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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第27話 小さな成功例

 カフェに、見慣れない客が来るようになっていた。


 一人ではなかった。週に二、三人のペースで、初めて見る顔が増えていた。注文はそれぞれ違う。会話をする人もいれば、静かにスマートフォンを見ている人もいる。共通点は、入ってくるときの顔だった。


 何かを探しているような顔。あるいは、何かから少し逃げてきたような顔。


 美佳には、その顔に見覚えがあった。


 @LAPIS_echoのリプライ欄で見た顔と、同じ種類だった。


 その日の午後、一人の女性が入ってきた。三十代の半ばくらい。きれいに整えられた服装だったが、目だけが疲れていた。


 カウンター席に座って、コーヒーを注文した。美佳が持っていくと、女性は「ありがとうございます」と言った。それだけで、また黙った。


 しばらくして、女性がスマートフォンを置いて、美佳に言った。


「ここ、静かですね」


「そうですね」美佳は答えた。


「落ち着く」女性は窓の外を見た。「最近、落ち着ける場所が少なくて」


 美佳は何も言わなかった。何かを言う必要がある場面ではなかった。


「変な話ですけど」女性は続けた。「最近、自分の問いを書くフォームがあって。書いたら、少し楽になったんです。それからここみたいな、静かな場所に来たくなって」


 美佳は「そうですか」と言った。


「馬鹿みたいでしょ、フォームに書いただけで」


「そんなことないと思います」


 女性は少し驚いた顔をした。否定されると思っていなかったような顔だった。


「書いて、誰かに読んでもらえると思うだけで、違うんですよね」女性は静かに言った。


「誰かに届くかもしれない、って思うだけで」


 女性が帰ったあと、美佳は厨房でカップを洗いながら考えた。


 誰かに届くかもしれない、と思うだけで楽になる。


 それは本当のことだ。否定できない。フォームに書いた問いが実際に誰かに読まれるかどうかに関わらず、「届くかもしれない」という感覚が、人を少し軽くする。


 彩音はそれを知っていた。知っていて、作った。


 悪意ではない。それは分かる。でも「届くかもしれない」という感覚を設計することと、実際に届けることは、別のことだ。感覚だけが先に走っていく。


 美佳はカップを棚に戻した。


 小さな成功例が、積み重なっていた。


 閉店後、伊藤さんが着替えながら言った。


「美佳ちゃん、知ってる? 駅前の掲示板に、新しいの貼られてたよ」


「ポスターですか」


「そう。なんか、集まりがあるって。問いについて話し合う会、みたいな」


 美佳は手を止めた。「いつですか」


「来週の土曜日。公民館で」伊藤さんはバッグを肩にかけた。「私、行ってみようかなって思ってる。友達も行くって言ってたし」


「そうですか」


「美佳ちゃんは行く?」


「少し考えます」


 伊藤さんは「そっか」と言って、先に出ていった。


 美佳は一人、カフェの鍵を閉めた。


 オンラインからオフラインへ。フォームからポスターへ。そして今度は、集まりへ。

 

 段階が、また一つ進んでいた。


 その夜、朝倉に連絡した。


「来週土曜日に、公民館で集まりがあるそうです」


 返信は早かった。


「知ってる。翔さんから聞いた。@LAPIS_echoで告知が出てる」


「行きますか」


「行こうと思ってる。美佳は?」


 美佳は少し考えた。


「行きます」と打った。「ただ、彩音さんには事前に言わないでおきたい」


「分かった」


 それから少し間があって、朝倉から追加のメッセージが来た。


「今日、カフェで何かあった?」


 美佳は「なぜですか」と返した。


「なんとなく」


 美佳は少し笑った。朝倉には、こういうところがある。根拠を聞いても「なんとなく」としか言わないが、外れたことがない。


「お客さんと少し話しました。フォームに書いて楽になった、という人と」


「どうだった」


「責める気持ちにはなれなかった」美佳は正直に打った。「でも、だからこそ怖かった」

「うん」と朝倉は返した。


 それだけだった。でもその「うん」が、今夜の美佳には十分だった。


 翌日のシフト明け、美佳は商店街を歩いた。


 ポスターを数えた。


 二十六枚。先週より七枚増えていた。


 一枚一枚、同じデザインだった。同じフォント。同じ余白。同じ問いかけ。でも貼られている場所は、それぞれ違った。書店、薬局、クリーニング店、花屋、眼鏡屋、米屋。街の中に溶け込むように、でも確実に目に入る場所に。


 貼る場所を選んだ人間の目が、そこにあった。


 街を読んでいる。


 その感覚が、また戻ってきた。


 美佳が街を読むように、誰かが藍都を読んでいる。同じ方法で。


 それが自分と彩音を結ぶ線のように見えて、美佳は少し立ち止まった。


 立ち止まって、また歩き出した。


 土曜日まで、あと五日あった。


 アパートに帰って、ノートを開いた。


「小さな成功例が積み重なっている」と書いた。


 それから少し考えて、もう一行書いた。


「成功例は、本物だ。だから止めにくい」


 ペンを置いて、天井を見た。


 有栖川の言葉が戻ってきた。正しい善意は、止めにくい。責められない。でも続く。


 続くことと、正しいことは、別だ。


 でもそれを、どう言葉にすればいいのか。


 美佳にはまだ、分からなかった。

成功例が積み重なるほど、「でも」という言葉は重くなる。


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