絵本
二人は樹の根元へ戻った。
王子が絵本を開く。
最初の頁には、一人の魔法使いが描かれていた。
黒い外套。
顔は塗り潰されている。
周囲には、糸で吊られた人々。
『むかしむかし、あるところに、とても悪い魔法使いがいました』
王子は声に出して読んだ。
『魔法使いは、誰よりも強い力を持っていました。火も、水も、風も、空も、魔法使いの言うことを聞きました』
頁をめくる。
悪い魔法使いが指を振っている。
町の人々は、全員同じ笑顔で踊っていた。
『けれど、悪い魔法使いは、それだけでは満足しませんでした』
『人々の身体を動かし、心を変え、国中の者を自分の人形にしてしまったのです』
王子の指が止まった。
城の使用人たちを思い出した。
同じ笑顔。
同じ声。
同じ歩幅。
「どうしました?」
ヨシュアが尋ねる。
「何でもない」
頁をめくった。
『悪い魔法使いは、人々が苦しんでいることに気づきませんでした』
『皆が笑っているので、幸せなのだと思っていたのです』
王子は隣を見た。
ヨシュアは絵本を見つめている。
いつもと変わらない穏やかな表情だった。
「似てるね」
王子が言う。
「何がですか?」
「ヨシュアの魔法に」
「そうでしょうか」
「人を笑わせるところ」
「あの方々は、テオを悲しませましたから」
「うん」
「私は、テオに笑ってほしかっただけです」
「わかってる」
王子はヨシュアの肩へ寄りかかった。
白い髪が頬へ触れる。
「ヨシュアは、悪い魔法使いじゃないよ」
「どうして、そう思うのですか?」
「僕を助けてくれたから」
ヨシュアは答えなかった。
王子の頭へ頬を寄せる。
「続きを読みましょうか」
「うん」
今度は、ヨシュアが絵本を受け取った。
朗読する声が、静かな図書室へ響く。
『その国には、よい魔法使いも住んでいました』
頁の中に、白い衣を着た魔法使いが現れる。
胸元には鈴の形をした飾り。
『よい魔法使いは、悪い魔法使いへ言いました』
『人の心は、その人だけのものです。あなたが勝手に変えてはいけません』
『けれど、悪い魔法使いには、その言葉の意味がわかりませんでした』
黒い魔法使いは首を傾げている。
『皆が笑っているのに、何が悪いのですか』
『皆が私を好きなら、誰も悲しまないでしょう』
『よい魔法使いは、悪い魔法使いと戦いました』
頁いっぱいに、光が描かれている。
白と黒。
星。
炎。
割れた城。
倒れる人々。
『戦いは七日と七晩続きました』
『最後に、よい魔法使いは自分の命を削り、悪い魔法使いを石の中へ封じました』
次の頁には、大きな石碑が描かれていた。
上から、小さな銀の鈴がぶら下がっている。
王子の身体が強張った。
「これ」
「どうしました?」
「知ってる」
鈴。
石碑。
あの日、城の奥で見つけたものと同じだった。
か細い音に呼ばれ、幼い手を伸ばした。
触れた瞬間、世界が暗くなった。
黒いもやが飛び出した。
母が倒れた。
「テオ」
ヨシュアの腕が肩へ回る。
「読むのをやめますか?」
王子は頁を見つめた。
石碑の絵。
封じられた悪い魔法使い。
「母上を殺した魔法使いの話かな」
「似ていますね」
「同じ鈴だ」
「昔の出来事をもとにした絵本なのかもしれません」
王子は自分の胸元を掴んだ。
布の下で心臓が速く打っている。
「やめましょう」
ヨシュアが本を閉じようとする。
王子はその手を押さえた。
「最後まで読む」
「無理をしなくても」
「知りたい」
ヨシュアはしばらく黙っていた。
やがて、閉じかけた絵本を開く。
『よい魔法使いは、鈴へ最後の魔法をかけました』
『心の清らかな者には、この音が聞こえるでしょう』
『けれど、決して鈴に触れてはいけません』
『悪い魔法使いが、再び世界へ戻ってきてしまうからです』
王子は唇を噛んだ。
心の清らかな者。
自分には、音が聞こえた。
それでも鈴へ触れた。
悪い魔法使いを解き放った。
「僕は、清らかだったのかな」
「もちろんです」
「でも、封印を解いた」
「子供だったのでしょう?」
「六歳だった」
「ならば、悪いのは子供の手が届く場所へ鈴を置いた方です」
ヨシュアは当然のように言った。
「テオは何も悪くありません」
「母上は死んだ」
「あなたが殺したのではありません」
「それでも」
王子は目を閉じた。
ヨシュアの肩へ、さらに身体を預ける。
白い腕が背中を抱く。
ゆっくりと撫でられた。
「僕が鈴に触れなければ、ヨシュアにも会わなかった」
「そうですね」
「それは、嫌だ」
自分でも、ひどいことを言っていると思った。
母が生きている過去と。
ヨシュアに会えた現在。
どちらかを選べと言われても、もう答えられない。
「ごめんなさい、母上」
小さく呟く。
ヨシュアは何も言わなかった。
ただ背中を撫で続けていた。
やがて呼吸が落ち着く。
「最後を、読んで」
王子が頼む。
ヨシュアは絵本へ目を戻した。
『こうして、悪い魔法使いは永遠に封じられました』
『人々は自分の心を取り戻し、国には笑顔が戻りました』
『本当の笑顔です』
『よい魔法使いの子供たちは、鈴を守り続けました』
『悪い魔法使いが、二度と目を覚まさないように』
最後の挿絵には、明るい町が描かれていた。
人々は、それぞれ違う顔で笑っている。
泣いている者も。
怒っている者も。
誰かと手を繋ぐ者もいた。
絵本の悪い魔法使いは、どこにもいない。
「終わり?」
王子が尋ねる。
「そのようですね」
「よい魔法使いは、死んだの?」
「命を削ったとありますから」
「悪い魔法使いは、ずっと一人で石の中に?」
「ええ」
「永遠に?」
「きっと」
王子は最後の頁を見つめた。
「少し、かわいそうだね」
「悪い魔法使いが?」
「うん」
「大勢を人形にしたのですよ」
「それでも、永遠は長すぎる」
ヨシュアの肩から顔を上げる。
「ヨシュアが言ってた。百年も千年も、よくわからないって。でも、ずっと一人だったら、きっと長いよ」
ヨシュアは王子を見た。
「テオなら、どうしますか?」
「何を?」
「悪い魔法使いを見つけたら」
金色の瞳が、近くにある。
試すような色はなかった。
ただ、答えを待っている。
「鈴には触らない」
王子は言った。
「母上のことがあるから」
「そうですね」
「でも」
絵本の最後の頁へ触れる。
人々が笑う町。
誰にも見えない、石の中の魔法使い。
「話くらいは、聞くかもしれない」
「どうして?」
「本当に悪い魔法使いなのか、本人に聞かないとわからないから」
ヨシュアは目を細めた。
「お優しいですね」
「ヨシュアが、そうしたから」
「私が?」
「皆が悪魔の子だと言っても、ヨシュアだけは僕に会いに来た」
王子は再び、白い肩へ寄りかかった。
「だから僕も、そうするかもしれない」
「そうですか」
ヨシュアの声は、ひどく静かだった。
紙の葉が囁く。
古い図書室に、二人しかいない。
王子は少し眠くなっていた。
朝から歩き続け、何冊もの本を読んだ。
それに、絵本のせいで昔のことを思い出しすぎた。
「眠ってもいい?」
「どうぞ」
「帰らないで」
「どこにも行きませんよ」
ヨシュアの膝へ頭を預ける。
白い指が青い髪を撫でた。
「おやすみ、ヨシュア」
「おやすみなさい、テオ」
王子は目を閉じた。
すぐに寝息が聞こえ始める。
ヨシュアはしばらく、その顔を見つめていた。
やがて片手で絵本を持ち上げる。
王子が最後だと思った頁を、静かにめくった。
厚い紙が、音を立てた。
物語は、まだ終わっていなかった。




