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エピローグ 感謝を感じる心を育てる

エピローグ 感謝を感じる心を育てる


夏の朝だった。


レードル公爵邸の庭園には、薄金色の陽光が静かに降り注いでいる。


朝露をまとった白薔薇。

風に揺れるカモミール。

ラベンダーの青い香り。


遠くでは庭師たちが笑いながら水を撒いていた。


昔、この屋敷には笑い声などなかった。


誰もが空気を窺い、怒鳴り声へ怯え、感情の嵐に巻き込まれないよう息を潜めていた。


けれど今は違う。


厨房からは焼き立てのスコーンの匂いが漂い、廊下では侍女たちが普通に雑談をしている。


静かだった。


穏やかで、柔らかな静けさ。


エルナは庭園の東屋で、紅茶の茶葉を選んでいた。


銀の缶を開ける。


ふわりと甘い香りが立ちのぼった。


「今日はアッサムにしましょうか」


独り言のように呟く。


すると背後から声がした。


「最近、君は少し楽しそうに茶葉を選ぶな」


ギルバートだった。


薄いシャツ姿のまま、朝の光を浴びて立っている。


以前の彼なら考えられないほど穏やかな顔だった。


エルナの視界へ浮かぶ温度も柔らかい。


【安心:36.5度】

【深い愛情:ひだまりの温度】


もう見慣れた温度だ。


エルナは小さく首を傾げた。


「そうでしょうか」


「ああ」


ギルバートは向かいへ腰を下ろす。


「昔は、どんな時でも無表情だった」


「今もあまり変わらないと思いますが」


「いや」


ギルバートは少し笑った。


「君は最近、よく目を細める」


エルナは少し黙った。


自覚は、あまりない。


けれど。


昔より紅茶の香りを好きだと思う回数は増えた。


庭の花が綺麗だと思うこともある。


使用人たちの笑い声を聞いて、不快ではないと感じる。


それはたぶん。


少しずつ、自分の中に何かが戻ってきているのだろう。


エルナは静かに茶葉を蒸らした。


熱湯が葉を開かせる。


深い香りが夏の風へ溶けていった。


その時、侍女が慌てた様子で走ってくる。


「旦那様! 奥様!」


「どうした」


「北領からお礼の品が届きました!」


木箱を抱えた使用人たちが後ろから現れる。


箱を開けると、中にはたくさんの林檎と、手作りの蜂蜜菓子が入っていた。


素朴な包み紙には、不器用な文字で手紙が添えられている。


『薪を送ってくださりありがとうございました』

『今年は子供たちが寒がらずに済みました』

『公爵夫妻へ感謝を』


エルナはその文字をじっと見つめた。


紙からは乾いた草の匂いがする。


少し歪んだ文字。


一生懸命書いたのだろう。


ギルバートが小さく息を吐いた。


「……感謝、か」


昔の彼なら、こういう言葉を信じなかったかもしれない。


愛だの絆だのという言葉は、ずっと彼を傷つけるために使われてきたから。


けれど今の彼は違う。


静かにその手紙を読んでいる。


怒りも疑念もなく。


エルナはふと、自分の胸の奥を探った。


不思議だった。


熱いわけではない。


でも。


ほんの少し、温かい。


「奥様?」


侍女が不思議そうに見る。


エルナは小さく瞬きをした。


「……いえ」


言葉を探す。


感情を説明するのは苦手だった。


昔からずっと。


だが今なら、少しだけ分かる気がした。


「嬉しい、のでしょうか」


侍女が目を丸くする。


ギルバートも静かにエルナを見る。


エルナは続けた。


「よく分かりませんが」


林檎へ触れる。


陽を浴びた果実はほんのり温かかった。


「誰かに感謝されるのは、悪くありませんね」


沈黙。


それから侍女が、ぱっと笑顔になった。


「はい! とっても素敵なことです!」


その笑顔を見て、エルナは少しだけ考える。


感情は怖いものだと思っていた。


怒りは人を壊す。

悲しみは人を沈める。

愛情は支配する。


そういうものしか見てこなかった。


けれど違う感情もあるらしい。


感謝。


安心。


穏やかさ。


それらは誰かを焼かない。


ただ静かに、人を温める。


ギルバートが低い声で言う。


「エルナ」


「はい」


「君は変わったな」


エルナは首を傾げる。


「そうでしょうか」


「ああ。少しずつだが」


ギルバートは穏やかに笑った。


「ちゃんと、人の温度を好きになり始めている」


エルナは黙る。


そして視線を落とした。


カップから湯気が立ちのぼっている。


丁度いい温度。


冷たすぎず、熱すぎない。


彼女はそっとカップを両手で包み込んだ。


じんわりと熱が伝わる。


胸の奥も、少しだけ似ていた。


エルナは静かに思う。


――なるほど。


感情とは、嵐ばかりではないのですね。


その時、夏の風が庭園を吹き抜けた。


花々が揺れる。


笑い声が聞こえる。


紅茶が香る。


そしてエルナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


今度は無意識ではなく。


ちゃんと、自分で。



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