外伝 アレン編―「レッド」を越えて―
最初は、何が何だか分からなかった。
皇后陛下(ルーナ様)にすくい上げてもらって、開口一番に放たれた言葉。
「辺境の地に、ヒーローを作るわよ!」
……正直、最初は恥ずかしくて仕方がなかった。
薄暗い路地裏で泥水をすすり、盗みをして生き延びてきた元孤児の俺が、清廉潔白で誰かを助ける「ヒーロー」になんてなれるわけがない。そう思って、どこか冷めた目で自分を見ていたんだ。
けれど、あの時ルーナ様が真っ直ぐ俺を見て言った言葉は、今でも俺の中で光り輝いている。
『助けて欲しかった時に、来て欲しかったヒーローに……自分がなるんだよ、アレン』
その瞬間、俺の中の何かが音を立てて崩れ、そして新しく組み上がった。
かつて誰も助けに来てくれなかった絶望。それを知っている俺だからこそ、誰かに差し伸べられる手がある。
そこからは、無我夢中で練習に明け暮れた。
喉が枯れるまで名乗りを上げ、体が動かなくなるまで剣を振る。そうして舞台に立ち、子供たちの歓声を浴びるうちに、だんだんと「演技」というものが楽しくなっていった。
自分じゃない誰か――。
「元孤児のアレン」を脱ぎ捨て、誰かの希望そのものである「レッド」へと変身する時間。
最初は「逃避」だったのかもしれない。けれど、仮面の下で流す汗も、誰かを守るために震わせる声も、それは間違いなく俺自身の真実になっていった。
……だが、当時の俺はただ無我夢中で、気づかないうちに「レッド」という役割を、自分自身を隠すための『鎧』にしてしまっていたんだ。
ネレイス様の闇魔法の恩恵で、変身シーンが魔法のようにスムーズにいくようになってから、俺たちは覆面だけで素顔を隠す舞台をやめ、堂々と顔を出してステージに立つようになった。
昔は、かつての仲間の関係者や、俺の過去を知る者に見られることが、たまらなく怖かった。もし正体がバレれば、この居場所さえも失ってしまうのではないかと怯えていた。
けれど、今はもう、全く気にならなくなった。
この顔に刻まれた経験も、この瞳に宿る意志も、すべてが俺という「俳優」を形作る一部だと思えるようになったから。
ヴォルフラム学園の『芸能クラス』にある俳優科。そこは、かつて王城という狭い世界で「レッド」として持て囃されていた俺にとって、初めて突きつけられた「現実」という名の戦場だった。
「……っ、今のシーン、もう一度お願いします」
稽古場に自分の声が虚しく響く。視線の先にいるのは、今度の新作舞台で俺のライバル役を競い……そして、次期レッドの座に最も近いと目されている男、ガブリエルだ。
ガブリエルは名門貴族の端くれでありながら、その実力は圧倒的だった。
「次期レッドは彼で決まりだ」という周囲の期待を、彼はその実力で当然のようにねじ伏せている。 俺のような「元盗賊」「元孤児」という泥にまみれた過去を持つ平民が、どれだけ背伸びをしても届かない、天性の輝きがそこにはあった。
(……俺は、何者なんだ?)
ふとした瞬間に、胸の奥に冷たい澱が溜まる。
かつて、俺は皇后陛下に惹かれていた。でも、今の俺ならわかる。それは恋ではなく、暗闇の中で生きていた俺を見つけ出してくれた「光」への、強烈な憧れだったんだ。
今の俺の心に、本当の意味で火を灯してくれるのは――。
「アレン、お疲れ様。……これ、差し入れですわ」
振り返ると、そこにはセレスティアがいた。彼女もまた、自分の未熟さに悩みながらも、必死に前を向こうとしている。
「……ありがとう、セレス。君の顔を見ると、ちゃんと“前を向こう”って思える」
「な、何を仰っていますの!? 早くそれを持って、次の稽古に備えなさいな!」
真っ赤になって言い返す彼女の姿に、俺は初めて「隣に立ちたい」と願う一人の男としての感情を自覚していた。
(……ああ、やっぱり俺は、セレスが好きだな)
だが、現実は残酷だ。
主演オーディションの最終選考。ガブリエルの演技は、俺のそれを遥かに凌駕していた。
「アレン、君の演技は『正確』だ。でも、ガブリエルの演技には『生きるために演じてきた者の渇き』がある」
監督の言葉が、鋭いナイフのように俺のプライドを切り裂く。
独り、夜の稽古場で崩れ落ちる俺の前に、聞き慣れた足音が近づいてきた。
顔を上げると、そこにはリオン、そしてかつて共に泥水をすすった元盗賊の仲間たちが立っていた。
「……相変わらず、一人で抱え込みすぎだよアレンは」
リオンが呆れたように、けれど温かい声で俺を見下ろしている。
「アレン。お前は『元孤児だから負けてる』なんて思ってるのか? 笑わせるな。俺たちが今まで、どれだけの修羅場をお前と一緒に潜り抜けてきたと思ってる」
「そうですよ、アレン。スターレンジャーをここまで大きくしてきたのは、他でもない私たちでしょう」
仲間の言葉が、冷え切った俺の心に熱を流し込む。
そうだ。俺は一人じゃない。
元盗賊だからこそ知っている、泥臭い生き様。元孤児だからこそ知っている、誰かを求める切実な痛み。
スターレンジャーで初めて行ったリハーサルからこれまで、数え切れないほどの喝采と、それ以上の失敗、そして仲間とぶつかり合いながら積み上げてきた試行錯誤の夜。そのすべてが、俺の血肉になっている。
(……そうだ。俺には、ガブリエルにはない数年間の『経験』があるんだ)
洗練された技術や、恵まれた血筋が生む華やかさでは勝てないかもしれない。けれど、観客の心に直接泥を投げつけるような、必死に明日を掴もうとする「必死さ」なら、俺の方が上だ。
「……ありがとう、みんな。俺は、大切なことを忘れていたよ」
俺は立ち上がり、鏡の中に映る自分を見つめた。
そこには、負い目に怯える平民の少年ではなく、多くの仲間に支えられ、一人の女性を愛し、表現することを決意した「俳優」の瞳があった。
翌日の最終稽古。
ガブリエルを前にした俺の演技は、昨日までとは別人のものだった。
台本通りの綺麗な芝居じゃない。けれど、一言一言に重みがあり、沈黙さえもが物語を語り始める。アレンが放つ圧倒的な「生」の感情に、ガブリエルさえもが一瞬、気圧されたように息を呑んだ。
「……ふん。ようやく面白いツラになったな、アレン」
ガブリエルが初めて、不敵な笑みを浮かべて俺を認めた。
最終選考のステージ。俺は、ただ無心に演じた。
今までの自分を覆っていた「スターレンジャー」という煌びやかな鎧。
けれど、リオンたち仲間の声を聞いた時、気づいたんだ。俺は知らぬ間に、その『ヒーロー』という象徴に縛られていたのかもしれない。
「……あいつ、化けたな」
舞台袖で誰かが呟く。
俺の演技は、もはや台本をなぞるだけのものではなかった。元盗賊として、元孤児として、泥水をすすりながら明日を掴もうとしていたあの頃の、ヒリヒリとした渇望をすべてセリフに乗せた。
ガブリエルもまた、それに応えるように神がかった演技を見せる。その演技には、完璧であろうと自分を削り続けてきた者だけが持つ、歪んだほどの執念が宿っていた。二人の火花が散るような掛け合いに、会場の空気は極限まで張り詰めた。
やがて、静寂。
演出家である監督が、ゆっくりと立ち上がった。
「……決めたぞ。次回作『騎士戦隊ソードレンジャー』の主演、新レッドは――ガブリエルだ!!」
その瞬間、ガブリエルが耐えきれず、泣きながらその場に崩れ落ちた。
エリートとして完璧を求められ続けてきた彼もまた、孤独な戦いを続けていたのだ。俺は彼のもとへ歩み寄り、力強く右手を差し出した。
「おめでとう、ガブリエル。……君なら、最高のレッドになれる」
ガブリエルは震える手で俺の手を握り返し、固い握手を交わした。その手は、思っていたよりもずっと温い。不思議と悔しさはなかった。自分にできることはすべて出し切った。鏡の中にいた「迷い子」の俺はもういない。今の俺の顔には、これまでにないほど晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。
客席にいた仲間たちが、安堵したように拍手を送ってくれる。
さて、俺はこれからどうしようか。脇役からまた出直そうか。そう考えた時、監督が鋭い声で俺を呼び止めた。
「アレン。君には、『新作舞台:星空のセレナーデ』の主演をやってもらうことにした。できるか?」
「え……?」
差し出されたのは、マリア・ドームで開催される大人向けの本格的な演劇の台本だった。
子供向けの特撮ショーとは一線を画す、人間の愛憎と葛藤を深く描いた最高峰の舞台。俳優なら誰もが一度は夢見る、真の「実力」が試される場所。
俺は驚きに目を見開いた。
ガブリエルが「ヒーロー」の継承者なら、監督はアレンの中に、型に嵌まらない「表現者」としての無限の可能性を見出したのだ。
「や、やります!!!! やらせてください!!」
腹の底から、震えるような歓喜が込み上げてくる。
……手渡された重みのある台本を見つめていると、ふと、これまでの足跡が脳裏をよぎった。
俺は、確かにヒーローに縛られていた。
……けれど。その鎖があったからこそ、ここまで来られたんだと思う。
(……皇后陛下。俺、ようやく分かった気がします)
自分じゃない誰かになりきること。それは自分を消すことじゃなく、自分の中にある「光」を増幅させて、誰かに届けることなんだ。
監督から渡された、新しい台本を強く握りしめる。
今度は「ヒーロー」の仮面はない。一人の男として、複雑な感情を曝け出さなきゃいけない『星空のセレナーデ』の舞台。
レッドの衣装を脱ぎ捨てた背中には、もう誰かの用意した「脚本」の翼はいらない。
自分の足で、自分の声で。
世界を震わせる一人の男としてのステージへ、俺は今、力強く踏み出した。アレンとしての新しい「変身」が、今、始まろうとしている。
今度は誰かになるためじゃない。『アレンとして』舞台に立つんだ。
アレンは良い役者になりそうです。




