第3章-60話「砦は陥ちず」
目を覚ましたのは、頬に張りついた紙の感触だった。
配置図の上に顔を伏せたまま眠り込んでいたらしい。インクの線が左頬に転写されているのが、指先で触れて分かった。首を起こすと、椅子の背もたれが軋んだ。暗い。魔導灯の光がいつの間にか落ちている。
指揮所の窓から差し込む空気は冷たく、湿り気を帯びていた。夜露の匂い。その奥に、まだ消えきらない硝煙の残り香が混じっている。
「副指揮官殿。第二の鐘です」
トーマスの声だった。指揮所の入り口に立っている。暗がりの中で顔はよく見えないが、声の疲弊具合で分かった。この若い斥候もまた、ほとんど眠れていない。
「状況」
「帝国軍、依然として三百メートル地点で野営中。焚き火の数は昨夜と同等。動きはありません。ただ——」
トーマスが口ごもった。
「後方からの増援と思われる光列が、鉄門峡の東側に確認されています。ヴォルフの目算では、新たに二個大隊規模」
二個大隊。千名前後。
ゲルトは配置図から顔を引き剥がし、手の甲で頬を擦った。紙の繊維が肌に張りついて痒い。立ち上がると膝が軋み、一日中壁の上を走り回った脚が、一晩の仮眠では回復しきれていないことを主張した。
「鉄門峡の通過にどれだけかかる」
自分に問いかけるように呟いた。鉄門峡は帝国側から砦方面に至る唯一の大規模通行路だが、峡谷の幅が狭い。馬車が二台並べない箇所が三キロにわたって続く。隊列を縦に伸ばさなければ通れない地形だ。
「ヴォルフの計算では、一日に通過できる兵力は二個大隊分が限界だと」
「つまり、今日中には来ない」
ゲルトの声に、微かな硬さが混じった。今日一日を持ちこたえれば、帝国の増援は明日以降になる。しかし既に砦の前にいる三千名が今日もまた押し寄せてくる。
「水と食糧の残量は」
「水は井戸が生きています。食糧は五日分。矢の在庫は——昨日の消耗を引いて、約六千本。弩砲の矢は百二十本」
「負傷者の状態」
「重傷十二名のうち、三名が夜のうちに亡くなりました。残りの九名は衛生班が処置を続けています。軽傷者のうち二十八名が戦列に復帰できると」
三名。
ゲルトは目を閉じた。一秒だけ。
五十一名になった。千と五十七名のうち、五十一名が消えた。名前が報告書に並ぶ。それぞれの名前に顔がある。声がある。兵舎で手紙を書いていた若い正規兵は、まだ生きているだろうか。隣で矢の羽根を直していた弓兵は。
目を開けた。
「トーマス。全指揮官を詰所に集めろ。ヴォルフ、ブレナン殿、守備隊長。十分後だ」
「承知」
トーマスが走り去った後、ゲルトは指揮所の壁に立てかけてあった水桶に手を突っ込んだ。夜の間に冷え切った水が手首を刺した。掬い上げて顔に叩きつける。冷水が目を抉り、こめかみを締め上げ、頬に残ったインクの跡を流した。
鼻から水が入り、くしゃみが一つ出た。その呆れるほど間の抜けた音で、ようやく頭が動き始めた。
* * *
詰所に四人が揃ったのは、鐘から二十分後だった。
魔導灯を灯した机の上に配置図を広げ、ゲルトは壁側に立った。正面にヴォルフ。右手にブレナン。左手に前哨線守備隊長の下士官、名をガルシアという。左頬の裂傷に布が巻かれ、片目が半分隠れている。それでも両足で立ち、背筋が通っていた。
「昨日の戦闘で四十八名を失った。夜間に三名が追加。合計五十一名。残存戦力は九百三十六名に、軽傷復帰の二十八名を加えて九百六十四名。弾薬は矢六千、弩砲矢百二十。水と食糧は五日分」
ゲルトは数字を並べた。飾らない。隠さない。砲撃が始まる前の夜に決めた自分のやり方だ。
「帝国は鉄門峡の東に増援を待機させてるが、峡谷の通過容量から今日中に来る可能性は低い。つまり今日も昨日と同じ三千——いや、消耗を入れれば二千五百前後か。こちらの三倍弱だ」
ブレナンが腕を組んだ。短剣の柄に親指をかけ、無意識に爪で金属を叩いている。
「昨日は持ちこたえた。だが、今日も同じ手が通じるか」
ゲルトはブレナンの目を見た。
「通じない部分がある。帝国は第2火砲陣地の位置を把握した。弩砲の残りも南壁に移動させたのを、昨日の射撃で知られている。今日は南壁への砲撃から始まるだろう。——だから、配置を変える」
配置図の上に、ゲルトは新たな線を引いた。指先に炭筆を挟み、壁の位置と射線を描き直していく。
「弩砲二門は南壁から西壁の角に移す。帝国は南壁を叩くが、そこにはもう弩砲はない。代わりに——」
ガルシアが目を細めた。
「囮、ですか」
「そうだ。南壁の射撃孔に偽装用の弩砲の枠だけを残す。帝国が南壁を砲撃している間に、西壁の角から側面を撃つ。一回限りの手だ。だが、一回で充分だ」
ヴォルフが低い声で補足した。
「西壁の角からの射線なら、東壁に取りつく攻城梯子の列を斜めに貫ける。帝国の盾は正面の矢を防ぐ構造だ。横からの弩砲には——」
「対応できない」
ゲルトが頷いた。
「もう一つ。ハロッドへの通信を打つ。カストルム・フルミニスからの増援要請だ」
ブレナンの眉が動いた。
「増援はないと——前に言われたんじゃなかったか」
「二日前はそうだった。だが状況が変わった。帝国が鉄門峡で詰まっている——今なら増援を入れられる。峡谷の渋滞が解ける前に、カストルム・フルミニスから先遣隊を」
ゲルトは炭筆を置いた。
「俺の判断だ。ハロッドが承認するかは分からん。だが、提案しなければ何も変わらない」
ガルシアが、傷だらけの顔で小さく頷いた。
「副指揮官殿の判断に従います。前哨線の残存部隊は、東壁の後方支援に入れます」
「頼む。——それと」
ゲルトは四人を見渡した。
「今日一日持ちこたえろ。明日には状況が動く。三千で落とせるつもりだった砦が落ちず、増援も間に合わない——あいつらが焦り始める」
ブレナンの口角が、僅かに上がった。
「焦った軍は——判断を間違える」
「そういうことだ。ブレナン殿、今日も弓兵を頼む。射撃位置を昨日と変えろ。同じ場所から撃つな」
「了解だ」
四人が詰所を出ていった。ゲルトは一人残り、通信機の前に座った。暗号変換表を開き、一文字ずつ組み替えていく。指先がインクと汗で滑った。
——ハロッド殿へ。砦防衛第1日終了。死者五十一名、残存九百六十四名。帝国は鉄門峡の通過容量制約で第2梯団が渋滞中と判断。カストルム・フルミニスからの先遣隊派遣を要請する。規模二百名で充分。鉄門峡が詰まっている今なら、帝国に阻まれずに砦に到達可能。以上。
送信ボタンを押した。結晶が脈動し、オゾンの匂いが鼻を刺した。
返信が来る保証はない。来たとしても「増援なし」かもしれない。けれどゲルトが自分の頭で考え、自分の名前で出した要請だった。バルカスの判断ではない。ゲルトの判断だ。
* * *
帝国の砲撃が再開されたのは、夜明けの第四刻だった。
昨日と同じ時刻。同じ東の空からの閃光。しかし着弾地点が違った。
南壁に砲弾が集中した。
予想通りだった。石壁が轟音と共に震え、南壁の射撃孔から粉塵が噴き出した。偽装用に残した弩砲の枠が粉砕される音が、ゲルトのいる東壁の指揮所まで伝わってきた。しかし弩砲はそこにはない。
「副指揮官殿、南壁被弾! 射撃孔二か所が崩落!」
「弓兵の被害は」
「退避済みです。ブレナン殿が射撃位置を変更していたおかげで——死傷者なし」
ゲルトの歯が、きつく噛み合った。それは安堵の噛み締めだった。
砲撃は十二分で止んだ。昨日の十五分より短い。弾薬を節約しているのか、それとも前進を急いでいるのか。
鉄門峡の渋滞で増援が届かない焦り。ゲルトの読みが正しければ、帝国は今日中に砦を落とそうとしてくる。昨日より攻撃が激しくなる。けれど昨日より長くは続かない。
帝国歩兵の前進が始まった。
東壁に立ったゲルトは、昨日と同じ位置から前方を見た。しかし見える景色は違っていた。前哨線の残骸が、砲撃でさらに崩されている。塹壕の跡は完全に埋まり、前哨線があったことすら分からないほど地形が変わっていた。その平坦になった荒野を、帝国の隊列が進んでくる。
昨日と違い、先頭に盾兵の壁がない。代わりに、大型の木製盾を台車に載せて押している工兵の列が見えた。移動式の防楯だ。弓矢を防ぎながら壁まで近づき、梯子をかける。
「新しい手を持ってきやがった」
ゲルトの呟きが、石壁に吸われた。
「副指揮官殿。射撃開始距離は」
東壁の弓兵小隊長が声をかけてきた。この男もまた、昨日一日を生き延びた兵士だ。右腕の革鎧の袖が裂けて、応急の布が巻かれている。それでも弓を構える手は安定していた。
「移動防楯相手に通常射撃は効かん。二百メートルまで引きつけろ。そこから西壁の弩砲で防楯を壊す——壊したところに矢を浴びせろ。一発も無駄にするな」
「了解!」
距離、五百メートル。四百。三百。
帝国の工兵が防楯を押しながら、じりじりと近づいてくる。車輪が瓦礫を踏み潰す音が聞こえた。低い、連続的な軋み。その後ろに控える歩兵の軍靴が地面を叩く律動が、空気そのものを震わせていた。
二百五十メートル。
ゲルトの右手が上がった。
二百メートル。
「——西壁、弩砲射撃開始」
西壁の角から、二門の弩砲が同時に火を噴いた。
帝国は東壁と南壁を警戒していた。西壁からの射撃は想定していない。太い矢が斜め横から移動防楯の側面を貫いた。木材が裂ける音が、二百メートル先から壁の上に届いた。防楯が二台、横倒しになった。後ろに控えていた工兵が露出する。
「東壁、射撃開始!」
矢が空を覆った。
露出した工兵に矢が降り注ぎ、隊列が乱れた。残った防楯の後ろに兵士が殺到し、押し合い、密集した。密集すれば弩砲の的になる。弩砲が三射目を放ち、密集した帝国兵の群れを貫いた。
しかし帝国はそのまま前進を止めなかった。
倒れた防楯を乗り越え、盾を頭上に掲げて矢を防ぎながら、歩兵が壁に向かって走り始めた。梯子を担いだ工兵が、死体の上を踏み越えて突進してくる。
百メートル。五十メートル。壁の根元に取りついた。
「梯子だ! 東壁、槍を構えろ!」
ゲルトの声が壁の上に響いた。同時に、自分も壁の縁に走った。下を覗くと、石壁の根元に梯子が三本同時にかけられていた。帝国兵が猿のように梯子を攀じ登ってくる。最初の一人が壁の縁に手をかけた瞬間、正規兵の槍が突き出された。帝国兵が悲鳴を上げて落ちた。けれど次の兵がすぐに後を継いだ。
壁の上で白兵戦が始まった。
梯子を登りきった帝国兵が壁の上に飛び込み、正規兵と剣を交えた。金属がぶつかる甲高い音が、壁全体に木霊した。ゲルトは指揮所の壁に立てかけていた短槍を掴み、壁の縁に走った。梯子の上端に手をかけた帝国兵の顔が目の前にあった。若い顔だ。恐怖に引きつっている。
槍を突き出した。
手応えがあった。胃の底が縮む感覚を飲み込み、梯子を壁から押し返した。梯子が傾き、二人の帝国兵を乗せたまま後ろに倒れた。落下の衝撃音と叫び声が混ざった。
「梯子を押し返せ! 根元を狙え!」
ガルシアの声が壁の南端から聞こえた。前哨線を生き延びた守備隊の残存兵が、梯子の根元に向かって石を投げている。煮えた油を桶から注ぐ兵士もいた。油が壁を伝って流れ、梯子にかかった。帝国兵の悲鳴が上がった。
壁の上の白兵戦は、二十分で収まった。
梯子を全て押し返し、帝国歩兵は壁の根元から後退した。しかし東壁の石壁にはさらに新しい傷が増えていた。砲弾の痕、矢の刺さった跡、油の焦げ跡。石壁の表面が、昨日とは別の顔になっている。
* * *
午前中だけで、帝国は三度の攻撃を仕掛けてきた。
第一波は移動防楯。第二波は通常の盾兵と梯子。第三波は歩兵の正面突撃と同時に、南壁への再砲撃。
三度目の砲撃で、南壁の射撃孔がさらに二か所崩壊した。壁の構造そのものが危うくなり始めている。ブレナンの弓兵隊は射撃位置を三度変え、その都度建物の陰や瓦礫の裏に移動して帝国の砲撃をかわした。けれど三度目の移動で傭兵の弓兵四名が崩落した石壁の下敷きになった。
「ブレナン殿——」
報告を持ってきたトーマスの声が、掠れていた。
「四名。即死が二名、重傷が二名です」
ゲルトは壁に手をついた。石が熱い。砲撃の衝撃で壁の表面が加熱されている。掌に伝わるその異様な熱が、現実の重さを教えた。
「ブレナン殿の状態は」
「無事です。弓兵の退避を指揮した後、南壁の損傷を確認しています」
「伝えろ。南壁はもう使えん。射撃孔の崩壊が進んでいる。弓兵隊は東壁の後方陣地に移動。そこから壁越しの曲射で帝国を牽制しろ」
トーマスが走った。
ゲルトは東壁の縁から前方を見下ろした。帝国軍は再び三百メートルの距離で隊列を整えている。午前三度の攻撃で、帝国も損耗している。壁の根元に帝国兵の死体が積み重なり、折れた梯子と砕けた防楯が散乱していた。その光景は凄惨だったが、帝国は構わずに次の波を準備している。
昼を過ぎた頃、トーマスが通信文を持って駆けてきた。
「ハロッドからの返信です——」
ゲルトは紙を受け取った。手が汚れている。炭と血と粉塵がこびりついた指で、折りたたまれた紙を開いた。
——要請を受領。48時間暫定行動権限を発動する。カストルム・フルミニスより先遣隊200名を派遣。到着予定はD+2日深夜。それまで砦を保持せよ。
ゲルトは紙を二度読んだ。
一度目は文字を追うだけだった。二度目で、意味が頭に染み込んだ。
増援が来る。
紙を持つ指が、微かに震えた。けれどその震えは恐怖ではなかった。
「D+2日深夜。明日の深夜だ」
声に出した。自分の耳で聞いて、確かめるために。
「トーマス。この情報は全指揮官に伝える。だが、兵士には『増援の可能性がある』とだけ言え。確定情報として広めるな。来なかった時に——」
「分かってます。期待が裏切られた時の方が……最初から期待しないより、落ち方がひどいですから」
ゲルトは一瞬、トーマスの顔を見た。この若い斥候の目に、三日前にはなかった硬さがあった。実戦が人を変える。それは良いことなのか悪いことなのか、今のゲルトには分からなかった。
「……そうだ。よく覚えてるな」
「副指揮官殿が前に言ったんですよ。バルカス隊長の受け売りだと前置きして」
ゲルトは鼻を鳴らした。
* * *
午後の攻撃は、午前以上に激しかった。
帝国は五度にわたって壁への突撃を繰り返した。梯子の数が増えた。四本、五本、七本。壁の別々の場所に同時にかけられ、正規兵の槍衾だけでは防ぎきれなくなった。
ガルシアが自ら槍を取って壁の上に立った。裂傷のある顔に新たな血が加わり、左腕を吊るしながら片手で短剣を振るった。前哨線で生き延びた守備隊の兵士たちが、ガルシアの周囲に集まって壁を守った。
西壁の角の弩砲が、午後三時に一門が故障した。射撃の反動で台座が割れたのだ。残り一門。
東壁の石壁に亀裂が走った。上部の石組みが崩れ、壁の厚みが半分になった箇所がある。そこに帝国の砲弾が一発でも当たれば、壁が抜ける。
ゲルトは亀裂の前に立った。
「ここに土嚢を積め。石も、瓦礫も、使えるものは何でも突っ込め。壁の裏から支えろ」
兵士たちが動いた。正規兵が土嚢を運び、傭兵が瓦礫を拾い集めた。砦の中庭に転がっていた壊れた荷車の車輪や、兵舎の壁から剥がれた板材まで、手当たり次第に壁の裏に積み上げた。
ブレナンが東壁の後方陣地から駆けつけた。傭兵団長の日焼けした顔が、一日の戦闘で灰色に変わっていた。頬に粉塵がこびりつき、汗の筋が白い線を作っている。
「南壁から弓兵を連れてきた。東壁の後方から曲射で援護する。——それと、副指揮官殿」
「なんだ」
「ヴォルフが見た。東の丘陵に——帝国の砲兵が新しい陣地を構築してる。今日中にあそこから砲撃が来たら、東壁の亀裂は持たない」
ゲルトの奥歯が鳴った。
時間だ。全ては時間の問題だった。帝国が新砲兵陣地を完成させる前に日が暮れるか。日が暮れれば、夜間砲撃の精度は落ちる。朝まで持ちこたえれば、先遣隊が——。
「何時間かかると見る」
ブレナンが唇を舐めた。乾いた唇の端が切れて、薄い血が滲んだ。
「ヴォルフは四時間と言った」
「日没まで三時間だ」
ゲルトはブレナンの目を見た。
「一時間、足りない」
沈黙が落ちた。壁の向こうで、帝国兵の号令が風に乗って聞こえた。次の攻撃の準備をしている。
「第2火砲陣地——砲撃で破壊された旧陣地だ。あそこにまだ弩砲の残骸がある」
ゲルトの声が変わった。低く、速く。頭の中で地図が回転していた。
「残骸を引っ張り出して東壁の外に据える。砲兵陣地に撃ち込む。潰すんじゃない——構築を妨害して時間を稼ぐ」
ブレナンの目が見開かれた。
「壁の外に出るのか。砲撃の中を」
「砲撃はまだだ。陣地構築中だからな。今出れば準備が終わる前に妨害を入れられる。一時間——一時間だけ遅らせれば日没に間に合う」
ゲルトは壁の階段に向かった。
「ガルシア。東壁は任せる。ブレナン殿——弓兵を二十名、俺に貸せ。陣地の外に出る」
ガルシアが敬礼した。傷だらけの顔に、迷いはなかった。
ブレナンは二秒だけ黙り、それから頷いた。
「二十名——いや、三十名だ。俺も出る」
「ブレナン殿——」
「あんたが壁の外に出て、俺が壁の中にいたら格好がつかんだろう。傭兵がな」
ゲルトは何も言わなかった。代わりに、ブレナンの肩を一度叩いた。拳が重い。疲労と、信頼と、そのどちらとも言い切れない感情の重さだった。
* * *
壁の外に出るのは、砦に配属されてから初めてだった。
東壁の裏門から身を低くして出ると、前哨線の残骸が広がっていた。塹壕は完全に埋まり、土嚢は砲撃で粉々に砕かれ、焦げた木材の骨組みが夕方の光の中で黒い影を落としていた。風が吹くと、煤と焼けた土の匂いが鼻を衝いた。乾いた血の匂いも混じっている。戦場の翌日の匂いだ。
第1火砲陣地の残骸に辿り着いた。砲撃で穿たれた直径十メートルの穴の縁に、弩砲の車台が半壊した状態で転がっていた。弦は切れているが、射撃機構は生きている。もう一台、瓦礫の下から車輪だけが覗いていた。
「掘り出せ。弦は予備を張れ」
傭兵の弓兵たちが動いた。瓦礫を手で退け、弩砲を引きずり出す。ブレナンが自ら車台の下に潜り込み、背中で瓦礫を押し上げた。傭兵団長の腕の筋が膨れ上がり、歯を食いしばる顔が粉塵まみれになった。
十五分で弩砲二台を復旧させた。完全ではない。照準器は壊れている。けれど方向を合わせて撃つことはできる。
「東の丘陵、砲兵陣地構築地点に向けて射撃。当てる必要はない。あの周辺に矢を降らせて、構築作業を妨害しろ」
弩砲が放たれた。太い矢が夕暮れの空を切って飛んでいった。着弾点は見えない。しかし東の丘陵の稜線上で動いていた人影が、散り始めるのが見えた。帝国の工兵が弩砲の射線を嫌って退避している。
「もう一射。続けて撃て。矢がなくなるまで」
傭兵の弓兵たちも弓を引いた。弩砲の射程には及ばないが、丘陵の手前に矢を降らせて帝国の前進を牽制する。三十名の弓が一斉に弦を鳴らし、矢が風を裂いて弧を描いた。
帝国の砲兵陣地構築が止まった。工兵が退避し、資材が散乱している。しかしすぐに戻ってくるだろう。
弩砲を十二射。弓を六斉射。それで矢が尽きた。
「戻るぞ。壁の中に入れ」
傭兵たちが身を低くして砦に走った。帝国の歩兵が動き始めていたが、距離が二百メートル以上あった。追いつかれる前に東壁の裏門に滑り込んだ。最後に入ったのはブレナンだった。傭兵団長は門を閉める前に一度だけ振り返り、東の丘陵を見た。
「……陣地構築は止まってるな」
「一時間。これで日没に間に合う」
ゲルトの声は息切れしていたが、口の端が僅かに持ち上がっていた。
* * *
日没。
帝国は夕闘を仕掛けたが、暗がりの中での攻撃は精度を欠いた。梯子を壁にかける位置が乱れ、壁の上の正規兵が容易に押し返した。
砲兵陣地の構築は、ゲルトたちの妨害射撃で二時間以上遅れた。日没後に砲撃が再開されたが、夜間の照準は昼間ほど正確ではなく、着弾が壁から大きく外れた。
夜の帳が降り、帝国は再び三百メートル地点で野営に入った。
二日目の終わり。
砦は、まだ立っていた。
ゲルトは東壁の指揮所に座っていた。全身が軋んでいた。背中。肩。膝。指の関節。壁の外に出た時に瓦礫で擦った脛が、革の脚当ての下でじくじくと痛んだ。防具の肩当てには新しい傷がつき、胸当ての革が粉塵を吸って灰色に変わっていた。汗で肌に張りついた下着が、乾いた汗の塩で硬くなっている。
今日の死者、十九名。合計七十名。負傷者はさらに増えた。残存戦力は八百九十名を切っている。
明日の朝、帝国は砲兵陣地を完成させるだろう。東壁の亀裂が持つかどうか。
「副指揮官殿」
ヴォルフが指揮所に入ってきた。斥候の外套が砂埃にまみれ、火傷痕のある顔に疲労が刻まれていた。しかしその目に何かが光っていた。いつもの冷静さと違う、抑えた興奮。
「南西方向の監視哨から報告が入った」
「南西? 帝国は東だ。南西に何がある」
「松明の列だ」
ゲルトの手が止まった。
「距離十五キロ。南西の街道上を、こちらに向かって進軍している。隊列の先頭に——連合の軍旗が確認された」
空気が変わった。
指揮所の中の空気が、一瞬で張り詰めた。ゲルトは椅子から立ち上がった。膝の痛みを忘れた。
「先遣隊か」
「時期が合う。カストルム・フルミニスからの街道距離と進軍速度を計算すれば——深夜には砦に到着する」
ゲルトは指揮所の窓に歩み寄った。南西の空は暗い。星が幾つか瞬いている。松明の光は、この距離からは見えない。けれど来ている。確かに来ている。
胸の奥で何かが緩んだ。張り詰めていた弦が、一本だけ弛んだような感覚。目頭が熱くなりかけて、ゲルトは顎を引いた。
「トーマスを呼べ。それから——ガルシアとブレナン殿も。西門を開ける準備をしろ」
* * *
先遣隊が砦の西門に到着したのは、深夜の第二刻だった。
ゲルトは西門の前に立っていた。門の両側に魔導灯を灯し、道を照らした。門番の正規兵が横木を外し、分厚い木の扉がゆっくりと開いた。蝶番が錆びた音を立てた。
最初に見えたのは、馬の息だった。
白い息が暗闇の中に立ち昇っている。荷馬の鼻面が門の明かりに浮かび上がり、疲れ切った目が魔導灯の光を受けて鈍く光った。馬の脚は泥にまみれ、蹄鉄が石畳を叩く音が不規則だった。長い距離を急いで来たのだ。
馬の後ろから、兵士たちが現れた。
松明を掲げた先頭の士官が、連合の軍旗を片手に持っていた。旗は汚れていた。泥と汗の染みが布地に広がり、竿の先端が僅かに曲がっている。けれど旗に描かれた連合の紋章、交差した剣と盾は、松明の光の中で確かに輝いていた。
「カストルム・フルミニス先遣隊、二百名。ハロッドの暫定行動権限に基づき、砦の増援として参りました」
先頭の士官が敬礼した。若い。二十代半ばに見える。けれど声は安定していた。
「グリフォンズ・ネスト砦副指揮官、ゲルト。——よく来た」
ゲルトの声は短かった。しかしその言葉に込められた重さを、先遣隊の士官は感じ取ったようだった。敬礼の手が、僅かに震えた。
先遣隊が門をくぐった。
二百名の兵士が、一人ずつ門を通って砦の中庭に入ってきた。松明の明かりに照らされた顔は、どれも疲弊していた。カストルム・フルミニスから強行軍で来たのだ。革鎧に汗の塩が白く浮き、軍靴の底がすり減っている者もいた。それでも全員が武器を持ち、全員が立っていた。
中庭では、砦の兵士たちが先遣隊を迎えた。
最初は黙っていた。疲労が深すぎて声が出なかったのかもしれない。しかし先遣隊の兵士が一人、また一人と中庭に入るにつれて、壁際に座り込んでいた守備隊の兵士たちが立ち上がり始めた。
拍手が起きた。最初は一人。それから二人、三人。やがて中庭全体に広がった。大きな音ではなかった。手のひらが乾いて、まともに音が鳴らない者もいた。けれどその不揃いな拍手が、夜の砦に反響した。
ブレナンの傭兵たちも立ち上がった。弓を下ろし、拳を胸に当てた。正規兵の敬礼だ。形はまだぎこちなかったが、昨日よりも様になっていた。
トーマスがゲルトの隣に来た。この若い斥候の目が、僅かに潤んでいるのをゲルトは見た。けれど何も言わなかった。言う必要はなかった。
ヴォルフが先遣隊の士官と合流して、兵站の確認を始めた。先遣隊は弾薬と食糧も運んできていた。矢の補充。包帯と薬草。干し肉と黒パン。荷馬から降ろされた物資が中庭に積まれていく。
ガルシアが負傷者の搬送を手配し、先遣隊の衛生兵が砦の衛生班と合流した。新しい包帯が運び込まれ、薬草の匂いが中庭に漂った。乾いた戦場の空気の中に、その清涼な薬草の香りが異質なほど鮮明だった。
ゲルトは中庭の隅で、ブレナンと並んで立っていた。
傭兵団長が水筒を差し出した。ゲルトは受け取り、一口含んだ。冷たい水が、二日間の戦闘で焼けた喉を洗った。喉仏が動き、水が胸の奥まで降りていく感覚が、全身に広がった。
「助かった」
ブレナンの声は低かった。
「ああ」
「あんたの判断だったな。増援要請。俺なら——言われた通り『増援なし』を受け入れてた」
ゲルトは水筒をブレナンに返した。
「隊長なら、要請する前に増援の当てを三つ用意してただろう。俺にはそこまでの頭はない。だから——一つだけ、自分の声で頼んだ。それだけだ」
ブレナンは何も返さなかった。けれど水筒を受け取る時にゲルトの手に触れた。傭兵団長の手は荒れていた。弓弦の跡と、瓦礫で切った傷と、乾いた血のこびりつき。ゲルトの手と同じだ。
* * *
先遣隊の配置が完了するまでに二時間かかった。
その間、ゲルトは一人一人の配置を確認して回った。先遣隊の二百名を既存の防衛ラインに組み込み、交代要員として最も消耗の激しい東壁に優先配置した。二日間戦い続けた正規兵たちが、ようやく壁から降りて休息を取れる。
壁際で眠りに落ちる兵士たちの間を歩きながら、ゲルトは見た。
ヴォルフがトーマスの肩に手を置いている。若い斥候の肩には、いつの間にか布が巻かれていた。壁の上での白兵戦で、石の破片が当たったらしい。ヴォルフが古参の斥候らしい手つきで布を結び直し、トーマスが小さく礼を言った。
その隣では、傭兵の弓兵が正規兵に水筒を渡していた。正規兵が一口飲んで返すと、弓兵は自分も一口飲んだ。同じ水筒から。三日前には互いの名前も知らなかった二人が。
ゲルトは兵舎の前に立った。
砲撃の前の夜、手紙を書いていた若い正規兵がいた寝台を見た。寝台は空だった。毛布が畳まれて端に置かれている。あの兵士が今どこにいるのか、生きているのか死んでいるのか、ゲルトはまだ確認できていなかった。報告書に名前が並ぶのは、明日だ。
兵舎を出た。
中庭を横切り、東壁の階段を上がった。先遣隊の兵士が交代で見張りについている。新しい顔だ。疲弊してはいるが、壁の上に立った二日間の兵士たちほどではない。
「ありがとう——来てくれて」
ゲルトが声をかけると、先遣隊の若い兵士が目を見開いた。
「副指揮官殿。我々こそ——二日間、この砦を守り通したと聞きました。正直、間に合わないかと」
「間に合った。それでいい」
壁の縁に出た。
東の空に、帝国の野営地の灯りが並んでいる。明日もまた来る。けれど今日より少し、ほんの少しだけ、こちらの足場が固くなった。
風が吹いた。東から。戦場の匂いを運んでくる風だ。煤と、血と、砲火の残滓。けれどその風の中に、ほんの微かに雨の気配が混じっていた。湿った空気が頬に触れ、壁の石を冷やしていく。明日は雨かもしれない。雨なら、帝国の砲撃精度はさらに落ちる。
ゲルトは壁の縁に肘を置いた。
二日間、ここに立ち続けた。一日目は拳が震えていた。二日目は壁の外に出て弩砲を撃った。どちらの自分も、三日前には想像もできなかった自分だ。
バルカスの訓練が砦を守った。それは事実だ。前哨線の退却訓練。偽装工事。射撃訓練。全てが隊長の遺産だった。
けれど後退命令を出したのは自分だ。西壁の角に弩砲を移したのも。増援を要請したのも。壁の外に出て妨害射撃をしたのも。どれも隊長の命令書には書いていなかった。自分の頭で考え、自分の声で命じた。
「この砦を落とさせない」。
あの夜、ヴォルフに言った言葉が、今、事実になろうとしている。
バルカスの訓練のおかげだ。
けれど、それだけじゃない。
俺の判断も、あった。
ゲルトは壁から手を離し、深く息を吸い込んだ。夜の空気が肺の底まで届いた。冷たくて、少し湿っていて、硝煙の匂いがまだ残っていた。
「……隊長たちは今頃——」
声が漏れた。意図して出したのではなかった。
北東の空を見上げた。雲がかかっている。星は見えない。その雲の向こうに、バルカスがいる。カイがいる。セレスがいる。燐がいる。あの銀髪の少女がいる。
彼らが無事なのかどうか、ここからは分からない。分かるのは、自分がここにいて、砦が立っていて、千を超える人間がまだ息をしているということだけだ。
ゲルトは空から目を戻した。
壁の下で、先遣隊の兵士がトーマスと何か話している。トーマスが砦の見取り図を広げて、防衛配置を説明しているようだった。先遣隊の兵士が頷き、トーマスが射撃孔の方向を指さした。
明日が来る。帝国はまた来る。
それでもこの砦は陥ちない。
ゲルトは階段を降りた。軍靴が石段を踏む音が、砦の壁に反響した。硬い音だ。バルカスの靴音と同じ音。けれどその足取りはもう、隊長の影ではなかった。




