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9/11

元カノ、遅刻する

翌朝。


まだ生徒のまばらな教室で、俺は自分の席に座り、無意味に文庫本のページをめくっていた。





活字を目で追ってはいるものの、内容はまったく頭に入ってこない。




……昨晩。スマホを裏返し、通知音を無視して目を閉じたまではよかった。だが、結局あいつからどんな返信が来たのかが気になって浅い眠りを繰り返し、無駄に早く目が覚めてしまったのだ。




今朝、家を出る前に耐えきれずに画面を開いてみれば、『来週ワンチャン!?』『お弁当のリクエストは!?』というメッセージに続き、謎のカワウソが踊り狂うスタンプが画面を埋め尽くしていた。




あんな馬鹿みたいなスタンプ爆撃に、朝から調子を狂わされるとは。




「おっ。おはよ、りっくん。今日早くね?」




教室の前方から軽い足取りでやってきたのは、沖田竜水だった。




鞄を自分の机に放り投げ、俺の前の席にどかっと逆向きに座り込む。





「……たまたま目が覚めただけだ」


「へえ? めずらしいな。なんかあったわけ?」




竜水はニヤニヤと笑いながら、顎杖をついて俺の顔を覗き込んできた。




「別になにも」




「あっそ。そいや、昨日は結局、一緒に帰ったんでしょ。どーなのよ、日向坂ちゃんとは」




「……勘違いするな」




俺は文庫本から視線を上げず、事実を冷静に告げた。




「あれは『2カ年限定・青春浪費計画』の布石だ」




「は? なにそれ」




「あいつからの好意を逆手に取り、期待を持たせて俺に高校生活という貴重な青春を費やさせる。だが応えてはやらない。そして卒業の直前でこっぴどく振り、俺が味わったのと同じ絶望を味わせる。そういう長期的な復讐だ。だからあれは、計画の遂行に過ぎない」




「…………」




竜水は一瞬ぽかんと口を開け――次の瞬間、机に突っ伏して肩を震わせ始めた。




「ぶっ……くくっ、あははははは! なにそれ、マジで言ってんの!?」




「笑い事じゃない。俺は本気だ」




「ひーっ、腹痛てぇ。やば、超ウケるんだけど。……まあ、りっくんがそれで行くって言うなら、俺はいいと思うぜ別に。ってことは、いくらイチャイチャしようが二人で過ごそうが、それはラブコメじゃなくて復讐劇の一幕ってことになるわけ?」




「その通りだ」




竜水は目尻に滲んだ涙を拭いながら、しかし事実を正確に言い当てた。




「なるほどなるほど。それはさすがの竜水君にもちょっと思いつかなかったわー。おもしろすぎるだろりっくん」




 茶化すようにして笑うこいつが何を言いたいのかよくわからないが、とりあえずこれで変な誤解を解消であろう。




その後は適当に相槌を打って会話を終わらせ、ふと教室の時計を見上げた。




一時間目開始まで、あと二分。うちの高校は、ホームルームの前に一時間目の授業があるのだが、それに遅れれば遅刻だ。




……遅い。




視線を斜め前へ移す。日向坂の席は、まだ空席のままだった。




あれだけ昨晩テンションを上げていたのだ。普通なら、俺より早く来て待ち構えているか、遅くともすでに登校して騒いでいる時間だろう。




そこで、俺の思考がピタリと止まった。




――昨日、あいつはどこで俺を待っていた?




通学路の曲がり角。俺がいつも通る道の日陰で、待ち伏せしていたじゃないか。




もし、今日もそこで俺を待っているとしたら? 俺が昨晩のメッセージのせいで無駄に早起きして、とうの昔に学校へ着いていることも知らずに。




「…………」




俺は文庫本をパタンと閉じ、無言でスマホを制服のポケットから取り出した。


トークルームを開き、短い文章を打ち込む。




『俺はもう教室にいる』




送信ボタンをタップした直後。メッセージの横に、即座に『既読』の文字がついた。


続いて、『マ!?』とびっくりしているカワウソのスタンプも。お前そのキャラ好きだな。




「……ちっ」




気が付けば舌打ちが出ていた。




やはりそうだ。あの馬鹿、ギリギリまで俺を待っていたに違いない。今頃、通学路でパニックになって走り出している光景が目に浮かぶ。




月読高校は県内でも有数の進学校だ。遅刻や欠席は内申点に響き、大学推薦などの評価で明確なマイナスとして働く。




日向坂の困ったような顔を脳裏に浮かんだ。浮かんだ、が。




あいつが遅刻して評価を落とそうが俺の知ったことではない。




が……。いや……。そうでもない。俺を待っていて遅刻した、ということ自体は事実だ。その責が飛び火してはかなわん。それに、これをきっかけとして日向坂の内申点や成績が落ち、非行に走り、留年だの退学だのと言った流れになれば俺のザマァ計画に支障が出る。




これはあくまで、今後の展開をスムーズに進めるための処置だ。




やがて予鈴が鳴り、一時間目の担当でもある初老の教師が、出席簿を片手に教室へと入ってきた。




教壇に立ち、ぐるりと教室を見渡す。




「えー、席につけ。出席をとるぞ。……む、日向坂がいないな。遅刻か?」




教師が出席簿にペンを走らせようとした瞬間、俺はスッと右手を挙げた。




「先生。日向坂なら、さっきまで教室にいました」




意識的に低くした声でそう伝える。クラスの視線がいくつかこちらに向く。




「少し体調が悪いと言って、保健室に向かいました。休ませてもらってから、授業には遅れて出るそうです」




「おお、高城か。そうか、さっきまでいたんだな。わかった、じゃあ保健室利用としておこう」




俺は学年トップの成績を誇り、昨年はインターハイにも出場している優等生なのである。しかも本当は陰キャなので騒ぎもせず、不良なこともしない。多分教師からすれば理想的に手がかからない生徒だ。なので、教師は微塵も疑うことなく出席簿にチェックを入れた。




竜水が俺の方を向いて、口パクで『やさしい』と言ってきたので、俺は『うるさい』と口パクで答えた。




一時間目の授業が始まって十分ほどが経過した頃だった。




ガラッ! と。




教室の後ろの扉が、勢いよく開け放たれた。




「はぁっ……! はぁっ……! す、すみませっ、遅れまし……っ!」




肩で激しく息をしながら立っていたのは、日向坂だった。




金髪の隙間から覗くインナーカラーが、汗で額や頬にべったりと張り付いている。


猛ダッシュをしてきたのだろう。彼女の顔は林檎のように真っ赤に染まり、大きく息を吸い込むたびに、ブレザーの下の豊かな胸の起伏が激しく上下していた。




着崩したシャツの第一ボタンが開いた襟元からは、汗の滴る真っ白な首筋と鎖骨が覗いている。シャツの生地がうっすらと汗を吸って肌に張り付いてもいて、荒い吐息を漏らしてもいる。




ちょっとそれは青少年の視界に優しくないのではないかと思う。イヤ俺のことじゃないぞ。あくまで一般論として。




教室の反対側にいるのに、ほのかな汗と、彼女特有の甘いシャンプーの香りが微風に乗って届いてくるような錯覚を覚える。





「おー、日向坂。保健室行ってたんだってな」


教師は黒板から振り返り、チョークを持ったままのんきな声を出した。




「顔真っ赤じゃないか。もう体調は大丈夫なのか? 無理しなくていいぞ」




「……へ?」




日向坂は顔を上げ、間抜けな声を漏らした。




「あ……えっと、ほけん、しつ……?」




状況が全く飲み込めていないらしく、目をぱちくりと瞬かせている。遅刻を咎められる覚悟で飛び込んできたのに、なぜか体調不良で保健室にいたことになっているのだから当然だ。




ぽかんとしたまま、日向坂は首を傾げ、頭の上にいくつもハテナマークを浮かべている。俺が裏の狙いがある助け舟を出したことになど、微塵も気づいていない。それでよい。




彼女は狐につままれたような顔のまま、そろそろと自分の席へと向かい、少し荒くなった息を整えつつ着席した。




状況がわからずキョロキョロと目を白黒させている間抜けな顔も、汗でシャツが肌に張り付いている無防備な姿も、いちいち目に毒すぎる。




「……ふん」




俺は無表情を装いながらも、シャーペンを握る手にぐっと力を込め、無理やり視線を前方へと戻した。




……これもすべて、今後の展開を優位に進めるための布石だ。




己の完璧な理論で内心のノイズをねじ伏せ、俺は無心で黒板の文字をノートに書き写す作業へと没頭した。



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