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8/11

元カノ、喜ぶ

張り詰めた静寂の中、パァン、と乾いた弦音が板張りの道場に吸い込まれていく。




放たれた矢は空気を切り裂き、二十八メートル先の的のど真ん中――星を正確に射抜いた。




俺はゆっくりと残心をとき、弓を下ろす。道着の隙間からじわりと滲んだ汗が、首筋を伝って落ちた。




「……おい、律人」




背後から、擦れた低い声がかけられた。




振り返ると、俺が師と仰ぐ道場の主が、腕を組んで俺の射を眺めていた。六十を超えたら老齢ながら、銀髪のマンバンヘアというファンクでロックなジジイだが、その目は鷹のように鋭い。




「今日はやけに、肩に力が入ってんじゃねえのか。的は射抜けてるが、なんか迷いでもあんのか? 随分と熱っぽくて、人間くせえ」




「……そうですか」




「あぁ。なんか面白い雑念でも混じってんのか? 仏頂面のお前らしくねぇな」




師匠はそう言うと、口の端をニヤリと吊り上げて、どこか楽しげに笑った。


図星を突かれ、俺は奥歯を噛み締める。




雑念。あるに決まっている。十字路で別れ際に袖口を掴まれた、あの柔らかな感触と熱が、どうにも指先から消えてくれないのだ。




「少し、休憩を入れます」




「おう、そうしろ。頭ぁ冷やしてこい。……ま、春らしくて結構なこったがな」




師匠のからかうような声に逃げるように背を向け、俺は道場の隅に置いたスポーツバッグへと向かった。




タオルで顔の汗を拭い、水分補給のためにペットボトルを取り出す。その際、バッグの底で震えていたスマートフォンが目に入った。




画面をタップすると、緑色のメッセージアプリに通知が一件来ている。




送り主は……『日向坂愛瑠』。




うっ……! ってなった。なんか変な声が出た。今日のアイツの言動を考えれば予想できたはずなのに、まったく考えていなかった自分に驚く。




二年間、完全に沈黙していたトークルームの一番上に、真新しい通知バッジが光っている。ちなみにそれ以前のやりとりは俺が可哀相すぎて痛すぎるので読み返したくない。




親指が、少しだけ躊躇した。だが、ここで開かないのも逆に意識しているようで腹立たしく、俺は無表情を保ったまま通知をタップした。




『今日はありがとね。また一緒にお昼食べたり、帰ったりしよーね!』




明るく、屈託のないメッセージ。多分、単に思ったまま三秒くらいで入力して送ったかのような内容。その下には、よくわからないカワウソがペコッとお辞儀をしているスタンプが添えられていた。




「……」




画面の向こうで、これを送るために彼女がどんな顔をしていたのか。


俺は画面をじっと見つめたまま、小さく息を吐き出した。




既読はつけてしまった。だが、返す言葉が見つからない。




二年前、あんなに冷たく俺を切り捨てたくせに。昨日、あんなに泣きそうな顔をしていたくせに。画面の中の彼女は、まるで何事もなかったかのように無邪気なスタンプでお辞儀をしている。




そのちぐはぐな温度感と、二年の空白をあっさりと飛び越えてこようとする距離感に、俺の鼓動は乱された。イライラしているのか、ドキドキしているのか、ソワソワしているのか、俺自身にもよくわからない。




では、このメッセージに対してどうする?




冷たく突き放すべきか。計画のために適当な相槌を打つべきか。いや、そもそも今の俺がどんな言葉を返せば、今の俺として正解なのだろうか。あの頃の俺に、文句を言われない答えなのだろうか。




文字を打とうとする指先が、どうしても動かない。




画面を見つめるほどに感情が空回りし、どうしていいか全くわからなくなった俺は、スマホの画面を暗転させ、バッグの中に乱雑に放り込んだ。




知ったことではない。俺は誰かからのメッセージには可能な限りすぐ返信する。でもあいつは別だ。そんな義理はない。無視しても文句を言われる筋合いはない。




再び弓を手に取り、射位へと進み出る。




息を吸い、弓を構える。弦を引き絞る。




視界の端で、先ほどのカワウソのスタンプがちらついたような気がした。何だあのカワウソは。ってか本当にカワウソか? なんだあの生き物は。




謎の生き物が、俺の周りを踊りながらちょろちょろとしている気がする。




失せろ、黙れ。




袖口に触れた指先の熱を、冷ます。




「……ふぅっ」




俺は短く、鋭く息を吐き出し、強引にノイズを脳内から消し去った。




あんな安っぽい動揺に、積み上げてきたルーティンを崩されるわけにはいかないのだ。弓道に大切なものは精神力だ。俺はそれを培ってきた。




鋭い眼差しで的を見据え、雑念を完全にねじ伏せる。


パァン、と。




先ほどよりもさらに澄んだ弦音が響き、矢は再び的の中心へと深々と突き刺さった。




※※




夜の静寂に包まれた、俺の自室。




机の上には、難関大向けの数学の問題集が開かれている。




カリカリと一定のリズムでシャーペンを走らせ、俺は今日のノルマである最後のページの解答をノートに書き終えた。答え合わせをして、全問正解であることを確認し、重い表紙を閉じる。




ふう、と息を吐きながら首を回すと、骨が小さく鳴った。


時計の針は、午後十時を回ろうとしている。




机の端に置かれたスマートフォンに、自然と視線が吸い寄せられた。


道場でメッセージを見てから、数時間が経過している。その間、日向坂からの追撃はない。




椅子に深く寄りかかりながら、俺はスマホを手に取った。画面を開くと、既読をつけたまま放置された日向坂のメッセージが残っている。




「……」




別に、気になっているわけではない。




このまま返信せず無視していた場合の、日向坂の表情など想像していない。




ただ、俺の『2カ年限定・青春浪費ざまぁ計画』という壮大なミッションにおいて、このまま完全に無視を貫くことが最適解なのかどうか、論理的に検証する必要があるだけだ。




彼女は『お友達』という関係性を提示し、俺はそれを承諾した。友達という名目で彼女に貴重な青春を浪費させるには、適度な『餌』が必要不可欠だ。ここで完全に拒絶し、彼女が諦めてしまっては、俺の復讐計画自体が頓挫してしまう。




そうだ。これは計画を円滑に進行させるための、必要な布石。




あと、人として連絡を無視するのはよくない。アイツには昔無視されたが、俺は違う。




俺は自分の中で完璧な言い訳を構築し、ようやく文字入力のキーボードを立ち上げた。




『わかった』




いや、これでは少し素直すぎる。




『いいよ』




論外だ。優しさが滲み出ている。




『別に構わないが』




長ったらしい。変に気取っているようで癪だ。




文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。たかが一言の返信に、数学の難問を解く以上の脳内リソースを消費している自分がひどく滑稽に思えてくる。


数分間の葛藤の末、俺は一つの結論に辿り着いた。




『たまにならな』




これだ。肯定はしているが、主導権はこちらにあり、決して全面降伏したわけではないという絶妙なニュアンス。




俺は躊躇いを断ち切るように、送信ボタンをタップした。




ポン、と短い音が鳴り、画面に俺の緑色の吹き出しが追加される。




それを見届けた瞬間、俺はスマホを机の上に裏返しに置き、ベッドへと倒れ込んだ。


返信はした。あいつのことだから、過剰に反応するかもしれない。もしかしたら大袈裟に喜ぶかもしれない。




……あいつの笑顔やはしゃぐ姿が脳裏に浮かぶ。妙に落ち着かない気持ちになる。




「……俺は、何をやっているんだ」




天井を見つめながら、片腕で目を覆う。




変に早鐘を打っている心臓の音が、ひどく煩わしかった。


三秒後に、スマホがポン、ポン、ポポンとなった。もう今夜は見ない。俺は寝ているのだ。




※※




「き、きたぁぁあああああ!?」




静かな自室に、あたし、日向坂愛瑠の絶叫が響き渡った。




ベッドの上に突っ伏したまま、握りしめたスマホの画面を食い入るように見つめる。


通知画面に浮かび上がった『たかじょーくん』の名前。そして、短いメッセージ。


慌ててトーク画面を開くと、そこには確かに彼からの返信があった。




『たまにならな』




「おぅふ……!!」




声にならない悲鳴を上げながら、あたしはスマホを胸に強く抱きしめ、ベッドの上で


ゴロゴロと転げ回った。クッションに顔を押し付け、足をバタバタと激しく上下させる。




 尊い……。尊すぎて無理……!。語彙力消滅したんだけど……!




「返信きた! 無視されなかった! たまにならなって、それってつまり……オッケーってことだよね!?」




たった六文字。





でも、否定じゃない。


二年間、完全に閉ざされていた彼との繋がりが、ほんの少しだけ、確かに結び直された気がした。いや、閉ざしたのはあたしだろって話だけどさ!




嬉しくて、嬉しくて、足の指がぎゅっと丸まってしまう。




にやけが止まらんのだが!?




たかじょーくんが優しすぎてやばいんだが!?




え、待って、無理、好き……っ しゅき!




あたしは弾かれたように起き上がり、正座をしてスマホを両手で構えた。


指先が勝手に動いたみたいだった。




『うんわかった! じゃあ来週とかならワンチャン!?』


『お弁当のおかずのリクエストとかある? なんでも作るし!』




勢いのままに打ち込み、送信ボタンをターンッ! さらにカワウソのスタンプをどーん!




二つのメッセージとスタンプが、小気味良い音とともに次々に画面に表示された。で、送ってから、もっとちゃんと推敲とかすればよかった! とか思った。




「うへへへへ」




変な声がでる。再びスマホを胸に抱きしめた。多分、めっちゃ頬が緩んでる気がする。いやだって、だって……だって! たかじょーくん、優しい! 好き! 




マイナス百万点からのスタート。でも、今日は確実に一歩、前に進めた……んじゃないのこれ!? 来たんじゃないこれ!? なんかあれ! 小さいけど偉大な一歩である……的な。なんか宇宙飛行士的な名言的なあれ! 知らんけど!




「……よかったぁ……」




窓から差し込む月の光に照らされた部屋の中で、あたしはもう一度だけ、スマホを見返した。そのトーク画面は、宝物みたいに見えた。ってか宝物そのものだった。

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