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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第28話 土曜日の公民館

 公民館の入口に、手書きの案内が貼られていた。


「問いを語り合う会 本日開催 二階・第三会議室」


 フォントではなく、手書きだった。インクの太さが均一で、定規を使ったような文字だった。丁寧に書いた人間の、丁寧さが滲んでいた。


 美佳は朝倉と並んで階段を上がった。


「何人くらい来ると思いますか」と美佳は小声で言った。


「翔さんの分析では、告知へのリアクションが八十件」朝倉も小声で答えた。「全員来るとは思わないけど、三十は超えると思う」


 第三会議室のドアは開いていた。


 中を見て、美佳は少し息を止めた。


 三十人以上いた。折り畳み椅子が円形に並べられていて、半分以上が埋まっていた。年齢層が広い。二十代とおぼしき若者もいれば、六十代に見える老人もいた。話している人もいれば、スマートフォンを見ている人もいた。


 普通の人たちだった。


 それが、一番気持ち悪かった。


 美佳と朝倉は端の席に座った。目立たない位置を選んだ。


 定刻になると、進行役の男性が前に立った。三十代前半くらい。細身で、声が落ち着いていた。美佳は初めて見る顔だった。


「今日は来てくださってありがとうございます。ここは、問いを持っていい場所です。答えを出す必要はありません。ただ、問いを声に出してみてください」


 拍手が起きた。


 美佳は拍手しなかった。朝倉もしなかった。


 会は始まった。参加者が順番に、自分の問いを語っていく。「仕事を続けるべきか分からない」「家族に何を望まれているのか分からない」「自分が何を好きなのか、もう分からない」。一人が話すたびに、周囲が静かに頷く。否定しない。批評しない。ただ聞く。


 場の空気は、穏やかだった。


 穏やかすぎて、美佳は自分の警戒心が場違いに感じられた。


 二十分が過ぎた頃、美佳は気づいた。


 斜め前の席に、四十代の男性が座っていた。


 体型。猫背の角度。首の傾け方。


 美佳はカフェのカウンターから何度も見た姿を、記憶の底から引っ張り出した。


 週三回来ていた常連客だった。ある日から来なくなった、あの男性だった。


 美佳は視線を外した。朝倉の袖を、指先でそっと引いた。朝倉が小さく「うん」と返した。気づいていた。


 男性は会の間、一度も発言しなかった。ただ座って、他の参加者の話を聞いていた。表情が読めなかった。無表情でも、不安そうでもない。ただ、どこか遠い目をしていた。


 会が後半に差しかかった頃だった。


 男性のスマートフォンが、かすかに光った。


 美佳の位置からは、画面の内容が見えなかった。でも光り方が、通常の通知と違った。一瞬だけ、強く光った。


 男性が画面を見た。


 固まった。


 一秒か、二秒か。ほんのわずかな時間だったが、美佳には長く感じた。男性の右手の親指が、画面の上で止まった。そして──押した。


 何かを、押した。


 その直後、男性は静かに立ち上がった。誰の話の途中でもなかった。タイミングが自然すぎて、周囲の誰も気にしなかった。男性は出口へ向かった。足音がしなかった。


 美佳は朝倉を見た。


 朝倉はもう立ち上がっていた。


 廊下に出た。


 男性の姿はなかった。


 左右を見る。階段の方向、トイレの方向。どちらにも人影がない。廊下の端まで二十メートルほど。それだけの距離で、消えていた。


「非常口」と朝倉が言った。


 廊下の奥に、非常口の緑のランプが光っていた。二人で駆けた。扉を押すと、外階段に出た。下を見た。上を見た。


 誰もいなかった。


 外の空気が冷たかった。美佳は手すりを掴んで、下の駐車場を見下ろした。車が数台。人影なし。


「速すぎる」と朝倉が言った。「階段を使ったなら、音がするはずだ」


「エレベーターは」


「この建物、エレベーターがない」


 美佳は外階段に立ったまま、しばらく動けなかった。


 男性は何かを押した。その直後に消えた。廊下に出るまで、十秒もかかっていない。でも姿がない。


 気のせいではない。見た。確かに見た。


「スマートフォンの画面」美佳は言った。


「問いが表示されていた、と思う」


「画面の内容は見えたか」


「見えなかった。でも光り方が違った。通知じゃなかった」


 朝倉はしばらく黙った。


「会議室に戻ろう」と朝倉は言った。「進行役の男を、もう少し見ておきたい」


 席に戻ると、会はまだ続いていた。


 男性の空席を、誰も気にしていなかった。進行役も、何も言わなかった。もとから、そこに誰かが座っていたかどうかさえ、もう分からないように見えた。


 美佳は空席を見た。


 折り畳み椅子の座面に、男性の体温はもう残っていないだろう。でも確かにそこにいた。確かに、何かを押した。


 会が終わったのは、一時間後だった。


 参加者が散り始める中、美佳は進行役の男性に近づいた。


「一つ聞いてもいいですか」


「はい、どうぞ」男性は穏やかだった。


「途中で席を立った方がいたと思うんですが、どなたかご存知ですか」


 男性は少し首を傾けた。「途中で席を立った方、ですか」


「四十代くらいの、男性です」


「さあ」男性は困ったように微笑んだ。「参加者の方を全員把握しているわけではないので。具合が悪くなったのかもしれませんね」


 美佳は「そうですか」と言って、引いた。


 引きながら、男性の目を見た。


 困っていなかった。


 公民館を出て、二人は駐輪場で立ち止まった。


 夜の空気が冷たかった。街灯の下、朝倉が自転車の鍵を手の中で回しながら言った。


「進行役の男。彩音とつながっているのかどうか、まだ分からない」


「でも彩音が主催者じゃなかった」


「うん。告知には名前がなかった。@LAPIS_echoのアカウントからの案内だけだった」


 美佳は夜空を見上げた。雲が多くて、星が見えなかった。


「男性のスマートフォンに届いた問いを、誰が送ったんだろう」


「フォームの自動送信じゃなければ」朝倉は言った。「誰かが、あの人だけに向けて作った問いだ」


 個別に生成された問い。


 三十人の参加者の中で、あの男性だけに。


 美佳は自分のスマートフォンを、コートのポケットの中で握った。


 画面は光っていなかった。


 今は、まだ。

男性が押したのは何だったのか。美佳にはまだ分からなかった。分からないまま、夜が続いた。


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