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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第32話 手動

朝倉と電話を切ってから、美佳は来た道を戻った。


商店街のシャッターはまだ閉まったままで、


足音だけが路面に響いた。ポスターの前を通り過ぎるとき、一度だけ振り返った。差し替えられた文字が、薄明かりの中で静かに主張していた。


あなたの問いを、聞かせてください。


答えないまま、歩いた。


部屋に戻ってすぐ、翔に写真を送った。


先週のポスターと今朝のポスター、二枚並べて。


「フォントが変わってる。同じ場所に、差し替えられた形跡がある」

翔の返信は十分後だった。


「確認しました。拡大して比較すると、印刷精度も上がっています。先週のものは家庭用プリンターの解像度。今朝のものはそれより高い。別の出力環境で作り直している」


「誰かが、改善している」と美佳は打った。


「そうなります。ポスターを最初に作った人間と、差し替えた人間が同一かどうかはまだ分からない。でも、どちらかが──あるいは両方が──このポスターをまだ動かしているものとして扱っている」


動かしているものとして扱っている。


美佳はその言葉を、声に出さずに口の中で繰り返した。


終わったものを管理する人間は、改善しない。残留させるだけだ。改善するのは、まだ続けようとしている人間だけだ。


「彩音さんは知ってるかな」と美佳は打った。


「分かりません。ただ」


少し間があった。


「彩音さんが知っていて差し替えたなら、なぜ精度を上げたのか。彩音さんが知らないところで差し替えられたなら、彩音さん以外の誰かがこのポスターに触れている、ということになります」


美佳はスマートフォンを膝の上に置いて、少し考えた。


彩音の顔を思い浮かべた。公民館の集まりで、穏やかに場を回していた彩音。善意は本物だと、美佳は今も思っている。でも善意は、その人が把握している範囲までしか届かない。


把握していない範囲で、何かが動いていたとしたら。


「翔くん」と美佳は打った。「タイムスタンプの件、もう少し聞いていい」


「どうぞ」


「二回目の更新を手動でやった人間が、男性の端末への接続も始めた。それは確かなんだよね」


「日時の一致から言えば、そうなります」


「その人間は、今も動いている?」


今度の返信は、少し長くかかった。


美佳は待った。急かさなかった。


翔が慎重に言葉を選んでいる時間だと、分かっていた。


「動いていると思います。男性の端末への接続が三ヶ月以上続いていたことを考えると、止まったのはあの公民館の夜、男性が消えた夜です。それ以降、男性の端末への接続ログはない」


「男性が消えたから、接続が止まった」


「あるいは」と翔は続けた。「接続が何らかの目的を達したから、男性が消えた」


美佳は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


どちらが正しいにしても、男性はあの夜、何かの終点にいた。


三ヶ月間、接続され続けて。深層のどこかに、少しずつデータを書き込まれて。そして公民館の集まりの夜、スマートフォンが強く光って、男性は何かを押して、席を立って──消えた。


誰かが、男性を動かした。


言葉にすると荒唐無稽に聞こえた。でも言葉にしなくても、その輪郭は確かにそこにあった。


「翔くん、一つだけ確認させて」


「はい」


「私の端末への接続の試み、最後にあったのはいつ」


返信まで、また少し間があった。


「三日前です」


「その後は?」


「ありません。今のところ」


今のところ。


美佳はその三文字を、必要以上に長く見ていた。


今のところない、ということは、今後もないとは言えない。試みた人間は、まだどこかにいる。美佳の端末が目的を達していないなら、また試みるかもしれない。


「分かった」と美佳は打った。「ありがとう。少し寝る」


「おやすみなさい。何かあればすぐ連絡します」


美佳はスマートフォンを充電器に繋いで、ベッドに横になった。


眠れる気はしなかった。でも目を閉じた。


天井の暗闇の中で、今朝見た二枚のポスターが並んで浮かんだ。同じ文言。わずかに違う線。


止まったふりをしながら、少しずつ、確実に、良くなっていくもの。


誰かが手をかけている。愛着を持って。目的を持って。


その誰かの顔が、まだ見えなかった。


美佳は目を閉じたまま、朝が来るのを待った。


午後になって、翔から短いメッセージが届いた。


「一つ、確定しました」


「二回目のタイムスタンプ更新。手動操作の痕跡を詳しく解析した結果、操作者はサーバーの設計に深く関与していた人間だと判断できます。外部から侵入した人間ではない」


「内部の人間、ということ」と美佳は返した。


「設計を知っている人間、という方が正確です。設計した人間か、設計を教えてもらった人間か、そのどちらかです」


美佳はメッセージを読んで、画面をテーブルに置いた。


設計を知っている人間。


ミオの名前が、頭をよぎった。


有栖川が言っていた。ミオは途中から怖くなり、止めようとしたが止めきれなかった──と。


止めようとした人間が、止めた後に、また手を加えることはあるだろうか。


止めようとした誰かと、続けようとした誰かが、同じシステムの内部にいた。


あの夜、四人で初めて同じテーブルを囲んだとき、誰かが口にした言葉が、今になって別の重さで戻ってきた。


二人は別々の人間かもしれない。でも同じシステムを知っている。同じ設計を知っている。そして今も、そのシステムはかすかに、動き続けている。


美佳はスマートフォンを手に取って、有栖川に短いメッセージを送った。


「少し聞きたいことがあります。時間があるときに連絡ください」


送信して、画面を置いた。


窓の外で、藍都の午後が静かに続いていた。


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