書いていた攻勢開始の前日。帝国は——動くのか」


 リディアの指が端末の上で止まった。


「もう一つ。この通信の中に——平文に近い短波通信が一本だけ混じってた。暗号が甘いの。多分、前線の下級部隊が急いで暗号処理を省いたんだと思う」


「何が書いてあった」


「グリフォンズ・ネスト方面に砲兵が移動中——って読める部分があった。それと、EISENSTURMってコードネーム。鉄の嵐——作戦名よ」


 バルカスの顔から血の気が引いた。


 朝日が地平線を割り、赤い光が丘陵の岩肌を舐めた。その光がバルカスの顔を照らしたが——日焼けした肌は、光に照らされているのに白かった。


「砦だ」


 声が低い。


「グリフォンズ・ネスト砦に——帝国が来る」


 リディアは何も言わなかった。端末の画面を見つめたまま——唇を一文字に引き結んでいた。


 バルカスの右手が、無意識に胸ポケットに触れた。そこには何も入っていない。命令書はゲルトに託した。砦の配置図も、哨戒ローテーション表も。全てを副指揮官に預けて、この任務に出た。


 ゲルトがいる。トーマスがいる。ヴォルフがいる。ブレナンの傭兵たちがいる。砦には千名近い兵士がいる。


 しかし帝国の第1梯団は三千だ。


「……連中は持ちこたえられるか」


 バルカスの声は、リディアに向けたものではなかった。荒野の東の空に向けた、独り言だった。


 リディアが端末を畳み、バルカスの顔を見た。


「——砦のことは、今の私たちにはどうにもできないわ。分かってるでしょ」


 バルカスは答えなかった。東の空を見ていた。地平線の上に赤い光が広がっている。朝日だ。砦にも同じ朝日が昇っているはずだ。しかしあちらではその朝日の下で砲撃が始まるかもしれない。


「燐殿に伝えるわ」


 リディアが立ち上がりかけた時、バルカスが口を開いた。


「……俺から言う」


 声は平坦だった。けれど大斧の柄を握り直す手の、関節が白かった。


* * *


 D+5の朝。


 砦の西門の前に、ゲルトは立っていた。


 五日前と同じ場所だ。先遣隊を迎えた夜と同じ門。しかし今日は門の向こうに見える光景が違った。


 西の街道を、長い隊列が近づいてきていた。


 先頭の馬車が砂煙を上げている。荷馬が四頭、車輪の軋みが風に乗って聞こえた。馬車の幌には商会の紋章——ではなく、無地の灰色の帆布が被せてある。傭兵団の輸送車両だ。荷馬の脇を歩く男たちは、正規軍の制服を着ていなかった。革鎧が多い。一部は鉄の胸当て。武器の種類がばらばらで、長槍を担いだ者の隣に弩弓を背負った者がいる。


 傭兵だ。


 隊列は長かった。先頭から最後尾まで、目測で三百メートル以上。歩兵が隊列を組み、その間に馬車が挟まっている。十二日間の強行軍を終えた足取りは重く、軍靴——ではなく革のブーツを履いた足が砂埃をたてて砦に向かっていた。


 先頭の馬車の脇に、見覚えのある男が歩いていた。


 日焼けした肌。刀傷の残る腕。四十がらみの、がっしりとした身体。


 ブレナンだった。


 ——いや。違う。ブレナンは砦の中にいる。


 先頭の男は、ブレナンより若かった。三十代半ば。けれど雰囲気が似ている。傭兵特有の、実戦で削ぎ落とされた身体の使い方。


 男が西門の前で足を止め、ゲルトの姿を認めた。


「グリフォンズ・ネスト砦の指揮官殿か」


「副指揮官、ゲルト」


「メルカトル傭兵団、第二陣。五百名。団長ブレナンの命令書に基づき、砦の防衛増援として参着した」


 男が革のケースから紙を取り出し、ゲルトに差し出した。ブレナンの署名と、メルカトルの傭兵ギルドの印章が押されている。


 ゲルトは紙を受け取り、署名を確認した。ブレナンの筆跡だ。見間違えない。壁の外で共に弩砲を撃った夜に、この男の署名入りの作戦書を何度も見た。


「確認した。——よく来た」


 同じ言葉を使った。五日前の先遣隊にも同じことを言った。けれど今日の声は五日前より太かった。


 五百名の傭兵が西門をくぐり始めた。


 門の両側に立った正規兵が、傭兵たちを迎えた。五日前の先遣隊の時は沈黙から始まった拍手が今回はなかった。代わりに正規兵が傭兵に水筒を差し出し、傭兵がそれを受け取る光景があった。声はなかった。けれど水筒を受け渡す手と手の間に、何かが通っていた。


 ブレナンが中庭の向こうから駆けてきた。


 傭兵団長の顔がゲルトが初めて見る表情を浮かべていた。口元が引き結ばれ、目が潤んでいる。けれど泣いてはいなかった。先頭の男、副団長だろう、の前に立ち、無言で肩を掴んだ。


 副団長が頷いた。それだけで——十分だった。


 ゲルトはその光景を中庭の隅で見ていた。トーマスが隣に立っている。若い斥候の肩の布巻きが汗で滲み、朝日に照らされて白く光っていた。


「副指揮官殿」


「なんだ」


「千五百名を超えました」


 数字だった。けれどトーマスの声は震えていた。


 ゲルトは中庭を見渡した。五百名の傭兵が荷を降ろし、正規兵と合流している。弓兵が弓弦を確認し、槍兵が穂先を点検し、馬車から降ろされた矢の束が壁際に積まれていく。五日前には八百名を切っていた兵力が、今は千五百名を超えている。


 壁は補修されている。弩砲の弦は張り替えられている。食糧と弾薬が補充されている。


「砦は——落ちなかったな」


 ゲルトの声は、独り言に近かった。


 トーマスが横を向いた。


「落ちませんでした。副指揮官殿が落とさせなかったんです」


 ゲルトは何も返さなかった。視線を中庭から東壁に移した。壁の上に、砦の旗が翻っている。砲撃で焦げ、矢で穴が開き、血で染みた旗。それでも風を受けて、確かにはためいている。


 壁から目を離し、空を見上げた。


 高い空だった。雲が薄く流れている。この空の下のどこかに——バルカスがいる。カイがいる。セレスがいる。燐がいる。あの銀髪の少女がいる。


 無事でいるだろうか。


 ゲルトは空から目を戻した。口の中で——声にならない言葉を転がした。


 ——隊長。こちらは持ちこたえました。


* * *


 バルカスが戻ってきた時、燐は岩に背を預けて座っていた。


 右腕を膝の上に置き、左手でカップの残りを飲んでいた。スープは冷めていたが、塩気が体に染みた。身体の輪郭が少しだけ鮮明になっている。意識の霧が——完全に晴れたわけではないが——朝の冷気と水分が、思考の回路を幾らか修復していた。


 バルカスの顔を見た。


 日焼けした肌が——白い。古傷が浮き上がっている。唇が引き結ばれ、顎の筋肉が硬直していた。太い指が大斧の柄を握ったまま、関節が白くなっている。


 何かがあった。


 その判断に、脳内魔法式は必要なかった。目の前の男の顔色だけで——十分だった。


「——何があった」


 燐の声は掠れていた。けれど問いの形は明確だった。


 バルカスは燐の前に立ち、一拍、沈黙した。荒野の風が二人の間を抜け、バルカスの短い灰色の髪を微かに揺らした。


「リディアが帝国の通信を傍受した。EISENSTURM——鉄の嵐作戦。レオンハルトが書いていた攻勢が、発動した」


 燐の左手が——カップの縁を握りしめた。金属が指に食い込み、手の甲の腱が浮き出た。


「砦は」


「方角的に——グリフォンズ・ネスト方面に砲兵が移動中という通信があった。砦が標的に入っている。正確な状況は分からん。だが——」


 バルカスの声が途切れた。喉仏が上下した。飲み込んだのは唾ではなく、言葉だった。


「ゲルトたちが今——戦っている可能性がある」


 静寂が落ちた。


 朝の光が丘陵の岩肌を赤く染め、バルカスの影が長く伸びた。風が止んでいた。灌木の葉が動かない。世界が息を止めたような——重い静寂。


 燐はバルカスの目を見た。


 目を見れば分かる。この男が今、何を考えているか。砦に戻りたい。部下の元に駆けつけたい。十年以上共に戦った副指揮官と、自分が育てた斥候たちの元に。大斧を振るって壁の上に立ちたい。


 しかしここには六人がいる。消耗した燐と、回復途上のロリと、カイと、セレスと、リディア。ラステルまであと三日。帝国の航続圏内。護衛が一人でも欠ければ、全員の生還率が下がる。


 バルカスの右手が——大斧の柄から離れた。


 拳を握り、太腿に押しつけた。筋が浮き出た前腕が微かに震えていた。けれどその震えは三秒で止まった。


「カイ、出発準備だ。日が高くなる前に距離を稼ぐ」


 声は平坦だった。命令の声だ。感情を押し殺した——いや、感情を飲み込んだ上で、その上に立って出した声だった。


 カイが立ち上がった。コンロを片づけ、カップを洗い、車に向かった。何も聞かなかった。バルカスの声の底にあるものを、カイもまた——聞き取っていた。


 セレスが南西の高台から降りてきた。ライフルを肩にかけ、淡いグレーの目がバルカスの顔を一瞬だけ見て——何も言わず、荷台に乗り込んだ。


 リディアは通信機を車に戻し、端末を膝に抱えて助手席に座った。ゴーグルを目元に引き下ろし——それから、やめて首に戻した。視界を遮りたかったのかもしれなかった。


 燐は車に乗る前に、一度だけバルカスの横に立った。


 何か言うべきだった。砦は大丈夫だ、とか。ゲルトなら持ちこたえる、とか。しかしそのどれも口から出なかった。バルカスが聞きたいのは慰めの言葉ではないと、分かっていたからだ。


「……軍曹」


 バルカスが横を向いた。


「ゲルトは——お前が育てた男だ」


 それだけ言った。慰めではなかった。事実だった。


 バルカスの唇が動いた。何かを言いかけ、やめた。代わりに、鼻から短い息を吐いた。いつものぶっきらぼうな仕草だ。けれどその呼気が、微かに震えていた。


「乗れ。時間がない」


 バルカスが運転席に座った。大柄な身体がシートに沈み、太い指がハンドルを握った。ダッシュボードの起動スイッチを押すと、車体の底から魔導機関の唸りが立ち上がった。低い振動が座席を通じて背中に伝わった。


 ロリが後部座席で目を覚ましていた。断熱シートを膝に落とし、青藍の瞳で車内を見回している。少女は何も聞いていなかったはずだ。けれどバルカスの背中を見つめる目に、何かを察した色があった。


「バルカスさん」


 小さな声だった。


 バルカスは振り返らなかった。けれどミラー越しに少女の目を見た。


「……なんだ」


「お水、ありますか」


 唐突な問いだった。けれど少女の声には、欲しいものを求める子供の口調ではない何かがあった。


 バルカスは荷台に手を伸ばし、水筒を取った。蓋を緩め——少女に渡した。蓋を緩めた状態で。いつもと同じ仕草だ。


 少女は水筒を受け取り、一口飲んだ。それから——水筒をバルカスに返した。


「バルカスさんも、飲んでください」


 バルカスの手が、水筒を受け取った。一瞬——太い指が止まった。


 水筒に口をつけた。冷たい水が喉を通った。荒野の朝の水。蓋を閉め、荷台に戻した。


「……ありがとよ」


 声は低かった。荷台に放り投げるような粗雑な口調だったが——水筒を置く手は、静かだった。


 車が動き出した。


 砂利を噛むタイヤの音が丘陵に反響し、朝の冷気を裂いて西に走り出した。


* * *


 魔導装甲車は丘陵の間を西に走った。


 バルカスが運転していた。太い腕がハンドルを回し、荒野の起伏を正確に読んで車体を導いている。その運転は安定していた。カイの運転とは質が違う。カイは地形を見て判断する。バルカスは地形を記憶で知っている。斥候部隊の隊長として何百キロもの荒野を走った男の身体が、ハンドルの角度を決めていた。


 しかし運転が安定しているからこそ、燐は気づいた。


 バルカスの目が、時折ミラーに向かっていた。バックミラー。後方を映す鏡。追跡の確認——ではなかった。バルカスの目は、後方の道を見ているのではなく、道の向こうの地平線を見ていた。東の地平線。砦のある方角。


 一度も口にしなかった。けれど目が何度も、何度も、東を映していた。


 燐は後部座席から、バルカスの背中を見ていた。制服の肩が張っている。大斧が助手席の横に立てかけられ、刃が車の振動で微かに揺れている。


 左手が胸のポケットに触れた。レオンハルトの地図が体温を吸って温まっていた。地図の余白に書かれた攻勢開始日。あの情報がなければ——バルカスは通信の意味を理解できなかったかもしれない。レオンハルトが渡した情報が、バルカスに砦の危機を教えた。


 巡り巡って、繋がっていく。敵の軍人が渡した地図が、味方の軍人の心を裂いている。


 車は走り続けた。丘陵が低くなり、地形が開け始めた。灌木の種類が変わっている。乾いた低木ではなく、緑を含んだ背の高い茂みが増えた。空気の匂いも変わった。砂と岩の匂いの中に——土の匂いが混じり始めている。湿った、生きている土の匂い。森が近い。


 リディアが助手席で端末を確認した。


「四番目の水場まであと八キロ。森の入り口に近いわ。そこまで行けば樹冠がリフトグライダーの視界を遮ってくれる」


 バルカスは頷いた。


 燐は窓の外を見た。西の空に薄い雲が流れている。高い空だった。砦にも同じ空が広がっているはずだ。


 ——同じ空の下で。


 ゲルトは今、何をしているだろう。壁の上に立っているだろうか。トーマスに指示を出しているだろうか。ヴォルフの報告を聞いているだろうか。


 分からない。ここからでは、何も分からない。


 バルカスが車を止めたのは、森林地帯の手前だった。


 茂みの間に車を入れ、偽装網をかけた。エンジンを切ると、鋼板の冷却音がカチカチと響いた。その音が止むと——鳥の声が聞こえた。荒野では聞かなかった音だ。木の枝から枝へ飛び移る小鳥の羽ばたきと、短い囀り。


 全員が車を降りた。


 ロリはカイの手を借りて降りた。革靴が柔らかい土を踏み、少女の目が周囲の緑を見回した。荒野の赤と灰色の世界から——緑の世界に変わっている。少女の青藍の瞳に、木漏れ日が映った。


 バルカスは車の後方に立っていた。


 東を見ていた。


 森の木々の間から、東の丘陵の稜線が覗いている。その稜線の向こう、ずっと向こうに砦がある。目には見えない。耳にも聞こえない。それでもバルカスの全身が東を向いていた。


 大斧を背中に回し、太い腕を組んでいた。短く刈った灰色の髪が風に揺れ、古傷のある顔が朝の光に照らされている。唇が一文字に引き結ばれ、目が遠くを見ていた。


 砲声は聞こえない。ここまで届く距離ではない。


 けれどバルカスの耳には聞こえているのかもしれなかった。十年以上聞いてきた砦の音が。石壁に反響する軍靴の音が。兵士たちの声が。ゲルトの「了解」が。トーマスの駆ける足音が。ヴォルフの低い報告が。


 燐は五メートル離れた場所で、バルカスの背中を見ていた。


 あの背中が、震えていた。


 微かに。他の誰にも気づかないほど微かに。しかし燐の目はそれを捉えていた。脳内魔法式がなくても、この距離で人間の身体の震えを見分ける目は持っていた。


 バルカスが、東から目を逸らした。


 身体を回した。西を向いた。森の奥。ラステルへの道。六人が生きて辿り着かなければならない場所。


 目が——燐と合った。


 その目に、言い訳はなかった。迷いはあった。苦渋もあった。けれど決断が、あった。


「——行くぞ」


 声は低く、短く、掠れていた。砦の方角を背にして、六人の仲間がいる方角を向いて——発された声。


 カイが荷物をまとめた。セレスがライフルの安全装置を確認した。リディアが端末をジャケットのポケットにしまった。ロリがカイの手を離し、自分の足で一歩を踏み出した。少女の革靴が柔らかい土を踏み、その足取りは——昨日より確かだった。


 燐は立ち上がった。右腕が痛んだ。こめかみの熱が脈打った。それでも立った。


 バルカスが先頭を歩き始めた。大斧を背負った広い背中が、森の入り口に向かっている。


 一度だけ——足が止まった。


 振り返った。


 東の空を見た。丘陵の稜線の上に、朝の雲が流れていた。薄い巻雲が一筋、東から西に伸びている。砦の上にも同じ雲が流れているはずだった。


 バルカスの唇が動いた。声にはならなかった。音にはならなかった。口の形だけが——何かを紡いだ。


 それが何だったかは、バルカスの背後に立っていた燐にも読み取れなかった。唇の動きが小さすぎた。けれど口の形から、二文字か三文字の短い言葉だったことだけは分かった。


 バルカスは前を向いた。


 大斧の柄が背中で揺れ、軍靴が柔らかい土を踏んだ。その足音は硬い石段を踏む砦の音とは違っていた。森の土を踏む、静かな音。けれど一歩一歩が確かで、重くて、前に向かっていた。


 六人が、森に入った。


 木漏れ日が銀色の髪を照らし、大斧の刃が木々の間で鈍く光った。鳥の声が遠くで鳴り、風が葉を揺らし、柔らかい土の匂いが鼻腔を満たした。


 背後で——東の空が、静かに明けていった。

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