元カノ、友達になる
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響くと、静かだった教室は一気に活気づいた。
俺はノートを閉じ、席を立つ。向かう先は学食だ。
「りっくん、今日の日替わり定食、唐揚げだってさー」
少し離れた席から、沖田竜水がひらひらと手を振りながら近づいてきた。少し長めの前髪を遊ばせ、ブレザーをだらしなく着崩したこいつは、いわゆる幼馴染と言うヤツで、数少ない友人だ。りっくん、と呼ばれるのは高校生になった今となってはちょっと抵抗がないではないが、今さら変更するのはもっと抵抗がある。
「あ、竜水くん。後でラインするねー」
「あいあいー、可愛いスタンプ送っといてー」
すれ違う女子生徒に手際よくウインクを飛ばしながら、俺の机の前にやってくる。
「学食行こうぜ。りっくん」
「ああ。行くか」
俺が短く応じ、教室の扉へ向かおうと踵を返した矢先のことだ。
「た、たかじょーくんっ!」
背後から、ひときわ明るく、ほんの少し上ずった声が鼓膜を揺らした。
振り返ると、日向坂愛瑠が小走りでこちらに向かってくるところだった。彼女の胸元には、可愛らしいピンク色のランチクロスで包まれた、明らかに一人分とは思えないサイズの二段重ねの弁当箱が抱えられている。
「……何だ」
「……お昼! 一緒にどうかなって思って!」
満面の笑みを向けられ、俺の思考は一瞬停止した。女子から手作りの弁当で誘われるなどという事態は、俺の想定カリキュラムには一切組み込まれていない。
というか、なんだこれは? 登校の時も思ったが、弁当? お前はハーレム系ラブコメの三番手で押しの強いタイプなのに最終的にフラれるタイプのヒロインか。お色気枠のやつか。
日向坂の、弁当箱を持つ手がわずかに震えていることにも、彼女の頬が紅潮して表情筋に固さがあるのがわかる。意味が分からない。
ただでさえ女子への免疫がなく内心テンパりかけていると、隣にいた竜水が「おや?」という顔で日向坂の手元と俺の顔を交互に見た。
「あー、ごめんりっくん! 俺、今日B組の女子たちとメシ食う約束してたんだった」
「は? お前、さっき唐揚げがどうとか……」
「前から誘われてたんだよねー。じゃ、そういうことで!」
竜水は俺の肩をポンと叩き、すれ違いざまに日向坂へ向かって軽く微笑みかけると、足早に教室を出て行ってしまった。あいつは俺と日向坂との関係性を知っている。そのうえで今の対応。面白がってやがるのか、何か含みがあるのか。
残された俺と日向坂の間に、わずかな沈黙が落ちる。
「お弁当、作ってきたんだ。……一緒に、食べない?」
日向坂は首を傾げ、上目遣いで俺を見た。
その声はいつも通り明るく弾んでいたが、弁当箱を抱える彼女の指先を見れば、爪が白くなるほどぎゅっとクロスを握りしめているのがわかった。潤んだ大きな瞳が、期待と不安を入り交じらせてかすかに揺れている。
――緊張しているのか。
その事実に気づいてしまい、俺の心臓が嫌な音を立てた。だが、ここで流されるわけにはいかない。
「……悪いが、俺はこれから学食に行くんだ」
極力感情を交えない、事務的な声で告げた。
「……そっか」
俺の拒絶の言葉に、日向坂の肩がびくっと跳ねる。
「そうだよね、ごめんね。お昼休み、急に押しかけたりして。学食の唐揚げ定食、美味しいよね。あはは……!」
日向坂は弁当箱を胸に抱き直すようにして、一歩後ずさった。
これでいい。ここで背を向けて教室を出れば、俺の毅然とした態度は保たれる。昔は地味だと俺を切り捨てたくせに、ハイスペックになった途端に掌を返して弁当まで作ってくるなど、どう考えても都合が良すぎるのだ。
そう理屈をこねて自分を納得させ、踵を返そうとした。
「そうだよねー。いきなり手作りお弁当とか、重いよね。ごめんごめん!」
背後から、わざとらしいほど明るい声が響いた。
「じゃあ、これあたし一人で二人分食べちゃおっかなー。絶対太っちゃうなー……。」
無理に明るい声を出して笑う日向坂だったが、その声はわずかに震えていた。必死に平気を装い、ショックを悟られまいとしているのだろうが、無理に上げた口角はかすかに引きつり、潤んだ瞳には隠しきれない痛みが滲んでいるように見えた。
その表情を視界の端で捉えた瞬間、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。そして、足が床に縫い付けられたように動かなくなる。
「……おい。お前、それ本当に一人で食うつもりか」
気づけば、俺は振り返って口を開いていた。
「えっ? う、うん! あたしけっこう食べるし! 午後から体育もあるし、余裕余裕!」
慌てて取り繕うように、日向坂はぶんぶんと首を縦に振る。
「嘘をつけ。二人分のサイズだと言っていただろう。お前一人で食いきれる量じゃない」
「だ、大丈夫だよ。残したらもったいないし、好きなオカズばっかりだしさ」
ぎゅっと弁当箱を抱きしめる姿は、まるで叱られた子供のようにいじらしい。
なんだその顔は。自分から勝手に作ってきて、勝手にフラれて落ち込んでいるだけじゃないか。それに、それを隠そうと笑っているのだから、気づかないふりをして放っておけばいい。
だが、ここで突き放したら、明らかに量が多すぎる弁当を一人で無理して食べる彼女の姿が脳裏をよぎってしまう。そんなの、寝覚めが悪すぎる。
ここで見捨てて本当に泣かれでもしたら夢見が悪いし、食べ物を粗末にさせるのも気が引ける。そうだ、これはあくまで人道的な見地からの、仕方ない対応だ。決して、彼女が無理して笑う姿を見て心が痛んだから、というわけじゃない。
俺は必死に脳内で大義名分を組み立て、小さくため息をついた。
「……学食は、混むからな」
「え?」
日向坂がきょとんとして顔を上げる。
「それに、食べ物を無駄にするのは感心しない。……人気のない静かな場所なら、付き合ってやらないこともない」
言い訳がましく視線をそらしながらそう告げると、日向坂の顔がパァッと花が咲いたように輝いた。
「うんっ!」
結局、俺たちは人気のない校舎の外階段、その踊り場に並んで腰を下ろしていた。
春の心地よい微風が吹き抜ける中、日向坂が嬉々として弁当箱の蓋を開ける。
「じゃじゃーん! どう!? 早起きして頑張っちゃいました!」
中には、彩り豊かなおかずが隙間なく詰められていた。唐揚げにタコさんウィンナー、ほうれん草のお浸しに、色鮮やかな卵焼き。どれも手作りだと一目でわかる、丁寧な仕上がりだ。
「……無駄に凝ってるな」
「えへへ……。あ、あのね。たかじょーくん、甘い卵焼き、好きだったっしょ。もしよかったら、食べてみて……?」
日向坂は少し緊張した面持ちで、割り箸を俺の方へと差し出してきた。
上目遣いで様子を窺ってくるその顔は、期待と不安でまた少し強張っている。断れば、またあのしおれた顔を見せられることになるのは明白だ。
至近距離から漂う彼女の甘い香りと、健気な態度に脳がバグりかけ、俺は観念して割り箸を受け取った。
黄色い卵焼きを一つ摘まみ、口に運ぶ。
咀嚼すると、出汁の旨味と優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「……美味っ」
「ほんと!? よかったぁ……!」
無意識に漏れた本音に、日向坂は心底ホッとしたように胸を撫で下ろし、それから嬉しそうにふにゃりと笑った。
しばらく無言で箸を進めた後、俺はずっと気になっていたことを切り出した。
「……日向坂。昨日の、『第二ラウンド』ってなんだ」
俺の問いに、日向坂はピタリと箸を止めた。
風が日向坂のインナーカラーの髪を揺らす。彼女は少しだけ真剣な眼差しになり、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「……いきなり、また恋人同士に戻ってなんて、そんな都合のいいこと言える立場じゃないって、分かってるから」
日向坂は膝の上に置いた自分の手を、そっと重ね合わせた。
「だからさ。まずは、『お友達』からスタートしたいなって」
「……友達」
俺は眉をひそめた。
友達『から』ということは、つまりいずれはそれ以上の関係になることを見越しているということだ。そんなもの、俺が応じる理由はない。俺の目的は、このハイスペックになった姿で、かつて俺を見下したこいつを冷徹に突き放すことのはずだ。
――だが。
この提案を完全に却下するということは、友達に『すら』なりたくないと拒絶することと同義だ。もしここで突き放せば、教室で見せたあのしおれた顔を、あるいはそれ以上に哀しそうな顔を、彼女は間違いなくするだろう。
――だが。
そんなもの、俺の知ったことではない。きっぱりと拒絶して立ち去る。それが俺の当初の目的だったはずだ。
――なのに。
「……まあ」
俺の口は、脳の指令を無視して勝手に動いていた。
「お前がどうしてもと言うなら……友達くらいなら、別に……」
言ってから、激しく後悔した。俺は何故、こんなことを言っているんだ。
「ほんと!? やったぁ!」
日向坂は目をキラキラと輝かせ、大事な宝物を抱え込むように、ぎゅっと自分の胸元で両手を握りしめた。
「よーし、お友達のたかじょーくん! 唐揚げも自信作だから、いっぱい食べてね!」
「……だから、そんなに食えるか」
文句を言いつつも、俺は箸を止めることができなかった。日向坂は自分の分も忘れて、俺が食べるのを嬉しそうに、太陽のように眩しい笑顔で見つめてくる。
圧倒的な陽のエネルギーを持った『お友達(仮)』。
血の滲むような努力でようやく手に入れた、そこそこハイスペックな男子高校生としての俺。その俺によるザマァ断罪。それが、こいつのせいで乱れている。
俺はなぜ、あんなことを……。
わけがわからないまま流されてしまった自分に戸惑いながら、俺は甘い卵焼きをもう一つ口の中に放り込んだ。




