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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第60話 エプロン

翌朝、六時半に目が覚めた。


目覚ましより三十分早かった。


天井を見た。薄い光がカーテンの端から入っていた。今日も晴れているようだった。


もう一度眠ろうとして、眠れなかった。体が起きていた。


しばらく布団の中にいて、七時に起き上がった。


シャワーを浴びた。


朝食を作った。トーストと目玉焼きだった。特別なものは何もなかった。でも、ちゃんと作って、ちゃんと食べた。


食べながら窓の外を見た。三日続けて晴れていた。


コーヒーを飲んだ。


端末を確認した。翔から来ていた。昨夜も静かでした。今朝も異常なし。おはようございます。


美佳はおはようございます。今日からカフェに出勤しますと返した。


翔からいってらっしゃいませと来た。


美佳は少し笑った。


出勤の準備をした。


着替えて、鞄に必要なものを入れた。財布、端末、鍵。それだけでよかった。

クローゼットを開けたとき、いつもと少し違う感覚があった。


服を選ぶときの、あの「選択癖」が、今日はなかった。


正確には──なくなったわけではないかもしれない。でも今日は、手が自然に動いた。これを着ようという気持ちが、理由より先に来た。


美佳はそのことに気づいて、少しの間、クローゼットの前に立っていた。

変わったのか、今日だけなのか、分からなかった。でも、今日はこれだった。


家を出た。


商店街を歩いた。朝の商店街は、昼とは違う顔をしていた。シャッターが開いていく途中の店があった。八百屋のおじさんが荷物を運んでいた。パン屋から焼ける匂いがしてきた。


美佳はその匂いの中を歩いた。


昨日朝倉と来た公園の前を通った。ベンチは空だった。落ち葉は誰かが掃いたのか、なくなっていた。


手書きのポスターが貼られていた壁の前を通った。


ポスターはまだあった。


問いを持って、今日も生きています。


風に少し端が折れていた。でも、剥がれていなかった。


美佳は立ち止まらずに、通り過ぎた。


カフェの前に着いた。


開店十分前だった。


ガラス越しに中を見ると、先輩が準備をしていた。美佳に気づいて、手招きした。

ドアを開けた。


「おかえり」と先輩は言った。


「ただいまです」と美佳は言った。

先輩が笑った。「久しぶりに聞いた、その声」


「しばらく休んでいたので」


「元気そうじゃん」


「元気です」と美佳は言った。それは本当だった。全部が解決したわけではないが、今日の美佳は元気だった。

ロッカーに荷物を入れた。


エプロンを手に取った。


畳んだまま棚に置いてあった。しばらく使っていなかったから、少し埃が積もっていた。美佳はそれを払って、広げた。


見慣れた濃紺のエプロンだった。紐が少し縒れていた。直した。


後ろで結んだ。


その動作の中に、何かが戻ってきた感じがした。名前はつけられないが、確かな何かが。

鏡を見た。


エプロンをつけた自分がいた。


しばらくの間、美佳はその自分を見ていた。怖くも、嬉しくもなかった。ただ、ここにいる、という感じがした。


開店した。


最初の一時間は静かだった。朝の常連が数人来た。


顔を見知った老夫婦が来た。美佳を見て、


「あら、戻ってきたの」と言った。


「戻ってきました」と美佳は言った。


「元気そうで良かった」と奥さんが言った。


「ありがとうございます」


老夫婦はいつものテーブルに座った。いつものコーヒーを頼んだ。美佳がいつものように入れた。


その普通のことが、今日は少し輝いて見えた。輝いて、という言葉が正確かどうか分からないが、他に言い方がなかった。

昼の混雑が始まった。


注文が続いた。レジを打った。料理を運んだ。カップを洗った。テーブルを拭いた。

忙しかった。でも、体が動いた。手順を覚えていた。体に残っていた。


先輩が「さすが、戻り早い」と言った。


「体が覚えていました」と美佳は言った。


「体の記憶ってあるよね。頭が忘れても、体は覚えてる」


美佳はその言葉を、少しの間持った。


頭が忘れても、体は覚えている。


選択癖も、依存も、問いへの執着も、頭で起きることだと思っていた。でも体は、ちゃんとエプロンの結び方を覚えていた。コーヒーの入れ方を覚えていた。カップの温め方を覚えていた。


それは小さなことだったが、今日の美佳には大きかった。


昼過ぎ、混雑が落ち着いた頃、ドアが開いた。


美佳はカウンターを拭きながら、顔を上げた。


ユリだった。


白いコートを着ていた。昨日とは違う顔をしていた。どこかが軽くなっていた。


「来ました」とユリは言った。


「来てくれましたね」と美佳は言った。


「コーヒー、いいですか」


「どうぞ」


ユリがカウンター席に座った。美佳がコーヒーを入れた。


ユリがカップを受け取った。一口飲んだ。


「おいしい」と言った。


「ありがとうございます」


「美佳さん、エプロン似合っています」とユリは言った。


美佳は「ありがとうございます」と言った。

カフェの中は静かだった。


数人の客が、それぞれのテーブルで、それぞれのことをしていた。本を読んでいる人がいた。パソコンを開いている人がいた。窓の外を見ている人がいた。


ユリはコーヒーを飲みながら、特に何もしていなかった。


「何か考えていますか」と美佳は聞いた。


「考えていないです」とユリは言った。「久しぶりに、何も考えていない気がします」


「それは良かったです」


「頭が静かなの、こんな感じだったんですね」とユリは言った。「忘れていました」

カウンターの奥で、先輩が小声で「友達?」と聞いてきた。


「知り合いです」と美佳は小声で答えた。


「なんか、ほっとした顔してるね、その子」

美佳は「そうですね」と言った。


「美佳もほっとした顔してる」と先輩は言った。「久しぶりに見た、その顔」


美佳は何も言わなかった。でも、否定しなかった。


午後の光が、窓から斜めに入ってきた。


カフェの中が、その光でゆっくり満たされていった。


ユリが二杯目を頼んだ。


美佳がコーヒーを入れている間、端末が一度振動した。


確認すると、朝倉からだった。


今日どうでしたか。


美佳は少しの間考えてから、返信した。

良かったです。ユリも来ています。


朝倉からすぐ来た。

それは良かった。翔も廃施設で静かに過ごしています。なぜか居心地が良いらしい。


美佳は翔らしいですねと返した。


有栖川さんからも連絡がありました。ミオさん、今日は外に出たそうです。少し歩いたと。


美佳は良かったですと返した。


それから一行付け加えた。


全員、今日も生きていますね。


朝倉からそうですねと来た。それだけだった。それで十分だった。


ユリが帰ったのは、三時頃だった。


「また来ます」と言って、出ていった。


美佳はその後ろ姿を、ドア越しに少し見た。


商店街に入ったユリが、ふと立ち止まった。何かを見ているようだった。手書きのポスターの前かもしれない、と美佳は思った。

しばらくして、ユリは歩き始めた。


閉店間際、最後の客が出ていった。


先輩と二人で片付けをした。


椅子を上げて、床を掃いて、カウンターを最後にもう一度拭いた。


電気を落とした。


ロッカーでエプロンを外した。


畳んで、棚に置いた。明日のために。


外に出た。


夜の商店街は、昼より静かだった。いくつかの店の明かりが消えていた。でも、まだ開いている店もあった。


美佳は少しの間、カフェの前に立っていた。

ガラスに自分が映っていた。コートを着た、普通の顔をした自分が。


エプロンをつけているときと、コートを着ているときと、どちらが本当の自分かと聞かれたら──どちらも本当だと思った。LAPISのログの中にいた自分も、岸壁でユリの隣に座っていた自分も、廃施設の暗がりの中にいた自分も。


全部、同じ人間だった。


歩き始めた。


手書きのポスターの前を通った。


夜の中でも、文字は読めた。


問いを持って、今日も生きています。


美佳は今日、問いを持っていたか。


持っていた。いくつか。でも、朝より夜の方が、少し軽かった気がした。


問いが消えたわけではなかった。でも、問いと一緒に、一日を生きた。


それで十分だった。


家に帰った。


コートを脱いだ。鞄を置いた。


お湯を沸かした。


窓の外を見た。星は見えなかった。でも、空は晴れていた。雲の向こうに、何かがあるはずだった。


美佳はほうじ茶を入れて、ソファに座った。

今日一日のことを思い返した。老夫婦。先輩の声。ユリの二杯目。コーヒーの温度。エプロンの重さ。


どれも、小さなことだった。


でも今日の美佳には、それが全部あった。


端末を見た。


着信もメッセージも、特に来ていなかった。


今夜は来なくていい、と思った。


マグカップを両手で包んだ。


温かかった。


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