第3章-62話「追跡者たちの交差」
甲冑が鳴っていた。
歩くたびに、肩甲と胸甲の継ぎ目が軋む。二日前まではなかった音だった。白銀の板金の表面に走る擦過痕が、歩行の振動で微かに共鳴している。深紅の外套の裾は泥と砂で灰褐色に変わり、左の肩当てに刻まれた聖典のルーンが、乾いた土埃に半ば埋もれていた。
ゼルギウス・フォン・リヒトホーフェンは、丘陵の稜線に立った。
眼下に陣営が広がっていた。天幕が二十余り。深紅と漆黒の旗が、風に靡いている。聖罰騎士団の本隊、団長直轄の四十名と、捜索隊の一部が合流した六十名規模の野営地。馬の嘶きと、鍛冶の槌音と、兵糧を煮る鍋の匂いが、丘の上まで登ってきた。
獣脂と鉄錆の混じった、馴染みの匂いだった。
二日前のゼルギウスなら、あの匂いを嗅いだ瞬間に帰還の安堵を覚えたはずだった。甲冑を外し、従軍司祭の祈りを受け、聖水で手を清めて食事を取る。騎士としての日課に身を委ねれば、戦場の記憶は聖典の言葉の下に整頓される。いつもそうだった。
今は、匂いだけが届いて、安堵がなかった。
丘を下りた。足元の砂礫が甲冑の重みで沈む。二十五キロの全身鎧を着て二日間歩き続けた脚は、身体強化魔術の補助があっても重かった。膝の裏に、鎧下の布地が汗で貼りついている。
陣営の外縁に立つ歩哨が、ゼルギウスの姿を認めた。
「——聖騎士長どの」
声に驚きがあった。二日間、連絡が途絶えていた突撃隊長の帰還。歩哨の視線がゼルギウスの甲冑を走り、擦過痕と泥汚れを見て取った。しかし、それ以上は問わなかった。聖罰騎士団では、上官の行動について下位の者が質問することは教義に反する。
「団長はどちらに」
「本営の天幕です。二刻ほど前から、お一人で」
ゼルギウスは頷き、陣営の中央に向かった。天幕の間を抜ける。すれ違う騎士たちの視線を背中に感じた。目礼する者、立ち止まって道を空ける者。誰もが擦り傷だらけの白銀の甲冑を見ていた。聖炎の突撃隊長が、これほど損耗した姿で戻ったことは、ゼルギウスの記憶にも、おそらく彼らの記憶にもなかった。
本営の天幕は陣営の最奥にあった。他の天幕より一回り大きいが、装飾はない。深紅の布地に白い六芒星が一つ。入口の布が風に揺れ、内部の蝋燭の光が漏れていた。
天幕の前で足を止めた。
呼吸を整えようとして、整わなかった。胸甲の内側で、心臓が速い。甲冑の重量とは別の重みが、肩にのしかかっている。報告すべきことが胸の中にあった。それを言葉にすることは、二日間歩き続けても、まだ準備ができていなかった。
「入れ」
声が天幕の内側から聞こえた。ゼルギウスが立ち止まったことを、布越しに察したのだろう。低く、平坦な声。感情を削ぎ落とした声。ヴァルド・シュトライヒャーの声は、いつもそうだった。
天幕の布をめくり、中に入った。
蝋燭が三本。折り畳みの卓。木箱に腰を下ろした男の背中が見えた。銀髪が混じった短髪の後頭部。使い込まれた漆黒の甲冑の肩甲に、銀の線彫りで刻まれた聖典が、蝋燭の光を受けて微かに光っている。深紅の外套は脱いで卓の脇に畳まれ、金の肩飾りが蝋燭の炎に橙色の影を落としていた。
ヴァルドは振り返らなかった。
卓の上に紙が広げてあった。封蝋の痕跡が残る厚手の羊皮紙。書簡。ゼルギウスの位置からは文面は読めなかったが、下端に押された紫の封印は見覚えがあった。アステリア聖教の枢機卿印。グレゴリウスの書簡。
ヴァルドの右手が、その羊皮紙を掴んだ。
紙が鳴った。分厚い羊皮紙が、鋼のような指に握り潰される音。布を裂くでも紙を破るでもない、固い繊維が圧縮される鈍い音。ヴァルドの拳が羊皮紙を球状に丸め、卓の上に転がした。
「枢機卿閣下のお慈悲は、ありがたいことだ」
声に感情はなかった。皮肉ですらなかった。ただ事実を述べているような平坦さ。しかし、握り潰された羊皮紙が卓の上で転がり止まった時、ゼルギウスはヴァルドの背中の筋肉が一瞬だけ強張ったのを見た。
ヴァルドが振り返った。
左頬の古い刀傷が、蝋燭の光で深い影を落としている。灰色がかった瞳がゼルギウスを射た。甲冑の汚れ、擦過痕、泥に汚れた外套。団長の視線はそれらを一瞬で読み取り、しかし問い質す前にゼルギウスの目を見た。
沈黙があった。
「座れ」
ヴァルドが木箱をもう一つ引き寄せた。ゼルギウスは従った。甲冑が木箱に当たり、硬い音を立てた。座ると、二日間張り詰めていた脚の筋肉が弛緩し、膝の裏に鋭い痺れが走った。
「遺跡で何があった」
前置きはなかった。ヴァルドという男は、前置きを必要としない。二日間の不在と、損耗した甲冑と、ゼルギウスの目の中にあるものを見て、既に事態の深刻さを読み取っている。
ゼルギウスは口を開いた。
「遺跡にて、クレイグ少佐の部隊と接触しました。少佐は独自の判断で燐のパーティと接触しており、遺跡内部で戦闘が発生していました」
報告の形式は、体に染みついている。事実を時系列に並べ、感情を排除し、結論を先に述べる。聖罰騎士団の報告規定。ゼルギウスはそれに従った。けれど。
「対象を確認しました。燐・アッシュ。随伴する少女。前衛二名、後方支援一名を含む六名前後のパーティ。戦闘能力は……事前の情報を上回っていました」
ここまでは、言葉が出た。
「私は聖典の教えに従い、浄化を試みました。聖炎を——」
声が詰まった。
詰まった、ということに、ゼルギウス自身が驚いた。報告の途中で言葉を失うことは、訓練を受けて以来一度もなかった。声帯が動かなかったのではない。喉の奥で、言葉が形を失った。
ヴァルドの灰色の瞳が、ゼルギウスを見つめていた。促しもしなければ、問いもしなかった。ただ見ていた。
ゼルギウスは拳を握った。甲冑の篭手の内側で、指先が掌に食い込んだ。
「聖炎が——届きませんでした」
声が、震えた。
自分でも聞き取れるほどの震え。聖炎の突撃隊長の声が、天幕の中で揺れた。蝋燭の炎が風もないのに一瞬だけ傾いだ。
「少女に向けて、全力の聖炎を放ちました。石を溶解させ、大地を焼き払うほどの出力でした。ですが——」
言葉を選ぼうとして、選べなかった。何と言えばいいのか。聖炎が少女の掌の前で消滅した。跡形もなく。音もなく。神の怒りが、子供の手に拒絶された。
「——少女の前で、消えました。霧散したのではありません。減衰したのでもありません。触れた瞬間に、存在しなくなりました。火傷の痕すら残りませんでした」
ヴァルドの表情は変わらなかった。
変わらなかったように見えた。しかし、ゼルギウスは団長の喉仏が一度だけ上下したのを見た。嚥下の動き。言葉を飲み込んだのか、あるいは何か別のものを飲み下したのか。
「……続けろ」
低い声だった。ゼルギウスは唾を飲み、続けた。唇が乾いていた。舌先で唇の内側を湿らせたが、唾液が足りなかった。
「少女の周囲で、異常な現象が発生しました。地面に放射状の亀裂、石柱の共鳴、大気の変化。聖炎の消滅を起点に、少女の力が制御を超えて膨張したと……。その規模は……」
言葉を探した。戦術級。違う。戦略級。それも足りない。聖典の分類体系では、魔力の規模は「個人級」「戦術級」「戦略級」の三段階に分けられる。あの時目にしたものは、その三段階の上に名前のない領域を作っていた。
「——戦略級を超えていました。私の知る分類では、表現できません」
ヴァルドの右手の指が、膝の上で一度だけ動いた。拳を握りかけ、やめた。あるいは、握り込んだ拳を意志の力で開いたのかもしれなかった。
沈黙が天幕を満たした。蝋燭の蝋が溶け落ちる微かな音だけが、空気を揺らしていた。
「あれは……」
ゼルギウスの唇が動いた。報告の形式を逸脱していた。それでも止められなかった。
「あれは……私が知るいかなる魔術とも異なりました。闇の眷属の力とも違います。聖典の穢れの形態のどれにも該当しない。団長、あの少女は——」
「ゼルギウス」
ヴァルドの声が遮った。低く、硬い。けれど怒りではなかった。
「お前は、自分の目で見たのだな」
問いの形をしていたが、確認だった。ゼルギウスは頷いた。
「見ました」
「ならば」ヴァルドが立ち上がった。木箱が後ろに押され、砂の上で擦れた。「俺も、この目で確かめる」
卓の上で、ゼルギウスの報告を聞きながら書きかけていた書簡が放置されていた。枢機卿グレゴリウスへの報告書。聖炎が効かなかった件について、教義上の見解を求める内容だった。しかしヴァルドはその書簡に目を戻さなかった。
「枢機卿閣下に報告を上げる。だが、教義の解釈を待ってから動くつもりはない」
ヴァルドが言った。背中をゼルギウスに向けたまま。天幕の布の隙間から差し込む夕暮れの光が、団長の銀髪を赤く染めていた。
「閣下は、見ていない」
それだけだった。ヴァルドはそれ以上語らなかった。しかし、ゼルギウスには充分だった。教義の解釈を待たない理由は、政治的な駆け引きでも反抗でもない。見ていない者の言葉で、見た者が判断を曲げるわけにはいかない。それだけのことだった。
ヴァルドが天幕の出口に向かった。布をめくり、夕暮れの光が差し込んだ。
「明朝、南西に進軍する。遺跡方面ではなく、逃走経路を追う」
命令の声だった。団長の声。感情を削ぎ落とした、いつもの声。
その背中が天幕を出る直前、ゼルギウスはヴァルドの右手を見た。深紅の外套を取り上げた右手。その指が、外套の裏地に一瞬だけ触れた。何かを確かめるように。あるいは、何かに語りかけるように。
指はすぐに離れた。ヴァルドは外套を肩に羽織り、天幕を出た。
残されたゼルギウスの前で、蝋燭が三本とも揺れた。天幕の入口から流れ込んだ風が、蝋の匂いを押し流し、代わりに夕暮れの乾いた空気を運んできた。遠くで馬が嘶いた。
ゼルギウスは両手を見下ろした。篭手に覆われた手。この手から、聖炎を放った。石を溶かし、大地を焼いた炎を。
それが——子供の掌に、消された。
蝋燭の炎が小さく爆ぜ、蝋の一滴が卓の上に落ちた。
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遺跡は死んでいた。
カゲツがポルタ・ルイナの外壁に到達したのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。砂岩の断層が幾重にも折り重なった岩壁は、遠くから見た時と変わらない。赤い石の壁面に、風化した浮き彫りの装飾がかろうじて残っている。
しかし壁の内側は、変わっていた。
外壁の崩れた箇所から盆地の内部に入った。足元の地面が、黒く変色していた。焼けていた。砂岩が高温にさらされた時に生じる黒い釉薬のような光沢が、地表の石に薄く被膜を作っている。靴底で踏むと、ガラスに似た硬い感触が足裏に伝わった。
カゲツは身を低くしたまま、盆地の縁に沿って移動した。フードの下から灰色の目だけが、眼下の光景を捉えている。
石柱が折れていた。
盆地の中央に林立していたはずの石柱群のうち、三分の一以上が根元から倒壊していた。折れた断面が新しい。風化ではなく、力による破壊。倒れた石柱の表面に、溶解痕がある。高温の何かが触れて石を溶かし、不規則な凹凸を作っている。聖炎。カゲツの知識にある情報と一致した。聖罰騎士団が使用する対魔族特効の炎。
それだけでは説明がつかない痕跡があった。
盆地の中央部、半径三十メートルほどの範囲で、地面が放射状に亀裂を走らせていた。亀裂の深さは二十センチ以上。断面から覗く地層が変色し、赤い砂岩の本来の色を失って灰白色に変わっている。熱ではない。化学的な変質でもない。カゲツの訓練で学んだ知識のどこにも、この種の地質変化の説明はなかった。
外套の内側から金属板を取り出した。掌に載せ、脳内魔法式を起動する。こめかみの奥に針の圧迫感。金属板の表面に意識を沈めた。
——温度が、跳ねた。
指先が金属板から離れそうになるほどの、急激な温度上昇。マナの残留痕跡が二日経過してなおこの密度ということは、発生時の出力は、カゲツが扱える感知能力の測定上限を超えている。
二種類の痕跡があった。
一つは、聖炎。高温で直線的なマナ痕跡。攻撃型の魔術に共通する指向性の残滓。これは既知の範囲だった。聖罰騎士団の術式体系から逸脱していない。出力は規格外だが性質そのものは理解できる。
もう一つは、理解できなかった。
金属板が拾い上げたマナ痕跡は、方向性を持っていなかった。攻撃でも防御でもない。指向性がない。放射状に、あるいは全方位に均等に広がっている。膨張。力の膨張。何かが内側から溢れ出し、制御を失って拡散した痕跡。
カゲツは金属板を傾け、方角を読んだ。マナ痕跡の密度が最も高いのは盆地の中央。放射状の亀裂の中心点。そこに何かがいた。二日前に。
少女。
ジュードが語った、笑っていた少女。燐と手をつないで歩いていた子供。ゲンゾウの指示書に「未知・要注意」と記された対象。
風が変わった。盆地の外縁を越えた瞬間から、空気の質が違う。乾いた荒野の空気に混じって、焼けた石の匂い。鍛冶場の炉の近くで嗅ぐような、鉱物が高温で変質した時の鋭い匂いが鼻腔の奥を刺した。二日経ってもなお、大気中に残滓が漂っている。
地面に手をついた。指先に伝わる岩の感触が、妙にぬるかった。日光で温められただけの温度ではない。岩そのものが内部に熱を蓄えている。二日前の戦闘の残熱が、地質の深層にまで浸透していた。
カゲツは盆地の中央に降りた。亀裂の中心点に膝をつき、金属板を地面に近づけた。板の温度が更に上がった。指先が熱い。だが離さなかった。脳内魔法式の出力を上げ、残留痕跡の細部を読み取ろうとした。
痕跡の中心点に、空白があった。
マナ残留痕跡が、ある一点を避けるように広がっていた。盆地全体に戦略級の密度で残留痕跡が散布されているのに、直径二メートルほどの円形の領域だけが、何もなかった。焼却痕もない。変色もない。亀裂すらない。周囲が破壊と変質に覆われている中で、その場所だけが元の地面のまま残っている。
少女がいた場所だ。
カゲツの指が金属板の上で止まった。五日前にこの盆地で計測した残留痕跡は、戦略級に匹敵していた。この痕跡は二日前のもので、数値化する意味がなかった。戦略級を超えている。超えている、という言い方すら正確ではない。カゲツが知るマナの測定体系の、最上位の分類の外にある。
金属板を革袋に戻した。指先に残る熱を、外套の布で拭う。
立ち上がり、盆地を横断した。南西方向に、複数人の足跡が残っていた。砂の上に刻まれた靴底の痕跡は風で半ば消えかけているが、残留マナの流れから移動方向を特定できる。南西。
六人前後。燐のパーティ。二日前に盆地を出て、南西に向かった。
カゲツは盆地の南端に立ち、南西の空を見た。丘陵が連なり、その向こうに低い山脈の稜線が霞んでいる。パーティの移動速度と二日間の距離を計算すると、追いつくまでにまだ三日はかかる。あるいはそれ以上。
外套の内側から、折り畳まれた報告用紙を取り出した。鉄筆とインク壺。紙を膝の上に広げ、筆先にインクを含ませた。松脂と鉄粉の匂いが、遺跡の鉱物臭に混じった。
日付。第4月9日。現在地。ポルタ・ルイナ遺跡圏内。
「対象の戦闘痕跡を確認。盆地中央部に戦略級を超える規模のマナ残留痕跡。聖罰騎士団の聖炎痕跡と、未知の術式の痕跡が混在。対象は二日前に南西方向に脱出。追跡を継続する」
筆が止まった。
報告書には、書かなかった。
盆地の中央の空白。少女がいた場所に、マナ痕跡がなかったこと。周囲が戦略級の力で破壊されている中で、少女の足元だけが無傷だったこと。それは力の暴走ではなく、少女を中心にした何らかの法則が働いていたことを示唆している。
しかし、その分析を報告書に記載する言葉を、カゲツは持っていなかった。御名方の暗号体系には、「理解できない現象」を記述する符号がない。全ての現象は分類され、符号化され、報告される。分類できないものは、存在しないことになる。
笑っていた。
ジュードの声が、また脳裏を過った。
あの少女が笑っていた場所と、この戦略級を超えるマナ痕跡を残した場所が、同一人物。手をつないで歩き、笑っていた子供が、石柱を倒し、大地を割り、聖炎を消滅させた。
カゲツの灰色の目が、盆地の中央の空白を見つめていた。
理解できない。
その言葉が浮かんだ時、カゲツの中で、五日前に盆地で痕跡を測った時と同じ違和感が、肋骨の内側に生まれた。理解できないことは、これまでもあった。しかし、理解できないことが気にかかるということは、なかった。理解できなければ報告し、判断はゲンゾウに委ねればいい。道具は理解を必要としない。
それでも。
筆を動かした。
「追跡を継続する。南西方向。推定追跡距離は三日以上」
報告書を乾かし、折り畳んだ。次の送達地点まで、半日の距離。
立ち上がり、遺跡を背にして南西に向かった。足音を消す歩法で、赤い砂礫の上を進む。外套の下で短刀の柄が腰骨に当たる硬い感触。金属板が革袋の中でまだ微かに温かい。二日前の痕跡の残熱が、まだ消えていない。
盆地の外縁を越えた時、振り返った。
ポルタ・ルイナの石柱群が、西日を受けて長い影を落としている。倒壊した柱と、まだ立っている柱が入り混じり、傷だらけの巨人の肋骨のように見えた。赤い岩壁が夕暮れの光を受けて燃えるように輝いている。
あの盆地の中央で笑っていた少女と、石柱を倒した少女が同じ存在だという事実が、カゲツの情報処理体系の中で、未だに正しい位置に収まらなかった。
背を向けた。南西に向かって歩き出した。
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夜だった。
陣営の篝火が、暗闇の中に橙色の島を作っている。乾いた薪が爆ぜ、火の粉が低く舞い上がっては風に吹かれて消えた。夜気が冷たい。甲冑を脱いだ身体に、鎧下の亜麻布だけでは足りないほどの寒さだった。
ゼルギウスは陣営の外れに座っていた。篝火からは十歩ほど離れている。明かりの輪の境界線上。背後の闇と、前方の炎の光の間。
右手を、開いた。
掌を上に向け、意識を集中した。魔術式の基盤を構築し、その上に信仰を重ねる。聖典の教え。神の怒り。穢れを焼き払う浄化の炎。聖炎の発動手順は、何百回と繰り返した所作だった。
掌の上に、炎が灯った。
青白い光が指先から立ち上り、掌の空間に留まった。しかし。
揺れていた。
炎の輪郭が定まらなかった。青白い光が左右に振れ、一瞬だけ強くなったかと思えば次の瞬間には萎み、明滅を繰り返した。蝋燭の炎が風に煽られるように。しかし風はなかった。空気は静かだった。揺れているのは、炎ではなく、炎を支えるものだった。
ゼルギウスは掌を閉じた。炎が消えた。
指先に、微かな熱が残っている。しかし、それはいつもの聖炎の残熱とは違っていた。温かいのではなく、生ぬるかった。信仰の温度が下がっている。そう思った瞬間、自分がそう思ったことに気づいて、ゼルギウスの指が震えた。
あの日。遺跡の荒れ地で。
記憶が呼ばれもしないのに浮かんだ。子供の掌。銀色の髪。風もないのに逆立った髪。白いローブの裾が光り始めた瞬間。そして全力の聖炎が、その掌の前で消滅した瞬間。
音がなかった。あの時。
聖炎が石を溶かす時の爆裂音も、大気を灼く金属音も、何もなかった。光が一点に到達して、消えた。最初からそこに炎が存在しなかったかのように。
聖炎は神の怒りだった。聖典にそう書かれている。穢れを焼き払う聖なる浄化の炎。闇の眷属を滅ぼすために神が人に与えた武器。ゼルギウスはそれを信じていた。信じることが、炎を生む力そのものだった。
だが、あの子供の前で、神の怒りは消えた。
拒絶された。
ゼルギウスの両手が膝の上で握り締められた。鎧下の布地越しに、爪が膝頭に食い込んだ。
夜空を見上げた。
星が出ていた。荒野の空は澄み、頭上に星の帯が東から西に流れている。篝火の橙色の光が届かない高さで、星々が冷たく瞬いていた。
西の空の低い位置に、一つだけ明るい星があった。他の星よりも白く、静かに光っている。山脈の稜線のすぐ上。あの山の向こうに、遺跡から南西に逃れた者たちがいる。
あの少女が、いる。
「あの少女の力……」
声は、自分のものだった。低く、掠れた。誰にも聞かせるためではない声。
「あれは本当に——『闇』なのか」
聖典は言う。闇は光の不在であり、穢れは神の恩寵の届かぬ領域に生まれると。聖炎が闇を焼くのは、光が闇を駆逐する理だと。
しかしあの時、ゼルギウスの目が捉えたものは、闇ではなかった。少女の掌の前で聖炎が消えた瞬間、そこにあったのは闇の反対のものだった。光でもなかった。言葉にならなかった。けれど、闇ではなかった。
西の星が瞬いた。
ゼルギウスは膝の上の拳を見下ろした。聖炎を灯せなくなったわけではない。揺れているだけだ。まだ燃えている。それでも、揺れている。
篝火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、夜風に流されて西へ飛んだ。赤い光の粒が闇の中を漂い、やがて一つずつ消えていった。
ゼルギウスの視線が、火の粉の消えた先を追っていた。西の空。低い星。山脈の稜線。
あの先に。
少女がいる。
笑っているのか、泣いているのか、それとも、あの時のように、怒りに満ちた金色の瞳で何かを拒絶しているのか。ゼルギウスには分からなかった。分からないということ自体が、二日前までの自分にはあり得なかった。聖典が答えを持たない問いは存在しない。そう信じていた。
今は、問いだけがあった。
答えを持たない問いが、胸甲を脱いだ胸の中で、篝火の残り火のように燻っていた。
西の星が、静かに光っている。夜気が冷たかった。ゼルギウスの吐く息が白い蒸気になり、暗い空に溶けて消えた。
遠くで、歩哨の交代を告げる低い声が聞こえた。篝火の向こうで、誰かが毛布にくるまって寝返りを打った。騎士団の夜が、いつもと同じように過ぎていく。
それでもゼルギウスの目は、西の空から離れなかった。




