一章V 『雪獄、氷獄、揺れ動く』
絶望か、驚きか、自分にもわからなかった。
いや、それら全てだったかもしれない。
「規模が違うじゃないか――!」
一軒家程の高さのある氷塊が、地面から五から六本程突き出てきた。氷魔法なのは一目見ればわかる。
だが、敵が何処から見て、来て、攻撃しているのかはわからない。
「この氷……どこから……!?」
目を高速で泳がせ、辺りをすぐさま見渡した。
東西南北、四方八方全てを見渡した。足下もない、ならば残るは――。
「上――ッ!!」
目の前を、上から下に何かが通過し、直後、重々しく、身体全体に恐怖を感じさせる振動と轟音が鳴り響いた。
突き出た氷は割れ、雪は辺りに散らばり、一瞬雪の衣が剥がれた、裸の地面が見えた気がした。
僕は、慄いた。
「デカすぎる……」
巨大な猿?ゴリラか?雪男という線もある。
とにかく、通常の数倍はある大きさの霊長類が、目の前に現れた。
体が固まった。
あれと戦うのはあまりにも無謀ではないか……?何が練習だ、身の程を知れ――と、自分を叱責したい。
後ろを振り返ってみるが、否、逃げられるわけがない。
ここまで来てしまったのだ。もう既に、お互いに敵と見なしている。
ナイフを構え、精神を研ぎ澄ます。
寒さは、早くなった鼓動のせいか、とうに忘れていた。
「成長の糧……だ」
「ゴアアアアアアア゙!!」
咆哮が、二者にとっての開戦のゴングとなり、僕は走り出した。
またもや地面が揺れている。
氷魔法だ。ならば簡単。突き出ると同時に、少し上の高さまで跳躍すれば良い。
「読み通り……!」
策がストレートで通じると快感を覚える。が、たかが回避だ、小さな通過点にすぎない。
突き出て来た氷塊をピョンピョンと乗り継いで、あの猿へと向かう。
「待て……!あいつ――!」
身体能力も化け物級だった。七から八メートル程はあるだろう巨体で、人間サイズである朧と同じぐらいかそれ以上のスピードで動いている。
猿の方も、同じ高さまで跳び上がり、まっすぐと鬼の形相で向かってきた。それも、尋常でないスピードで。泣く子は黙るどころか魂が抜けるだろう。
「ぐっ――ガッ……!」
ナイフで受け流そうにも、自分の体くらいある拳を受け止められるはずもなく、パンチが直撃する。
「くっ……そ、参ったな……」
紙飛行機を飛ばすように軽々と飛ばされ、そのまま地面に落ちた。
ギリギリ意識は保てている。
だが、追撃が来る。
両手を握りしめて腕をハンマーの様に利用し、振り下ろす。
寸前で避けることができ、直ぐに反撃の準備をする。だが、脳も体もフラフラする。
地面はまた揺れている。氷が突き出て来るよりも速く、そして、足下に忍び込み動きを封じることが理想だ。
ボヤける意識を振り払い、足を強く踏み出す。
「行くぞ――【遠雷の罵倒】!!」
瞬速で相手の足下に辿り着き、即座にアキレス腱に斬撃を叩き込む。
ただ、想像以上に皮膚が固い。かすり傷程度のダメージは与えられたが、効果はかなり薄い方だ。
目で追った猿は、すぐに僕の方を向き、攻撃の体勢をとっている。
足払いか?拳を振り下ろすか?
いずれにせよ、まだ避けられる。
「なんだ、次は……?」
しかし、予想はいずれも外れており、猿は突然、空高くへ跳躍した。それと同時に、地面から突き出ていた氷塊も上空へ発射し、猿の周りを囲った。
「な、なんだ?」
そして猿は急降下を初め、拳を振り下ろしてくる。
「なんだ、ハンマーか……!」
猿の着地と同時に拳を避け、カウンターを放つ。
「後悔しろ、その無駄な挙動……!【静炎の……」
残念ながら――後悔したのは、僕だ。
「はぁ……?!」
猿の周りを囲っていた氷塊は突如向きを変え、氷柱の様に全て落ちてくる。
大きすぎる。
なんとか間を縫って避けようと動き回ったが、抵抗も空しく当たってしまう。
「ガハッ……」
高威力、高速度だ。
致命傷であった。
喀血し、腰辺りから出血をして、その場に倒れ込んだ。
痛い、少しだが欠損した。
(あれは……無理だろ……。あーあ、この出血量は流石にお陀仏か……?)
意識は少しずつ遠ざかるばかりである。
(あいつは……攻撃を止めたか?取って食う訳ではないのか。ちっ……眠くなってきたね……)
この気温だ、生命活動を終えるのも早いだろう。
(ごめん、ルクス……救世主はいないようだ……)
やはり、頼む人間を間違っていたのだ。
賽の河原に向かおうと思ったその時であった。
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『今日もありがとうね。たまには私がやっても良いのよ?』
なんだ?走馬灯か?
『うるさいな。二十年間の借りは返したいんだ』
『そう?誰に似たのかしら?』
そんなことを言っていたのか。
少し恥ずかしい。
『料理の腕はイマイチだけどね。真似てみてもどうも上手くいかないや』
『え〜?美味しいわよ?』
『僕が産まれて二十年、よく出来たよね。仕事と家事の両立』
『貴方だってやっているじゃない』
『まだ二、三年だろ?この時点でも、結構疲れるよ』
『だから私が家事するって言ったじゃない』
『だめだ、母親の体を労れないほど親不孝じゃないんだよ、僕は』
母さんだったか……。
そういえば話せていなかった。
僕の母親は、僕が中学校を卒業した辺りで、過労によって身体を悪くし、労働が困難な状況に陥っていた。
父親は僕が物心ついた頃に、既に亡くなっており、殆どの人生を母子家庭で過ごした。幸い、母方の祖母や父親の遺族が気を利かせてくれて、経済的困難になりはしなかった。
流石にもう会えやしないけど、今会ったら僕のことをなんて言うだろう。
いや、どちらにせよこれは走馬灯なのだ。ならば会う会わないの問題ではないか。
というか、何の因果で母親の走馬灯なんて……。
ああ、この世界で死んだらどうなるのかな。
あの世は変わっているのかな?
『なあ、母さん』
『あら、どうしたの?』
『いつか忘れたけど、銀行員になりたいって言ったよね?』
『そうねぇ。結構最近よ?』
職に就く前の話か。
二十歳の時だから、まだ安定していない頃だね。
『やっぱり、やめるよ』
『……』
大学にはしっかり行っていて、とにかく勉強していた気がする。大学ではゼロと言っていいほど人と関わっていない。
『こんな風に不器用だし、なんせ、人と話すのには向いていない』
『いいのよ、好きにして。貴方の人生は貴方のものだから』
うわぁ……年甲斐もなくネガティブで幼稚な相談だ。いい歳して、母親になんて事を……。
『すまない。収入は安定させときたかったんだけど……』
『でもね、貴方のものを良くすることは、させてもらう』
『……え?』
僕の母親は、口調に反して意外と厳しかった。
それが優しさから来るものだということはわかっており、苦しくも何ともなかった。
『まだ時間はたっぷりある訳でしょう?なら、私は諦めて欲しくはない』
『あるって言ってもな……』
二十歳は……ほぼ三年生か。就活を始めようという時期だろうか。
『あら、ここにいる貴方の母親は諦めていないじゃない。こうやって生きているんだから』
『じゃあ、どうしろと……』
『好きなことをしなさい。でも、途中で辞めることは私が嫌でも阻止するわ』
『阻止……』
『貴方が一番最初にやりたいと思ったもの、例え狙いが収入だとしても、私には貴方の天職に思えるの』
『はぁ……?』
事実、事務的な対話で言えば苦ではなかったし、単なる事務作業やその他諸々のタスクも、自分にとっては難しくないものばかりで、やりがいはあった。
『貴方の好きな物になり得るもの、それを失わせる訳にはいかないわね』
『母さん……』
『だから、家事は分担にしましょう?貴方の自由時間を大事にするべき。私よりも貴方の方が、後先は長いのだし』
『そう言われると、敵わないな……。お言葉に甘えるとするよ』
自分にとっては見たくも聞きたくもない羞恥的な話だ。
でも、そうか、そうだな。
思えば、僕が唯一、『人を助けたい』と自主的に思った時だった。その意思を体現するのは下手で、このように自分の身を削るようなことしかできなかった訳だが。
うん、これなんだろうな。
――本当に、嫌でも阻止するんだな。
世界を戻せば会えるのだろうか。
僕が、この世界を、また創り変えれば有り得るだろうか。
その可能性があるなら、僕は――。
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「ああ……」
長く不快な夢だった。
○技解説
【遠雷の罵倒】:『えんらいのオビウルカーティオ』と読む。足を踏み出した方向に、瞬足で一直線に向かい、渾身の斬撃を一発放つ技。直線での移動距離、速度は優秀。攻撃面はちょっと微妙。




