元カノ、攻勢を開始する
海からの潮風が、朝の柔らかい日差しに混じって頬を撫でる。
湘南の海辺に近いこの通学路は、県立月読高校に通う生徒たちのための専用ルートのようなものだ。波の音を遠くに聞きながら、俺――高城律人は、いつも通り一人で学校へ向かう……はずだった。
「……いや、そもそもあいつはこれからどうするつもりなんだ?」
歩きながら、俺の脳裏を占拠しているのは昨日の放課後の出来事だ。
完璧な「ざまぁ」を執行して、冷徹に突き放したはずだった。それなのにあいつは、泣き崩れるどころか『第二ラウンド、スタートね!』と不敵に宣言して走り去っていった。
あれは本気なのか? それとも、ただの負け惜しみか? 考えれば考えるほど、頭の中に霧がかかったようにモヤモヤとした焦燥感が募っていく。
通学路の曲がり角。
日陰になっている塀の向こうに、聞き慣れた気配を感じてふと視線を向けた。そこには、スクールバッグを両手でぎゅっと握りしめ、胸元にそっと手を当てて「すぅ、はぁ……」と深く、深く呼吸を整えている日向坂の姿があった。唇を「よし……っ」と小さく動かし、何か大きな覚悟を決めるように目を閉じる。
だが、俺の姿を認めた瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げ、一瞬でいつもの眩しくて屈託のない笑顔になった。
「おはよー! たかじょーくん!」
インナーカラーの入った髪が朝の光に透け、着崩した制服が健康的なスタイルを強調している。彼女はまるで数年前からこうしていたかのように、ごく自然な動作で俺の隣に並び、歩幅を合わせて歩き始めた。
先ほどの彼女の「準備運動」のような一幕の意味が分からないが、いちいち気にしてはやらない。
「……何をしている」
「何って、と、登校だけど?」
屈託のない笑顔で首を傾げる日向坂。その無防備な近さに、俺は内心で息を呑む。
――近い。物理的な距離感がバグっている。高校に入学してからそれなりに女子から声をかけられる機会は増えたが、俺の「スマートな男子高校生」としてのカリキュラムには、女子と至近距離で並んで登校する高度なイベントに対する最適な解答メソッドなど用意されていない。
俺は表情の筋肉を冷徹なまでに固定し、いつもの「無表情」を保ちながら、少しだけ歩くペースを速める。だが、日向坂は「あ、ちょっと待ってー」と軽い足取りでついてくる。
「ねえねえ、一緒に学校行こ? ほら、あたしたちクラスメイトじゃん!」
日向坂はそう言うと、スクールバッグの持ち手を再びぎゅっと握りしめた。その指先が、血の気が引くほどに白くなっている。
ゴクリ、と彼女の細い喉が緊張で小さく上下した。それから、下から覗き込むような上目遣い。朝日に照らされた長い睫毛の奥で、潤んだ瞳がまっすぐに俺を見つめている。
おそらく、これが巷で噂されるギャル特有の高度な親愛アピールなのだろう。冷静に分析しようとするが、間近で見るその造形の整い方に、俺の理性は少なからず沈黙を強いられていた。
「……は」
口を開きかけたものの、適切な言葉が思い浮かばない。
冷たく『一人で行く』と突き放せばいいだけだ。だが、この圧倒的な「陽の気配」を前に、スマートに、かつ不自然でなく拒絶する言葉を選択するのは、なかなかに骨が折れる。
俺が口ごもって視線をわずかに泳がせていると、日向坂の眉尻が一瞬だけ、きゅっと下がった。本当に、ほんの一瞬だけ、彼女の動きが止まる。……ように見えたが、彼女はすぐにそれを弾けるような笑顔で上書きした。
「沈黙はイエスってことで! よーし、行こっか!」
少しだけ上ずった声で、日向坂は勝ち誇ったように距離を詰めてきた。完全にペースを握られている。
「ねえねえ、今日の数学の課題やった? あたしマジで1ミリもわかんなくてさー。あ、てか聞いて! 昨日食べたコンビニ新作のいちごタルト、マジで神すぎてヤバかったの! カスタード超濃厚だし。半分ユイにあげよっかなーって思ったのに、気づいたら秒で完食しててさ。超ウケない?」
「……」
「あ、スイーツとか興味ない感じ? だよねー! あ、でも課題のノートあとで見せてほしいなー。それか教えてくれたりする? たかじょーくん、学年トップだよね! マジ凄すぎ!」
「……あぁ。まあ、それなりに」
「それなりって! 謙遜しすぎだって。あ、てか昨日のうちの晩ご飯ハンバーグだったんだけどね、ママが焦がしちゃって、なんか炭の味したんだよね。マジショックだったわー。……ねえねえ、そういえば弓道って普段どんな練習してんの? 重い弓とか引くんでしょ? 筋肉すごそうだし」
絶え間なく続く明るい声。
沈黙を嫌うように、彼女は次から次へと新しい、しかもどうでもいい話題まで振ってくる。なんか必死な感じもするけど、それは多分勘違いなのだろう。この手の人種はナチュラルにこれなのだ。
ふと前方に目を向けると、すれ違う男子生徒たちの視線が、自然とこちらの隣に吸い寄せられていくのがよくわかった。
学校中から愛される、誰もが認めるカースト最上位のギャル。それが日向坂愛瑠という存在だ。すれ違う連中が、彼女の姿を認めるたびに一瞬だけ足を止め、憧れや羨望の入り混じった眼差しを向けていく。
ただ静かに、目立たず登校したい身としては、この絵に描いたような彼女の人気っぷりと、その隣を歩くことで生じる余計な視線の巻き添えは、なかなかに面倒でしかない。
どう返せば不自然でない相槌になるのかわからず、俺はひたすら短い返答を返しながら、前方に視線を固定して歩き続けた。
「あ、愛瑠おはよー!」
「ユイ、おはよー! 今日のメイクめっちゃ盛れててマジ可愛い!」
「ほんと!? あ、高城くんもおはよー。二人が一緒にいるのってなんか新鮮!」
「あはは、だよねー。あたしがちょっと無理言って隣キープさせてもらってんの!」
通りすがりの女子グループからの気軽な声かけに、日向坂はいつもの人懐っこい笑顔で言葉を交わす。
誰とでも壁を作らない、太陽のような親しみやすさ。中学時代以上に洗練された彼女の「陽のオーラ」が、俺の周りの空気を容赦なく塗り替えていく。
「……これは、マズい。完全に飲まれている」
俺はなんとか主動権を取り戻そうと、小さく配列を正すように咳払いをした。
その時だ。日向坂の歩くリズムに合わせて揺れる、ギャル特有のデコラティブなスクールバッグ。無数のキーホルダーがジャラジャラと音を立てるその隙間に、見覚えのある小さな物体がぶら下がっているのが見えた。
少し色褪せた、小さなウサギのぬいぐるみ。
それは、中学時代。日向坂が「これ可愛い!」と呟いたのを聞いて、俺が不慣れなクレーンゲームに必死に小遣いを注ぎ込み、ようやく手に入れてプレゼントした、安っぽくて少し間抜けた顔のプライズ品だった。
「……っ」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
呼吸が一瞬止まる。俺は思わず立ち止まり、そのウサギを凝視してしまった。周囲の華やかなキーホルダーたちの中で、それだけが異様に浮いている。明らかに今の彼女のセンスとは乖離している、みすぼらしい代物。
あんなもの、とっくの昔に捨てられたとばかり思っていたのに。
いや、そうじゃなければおかしい。俺をあんな風に捨てておいて、それを持っているのは矛盾している。
「……? どうしたの、たかじょーくん?」
急に立ち止まった俺を不思議に思ったのか、日向坂も足を止め、振り返る。
彼女の視線が俺の顔と、俺が見つめているバッグの間を往復する。その瞬間、日向坂の顔から血の気がすっと引き、弾かれたようにバッグを背中側に隠した。
「な、なにかな? ジャラ付けしすぎ? でもほら、ギャルってこんな感じじゃない?」
日向坂は、あはは、と明らかに誤魔化すように笑った。さりげなくウサギをカバンの中に押し込んで隠してもいる。
「……いや、何でもない」
わからない。が、あえて言及してやることもない。俺はそう判断した。
再び前を向いて歩き出す。
心臓の奥が、何とも形容しがたい熱さでじわりと痺れていた。
「あ、待ってよ。たかじょーくん」
後ろから小走りに追ってくる日向坂に、俺は振り返らなかった。
俺はギリッと奥歯を噛み締める。
これは、あの時と同じだ。俺の心を弄び、最後にはどん底に突き落とすための、甘く危険な罠。そうに決まっている。俺はもう二度と騙されない。
だが、俺の理性の防壁は静かに、しかし決して無視できない激しいノイズを立て始めていた。




