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魔法使いの王子様  作者: はちもく


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はじめまして

「あれ?」


 男の声が、すぐそばでした。


「開きませんね」


 王子は両手で閂を押さえた。


 心臓が激しく鳴っている。


 下男が何かを言った。


 小さすぎて、よく聞こえなかった。おそらく、鍵をかけたまま放っておけばいい、と伝えたのだろう。


「おかしいですね。王子様のお部屋を訪ねるのに、どうして扉を閉ざされなければならないのでしょう」


 王子様。


 そう呼ばれたのは、いつ以来だろう。


 王子は閂を握ったまま動けなかった。


「殿下」


 扉越しに、男が呼びかける。


「突然お訪ねして、申し訳ありません。私、怪しい者ではありませんよ」


 怪しい者は、皆そう言うのではないかと思った。


 口には出さなかった。


「お会いしたいのですが、開けていただけませんか?」


 王子は黙っていた。


「困りましたね」


 声はちっとも困っていなかった。


「扉を開けるのは簡単なのですが、勝手に入って嫌われるのは避けたいところです」


 王子は眉を寄せた。


 ずいぶん妙なことを言う男だった。


 この部屋へ入るのに、王子の許しを求めた者などいない。兵士も使用人も、外から鍵を開け、必要があれば勝手に入ってきた。


 嫌われることを気にする者もいなかった。


 むしろ皆、王子のほうから嫌われることを望んでいるように見えた。近づくな、話しかけるな、顔を見るなと、繰り返し命じられてきた。


「……どうして」


 久しぶりに声を出したため、喉が痛んだ。


「はい?」


「どうして、僕に会いたいのですか」


 扉の向こうが静かになった。


 王子は後悔した。


 尋ねてはいけなかったのかもしれない。


 けれど、男はすぐに答えた。


「ずっと、お会いしたかったからです」


 迷いのない声だった。


 王子は閂を見つめた。


 会いたかった。


 自分に。


「嘘です」


「嘘ではありません」


「僕が誰か、知らないから」


「存じていますよ」


「僕は――」


 悪魔の子です。


 そう続けようとした。


 だが、言葉になる前に、男が呼んだ。


「テオ」


 世界から音が消えた。


 王子は呼吸を忘れた。


 腕に抱いていた熊が落ちた。


 床へぶつかる鈍い音が、ひどく遠くから聞こえた。


 今、何と。


 誰を呼んだ。


 その名前を、最後に聞いたのはいつだっただろう。


 思い出せない。


 母が死んだあと、誰も呼ばなくなった。


 父も、兄たちも、乳母も、教師も、兵士も、使用人も。


 第三王子。


 あれ。


 あの子。


 忌み子。


 そして、悪魔の子。


 皆がそう呼んだ。


 自分でも、声に出さなくなった。


 口にすれば、二度と母の声で思い出せなくなるような気がしたから。


「どうして……」


 喉が震えた。


「どうして、その名前を知っているのですか」


「どうして、と申されましても」


 男は不思議そうに言った。


「あなたのお名前でしょう?」


 王子は閂から手を離した。


 扉は開かなかった。


 向こうの男は、本当に勝手に入ろうとはしなかった。


「お顔を見ても?」


 尋ねられ、王子は床に落ちた熊を拾った。


 腕の中へ強く抱き締める。


 怖かった。


 けれど、それ以上に、もう一度名前を呼ばれたかった。


 王子は震える手で閂を持ち上げた。


 一歩下がる。


 扉はすぐには開かなかった。


 男は王子が十分に離れるまで待っていたらしい。


 やがて、古い蝶番がゆっくりと軋んだ。


 薄暗い部屋へ、廊下の光が差し込む。


 光の中に、一人の青年が立っていた。


 最初に見えたのは、白い髪だった。


 雪よりも柔らかく、月の光よりも眩しい。肩を越えて流れる髪の一部は後ろで緩く束ねられ、細い鎖や紫色の飾りが編み込まれている。


 青年は白を基調とした長衣をまとっていた。


 黒い立襟に、濃紺と紫の布。胸元や袖には金の刺繍が施され、動くたび、耳飾りと宝石が小さな光を散らした。


 ひどく華やかだった。


 色褪せた離宮には、似つかわしくないほど。


 物語の本から、挿絵だけが抜け出してきたように見えた。


 青年の後ろには、先ほどの下男が立っている。


 顔は真っ青だった。


 目を見開き、何かに怯えるように青年の背を見つめている。王子と目が合うと、下男はすぐに顔を伏せた。


「そこで待っていてくださいね」


 青年が振り返らずに言った。


 穏やかな声だった。


 下男はびくりと肩を跳ねさせた。


「はい」


 返事だけは、ひどく素直だった。


 青年は部屋へ足を踏み入れた。


 王子は一歩退いた。


 すると青年はすぐに立ち止まった。


「ああ、申し訳ありません。これ以上は近づかないほうがよろしいですか?」


 金色の瞳が、まっすぐ王子を見つめている。


 嫌悪も、恐怖もなかった。


 好奇心と、隠しきれない喜びがあった。


 贈り物の箱をようやく開けられる子供のような、きらきらとした眼差しだった。


「僕が、怖くないのですか」


「まさか」


「母を殺したんです」


「いいえ」


 青年は即座に否定した。


 王子は俯いた。


「僕が封印を解きました。だから、悪い魔法使いが母を――」


「それでも、あなたが殺したことにはなりません」


 強い口調ではなかった。


 諭すようでも、慰めるようでもない。


 ごく当たり前の事実を告げる声だった。


 王子は返す言葉を持たなかった。


 八年間、一度も聞いたことのない考え方だった。


「でも、僕が鈴に触らなければ」


「そうですね」


 青年はあっさり頷いた。


 胸の奥が冷たくなる。


 やはり、この男も同じなのだと思った。


 ところが青年は、にっこりと笑った。


「あなたが鈴に触れなければ、私はここへ来られませんでした」

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