元カノ、喜ぶ
一時間目の授業が終わるのを告げるチャイムが鳴った瞬間、あたし、日向坂愛瑠は自分の机に突っ伏して、大きく「ふぅーっ」と息を吐き出した。
なんとか遅刻にならずに済んだ安堵と、朝からのドタバタで体力が削られたせいだ。
「あんたさ。ほんっと、ギリギリだったね」
頭の上から、呆れたような、でもどこか甘さの混じった声が降ってきた。
顔を上げると、机の横に大親友の星亜――秋月星亜が立っていた。
丁寧に手入れされたサラサラのストレートヘアに、少しツンとした切れ長の目元。大人びたメイクと、綺麗に整えられたネイル。着崩した制服からすらりと伸びる脚は同じ女子のあたしでも見惚れるくらいだ。今日も見とれてしまいそうになるような納得のオーラを放っている。
「てぃあぁ……。マジで死ぬかと思った。朝、通学路でたかじょーくん待ってたんだけどさぁ……」
「でしょうね」
星亜は呆れたように小さくため息をつき、腕を組んだ。
「……朝のホームルーム。あんたがいないって先生が出席簿にチェックつけようとした時、高城が『日向坂ならさっきまで教室にいて、保健室に行きました』って言ってたけど」
「…………マ?」
「マ。だから先生も、あんたが遅れて入ってきた時『無理するなよ』って言ったわけでしょ」
もわん、あるいは、ぽあん、そんなファンシーな音が胸の中から聞こえた気がした。
たかじょーくんが。あの、冷たい言葉で突き放してきたたかじょーくんが、あたしを助けるために嘘をついてくれた?
「うそ……っ。神……! やっぱ、たかじょーくん神じゃん……っ!」
あたしは両手で熱くなった頬を包み込み、机の上で身悶えした。嬉しさが胸の奥から炭酸みたいに弾けて、自然と顔がにやけてしまう。
そんなあたしを、星亜はじとっとした冷ややかな目で見下ろしていた。
「……マジで、あいつに『友達から』始めて、ガチで押していくつもりなの?」
「もちろん! 昨日そう決めたもん」
あたしが力強く頷くと、星亜は深々とため息をついた。
「……ごめんだけど、理解できない」
心底不思議そうな、そして少し不機嫌そうな顔。それでも最後には、「……まあ、あんたが決めたんなら、応援はしてあげる」と小さく呟いてくれた。
「てぃあ……! 好き! チュッ!」
「やめて、リップつく」
抱きつこうとしたあたしの額を、星亜は綺麗な指先でツンと押し返した。
それから、ちらりと教室の前方――すでに次の授業の準備のために席を立っている彼の方へと、氷のような視線を向ける。
「ただ、あたしは個人的には高城のことはよく知らないし、愛瑠を悲しませたりしたら普通にムカつくけど」
星亜の瞳に宿った静かな本気に、あたしは胸がきゅっとなった。
中学の時、あたしが一人で校舎裏で泣いていたのを、ずっと傍で慰めてくれたのは星亜だ。あたしのついた最悪の嘘も、その理由も、全部知ってくれている唯一の親友。
「……うん。ありがと。でも大丈夫。今度は絶対に、あたしが笑顔にするから!」
力強く宣言すると、星亜はやれやれと肩をすくめた。
「ハイハイ。せいぜい頑張りな」
※※
お昼休み。
購買で急いで買ってきたメロンパンとカフェオレを抱え、あたしは校舎の中庭へと足を急がせていた。
一時間目のこと、絶対にお礼を言わなくちゃ。
春の日差しが降り注ぐ中庭のベンチに、見慣れた二つの背中を発見した。
背筋をピンと伸ばして静かにパンをかじっているたかじょーくんと、その隣でスマホをいじりながら器用に紙パックのジュースを飲んでいる、沖田竜水くんだ。
「たかじょーくん! それに沖田くんも」
「おっ、日向坂ちゃんじゃーん。やっほー」
竜水くんはチャラいノリでひらひらと手を振り返してくれた。彼はたかじょーくんの幼馴染の親友で、女子ウケ抜群のイケメンさんである。中学時代は、あの二人は仲がいいのが不思議扱いされてたけど、今じゃすっかりイケメンコンビとして知られている。
たかじょーくんは昔からイケメンなんですけど?
そののたかじょーくんは、あたしの声にピクリと肩を揺らしたものの、ゆっくりと振り返ったその顔は氷のように無表情だった。
「……何だ」
「えっとね、あの……。朝のこと、お礼を言おうと思って」
あたしはベンチの横に立ち、両手でギュッとパンの袋を握りしめた。
「てぃあから聞いたよ。あたしが遅刻しないように、先生に保健室にいるって言ってくれたんだよね。本当に、ありがとねっ」
満面の笑みで伝えると、たかじょーくんは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐにフイッとそっぽを向いてしまった。
「お前が遅刻して騒ぎになって、俺と待ち合わせしてからかとか言われたら面倒だから、適当に言っただけだ。俺と関係なければ勝手に遅刻しろ」
相変わらずの、冷たくて素っ気ない声。
彼が根は底抜けに優しい人だということは、知ってる。今のだって、ただの照れ隠しか、あたしを遠ざけるための言葉だってこともわかってる。
わかっているのに。それでも、完全に拒絶するようなその響きに、あたしの胸の奥はやっぱりチクリと痛んでしまう
「……そ、そうだよね。あたしのせいで迷惑かけちゃって……」
ギュッとパンを握る力を強め、あたしは視線を足元に落とした。
そう簡単には、昔みたいな距離感には戻れない。ちょっと浮かれていた自分が恥ずかしくて、肩を落とす。
……でもそれは一瞬。落ち込んでるところを見せるのは違うと思うから
なのでわたしは、すぐに顔をあげて、笑った。
「やー、ごめんね! 失敗失敗! あはは」
そんなあたしの顔をみて、たかじょーくんは小さく舌打ちのような音を漏らした。
「……今後、同じことがあっても迷惑だ。登校時の待ち伏せはするな」
「……っ、うん。ごめんね。あはは……」
「どうしてもと言うなら……」
「え?」
顔を上げると、たかじょーくんは首の裏を片手で掻きながら、信じられないくらい不機嫌そうな顔で、明後日の方向を見つめていた。
「どうしてもと言うなら、事前に連絡しろ。……気が向けば、一緒に登校してやる」
――え。
思考が、一瞬停止した。
事前に連絡しろ。気が向けば、一緒に登校してやる。
それって、つまり。
「……ホントに!?」
あたしは弾かれたように顔を前に突き出した。
「だから、気が向けば、と言っているだろうが」
「うんっ! 連絡する! 絶対するね!」
突き放したような言葉の裏にある、彼なりの不器用な優しさ。それがわかった瞬間、しぼんでいた心に一気に空気が送り込まれて、舞い上がってしまいそうだった。
えへへ、とだらしない顔で笑いが込み上げてくるあたしの横で、「ぶっ」と小さく吹き出す音がした。
「くくっ……やっぱ、仲良さじゃーん、二人とも」
竜水くんが、残っていたパンを飲み込みながら楽しそうに目を細めていた。
「うるさい、竜水」
「はいはい。……あ、そういえばさ、りっくん」
竜水くんはブレザーのポケットをごそごそと探り、二枚の紙切れを取り出した。
「今週末、りっくんと一緒に映画観に行く予定だったじゃん? アレ、俺、急に別の子とデート入っちゃっていけなくなったんだよねー」
「は? お前……」
「でさ」
竜水くんはたかじょーくんの抗議を完全に無視して、ニカッと悪戯っぽい笑みを浮かべ、その紙切れ――映画の前売り券を、あたしの目の前にヒラヒラと見せつけた。
「前売り券もったいないからさ。……日向坂ちゃん、代わりにどう?」
「マ!?」
凄い声が出た。それから、チケットと竜水くんの顔を交互に見つめた。




