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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第26話 正しい善意

 有栖川から連絡が来たのは、翌日の午前中だった。


「昨日の喫茶店で、一つ聞きそびれました。少し話せますか」


 翔を交えない、二人だけの呼び出しだった。


 美佳は「大丈夫です」と返した。


 待ち合わせは、大学近くの公園だった。ベンチが等間隔に並んでいて、この時間帯は人が少ない。有栖川はすでに来ていた。コートの襟を立てて、池のほうを見ていた。


 美佳が隣に座ると、有栖川は前を向いたまま言った。


「昨日、翔さんの話を聞いているとき。美佳さんの顔が、一瞬変わった」


「気づいていましたか」


「はい」有栖川は美佳を見た。「フォームを読んだんですね」


 否定しなかった。「三日前に。百件ほど」

「分類できると思いましたか」

「思いました」


 有栖川は池に視線を戻した。「私も、最初にLAPISのアンケートを見たとき、同じことを感じました。構造が見える、と思った。次の問いが作れる、と思った」


「それで、作りましたか」


「作りませんでした」有栖川は静かに言った。「作れる、と思ったところで止まった。でも──止まった理由を、当時はうまく言葉にできなかった」


 美佳は「今は言えますか」と聞いた。


「今は少し言えます」有栖川は少し間を置いた。「作った問いで、誰かが動く。その責任を、私は引き受けられないと思ったから」


 風が吹いた。池の水面が揺れた。


「有栖川さんは」美佳は言った。「彩音さんのことを、どう見ていますか」


「正しいと思っています」有栖川は即座に答えた。「彩音さんの善意は、本物だと思う。始めた理由も、続けている理由も」


「でも」


「でも、正しい善意が正しい結果を生むとは限らない」有栖川は続けた。「ミオもそうだった。ミオの善意を、私は疑ったことがない。だからこそ──止まれなかったことが、怖かった」


 美佳は有栖川の横顔を見た。


「ミオは、どこで止まれなくなったんですか」


「人が集まってきたとき、だと思います」有栖川はゆっくり言った。「最初は一人で設計していた。でも人が集まって、答えてくれる人が増えて、期待してくれる人が出てきた。そうなったとき──やめることのコストが、続けることのコストを超えた」


「やめると、期待に応えられない」


「そうです。善意で始めたことを、善意で信じてくれている人たちを、傷つけることになる。ミオはそれが怖かったんだと思う」


 美佳は前を向いた。


 彩音の歩き方が頭に浮かんだ。少し前のめりで、足が速い。どこかへ急いでいるような、でも行き先が定まっていないような。


「彩音さんも、同じ場所に向かっていると思いますか」


「向かっているかどうかは、まだ分からない」有栖川は答えた。「でも、同じ構造の上に立っていることは確かだと思います」


 しばらく、二人は黙って池を見た。


 鴨が一羽、水面を横切った。波紋が広がって、消えた。


「美佳さんに聞きたかったのは」有栖川が言った。「昨日の翔さんの話を聞いたあと、何を考えていたか、ということです」


「作れる、ということと、作るべきかどうかは別だ、ということ」美佳は答えた。「翔さんに同じことを聞いたら、同じ言葉が返ってきた」


「翔さんに聞いたんですか」


「はい」


 有栖川は少し目を細めた。「翔さんは、止まれる人です」


「有栖川さんも、止まれた」


「私は──止まれたというより、最初から怖かった。動く前から」有栖川は静かに言った。「美佳さんは、動いてみてから怖くなった。それは違います」


 美佳は「違いますか」と聞いた。


「動いてみてから怖くなる人のほうが、本当の意味で止まれると思っています。怖さの中身を知っているから」


 公園を出るとき、有栖川が言った。


「彩音さんに、また会いますか」


「会うと思います」美佳は答えた。


「何を話すか、決まっていますか」


「まだです」


 有栖川は頷いた。「一つだけ」と前置きして、続けた。


「彩音さんの善意を否定しなくていいと思います。正しい善意だと、私も思っている。ただ──」有栖川は少し言葉を選んだ。「正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。それを伝えられるのは、美佳さんだけだと思っています」


「なぜ私だけですか」


「翔さんはデータで話す。私はミオの話しかできない。朝倉さんは──美佳さんを守ろうとするから、彩音さんには届きにくい」有栖川は真っ直ぐ答えた。「美佳さんは、彩音さんの善意を本物だと思いながら、でも、と言える。それができる人が、今この中にいない」


 美佳は有栖川を見た。


「それは」美佳はゆっくり言った。「私が設計者になるべきだ、ということとは、違いますか」


「違います」有栖川は即座に答えた。「設計者になることと、彩音さんに『でも』と言うことは、別のことです」


 帰り道、美佳は有栖川の言葉を繰り返した。


 正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。


 彩音は悪くない。ミオも悪くなかった。善意が本物だったからこそ、人が集まった。人が集まったからこそ、やめられなくなった。やめられなくなったことを、誰も責められなかった。


 責められない。でも、続く。


 それが一番、怖い形だった。


 アパートの鍵を開けながら、美佳は一つだけ決めた。


 彩音に、会う。


 何を言うかは、まだ決まっていない。でも会う。有栖川の言葉を借りるためではなく、自分の言葉で、「でも」と言えるかどうか、確かめるために。


正しい善意は、止めにくい。だからこそ、誰かが「でも」と言わなければならない。


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