粘液接触していないから広義で見てもこれはキスではない
図書館での勉強会から数日。
演劇の練習は思っていた以上に順調に進んでいた。
もちろん、私基準での「順調」だけれど。
「君の美しい瞳に、僕は――」
最初は羞恥心で死ぬかと思ったこの台詞も、今では何とか口にできるようになっていた。
もちろん、そのまま言っているわけではない。
私の頭の中では、ちゃんと空想変換されている。
『(医学的に見ても健康そのものな)君の美しい瞳に、僕は──』
という具合に。
王子ではなく、お医者さん。
そう思い込めば、甘い台詞も診察結果の報告みたいなものだ。
……多少、無理はあるけれど。
それでも以前よりは随分と気持ちが楽になっていた。
問題は、別にあった。
「はい、もう一回!」
体育館の端に並び、私たちは発声練習を繰り返す。
「アイウエオ!」
「アイウエオ!」
「もっとお腹から!」
「アイウエオーー!」
声が体育館いっぱいに響く。
私は普段、大きな声を出すことなんてほとんどない。
本を読んで、静かに生活してきた人間だ。
だから腹式呼吸だとか、滑舌だとか、そんなものとは無縁だった。
数十分も続ければ喉は痛いし、お腹も疲れる。
(……何でここまでやらないといけないんだろう)
思わずそんなことを考えてしまう。
不真面目なのかな、私は。
みんなは真剣に声を出しているのに。
そんなことを考えていると、休憩の声がかかった。
床に座り込んで肩で息をしていると、視界にペットボトルが差し出される。
「はい、澪ちゃん」
更紗さんだった。
「ありがとう」
受け取ると、冷えたペットボトルが火照った手に心地いい。
「大丈夫? 喉痛くない?」
「う、うん。何とか」
「よかった」
それだけのやり取りなのに、不思議だった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
一緒に練習して、飲み物一本受け取っただけ。
それだけなのに、彼女との距離がまた少し縮まったような気がした。
そんな穏やかな空気を破るように、担任がパンパンと手を叩く。
「はい、ちょっと全員集合」
私たちは飲み物を片手に先生の周りへ集まった。
「眠り姫が目覚めるシーンのことなんだが」
嫌な予感しかしない。
「同性とはいえ、本当にキスするのは禁止だからな」
その言葉を聞いた瞬間。
「えぇーーっ!」
クラス中から一斉に抗議の声が上がった。
私はというと。
(当たり前でしょ)
という感想しか出てこなかった。
本当にキスしろなんて言われたら、私はその場で王子役を辞退して逃げる。
全力疾走で。
体育館から自宅のベットの中までノンストップで。
先生は苦笑しながら続ける。
「だから、寸止めで止めるか、あるいは別の方法で工夫して、キスしているように見せなさい」
みんなが「なるほど」と頷く中。
先生は、余計なことを付け加えた。
「数年前の演劇では、透明なテープを口に貼って、その上からキスしたこともある。直接接触してないから、あれはセーフだった」
……。
(おい)
(余計なことを言うな)
私は心の中で震えた。
そんな具体例を出したら。
クラスのみんなが。
「それならいけるじゃん!」
みたいな顔をしてるじゃないか。
お願いだから、その方向で盛り上がらないで。
私は静かに、更紗さんの方を見る。
彼女は私と目が合うと、少しだけ頬を赤くして。
照れたように、にこっと笑った。
……嫌な予感は的中しつつあった。




