外伝 アルス編―真紅の誓いと騎士の道―
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アルスは執務室の前にいた。
掌の汗をズボンで拭い、緊張した面持ちで重厚な扉をノックする。
「入れ」
扉の向こうから響いたのは、父ギルバートの低く厳格な声。
「アルスか。どうした?」
「父上に、話しておきたいことがあります」
――キーンコーンカーンコーン……。
学園に響き渡るチャイム。この学校では最後の1時間、生徒が自分の興味に合わせて好きな科目を選べる選択授業がある。
俺は迷わず剣術を選んだ。ちなみにエルナは魔法だ。
アルスは無言で授業用の木刀を手に取ると、鋭い踏み込みと共に空気を切り裂いた。上級生すら圧倒するその剣筋には、日々の鍛錬の重みが乗っている。
「アルスくん、かっこいいよね……」
「学園が始まってまだ数日で、しかも2年生でしょ? それなのに中等部を負かしちゃうって」
「お父様が、何としてでも婚約者候補にしてもらえってうるさくて」
「アルスくんって次の国王様なのよね? 婚約者になったら王妃様になれるってこと?」
(うるさいな……)
周囲のさざめきは、剣の道に没頭したいアルスの耳にはノイズでしかなかった。
放課後、言い寄ってくる同級生たちを器用にかわしながら、俺は裏庭にある静かな木陰へと向かった。
エルナはエルナで悩んでいるようだったが、自分の力で乗り越えようとしていた。
「もう体も弱くないし、一人で大丈夫だもん! お兄様は過保護すぎるのよ!」
と言って、新しくできた友達と楽しそうに笑いながら駆け去ってしまう。なんだか、置いていかれたような気になるのはなぜだろう。
「アルス」
「エディ」
いつの間にか、エディが隣に立っていた。
「さっきの剣術の授業、大丈夫だったのか?」
剣術の授業は、多少の怪我はつきものだ。実戦形式の訓練には、教師も生徒同士の手出しも一切不要というルールがある。
「やっぱり見えた? ふふ、大丈夫だよ。剣術も楽しいね」
エディは最後の1時間、毎日違う授業を受けているようだった。ある日は歴史、ある日は魔道具、またある日は芸術。彼はこの世界のすべてを吸収しようとしているみたいだ。
「俺さ」
「うん」
「騎士になりたいんだ」
「うん」
エディは、まるで最初からその答えを知っていたかのように、穏やかに頷いた。
「父上と母上に子どもができたら、その子がこの国を継げばいい。俺は王冠を被るより、剣を持ってこの国を守る騎士になりたいんだ。父上にも、この前そう話した」
「そっか。いいんじゃない、アルスらしくて。……君はきっと、誰よりも強い『レッド』になれるよ」
「っよし! スッキリした!」
「ふふ、先行ってるよ」
「ああ」
エディの背中を見送り、アルスは一人、赤く染まり始めた空を見上げた。
王位への執着はない。ただ、母が愛し、父が守り抜いたこの国を、今度は自分の力で支えたい。
「……見ててくれよ、母さん、父さん」
それからしばらくの時が流れた。学園の掲示板には、来年度に向けた進路希望調査の案内が貼り出されている。
「騎士科に進む予定の学生は、この紙に記入して提出するように」
年に一度の進路希望。優秀な者は飛び級ができ、中等部からは授業内容が大きく変わる。より専門的で過酷な訓練が組み込まれることになる。
「アルス様が飛び級で帝王学でも経済学でもなく、騎士科一本絞りだなんて……!」
校内には驚きと落胆の声が広がっていた。特にアルスとの将来を夢見ていた令嬢たちの間では、まさに絶望に近い溜息が漏れている。
「婚約者候補を狙っていた女の子たちの悲鳴が、あちこちから聞こえてくるようだよね」
新しくできた友人が、隣を歩くアルスに苦笑い混じりで声をかけた。
「煩わしいのが減ってちょうどいいだろ。俺は飾り物になるつもりはないからな」
アルスは冷淡に言い放つが、その瞳には迷いがない。そんな彼を見て、エディが穏やかに微笑んだ。
「エディはどうするんだ? お前なら何でもこなせそうだけど」
「僕は経済学と機械工学の複合専攻かな」
「あぁ。アステリアで侯爵家を継ぐんだもんな。……お前なら、あの国をうまく立て直せそうだ」
エディは「期待に応えられるように頑張るよ」と肩をすくめた後、思い出したようにアルスの顔を覗き込んだ。
「うん。……そういえば、聞いたよ。皇后陛下、赤ちゃんができたんだってね。おめでとう、アルス」
その言葉が出た瞬間、さっきまで「鉄の王子」のような冷たさを纏っていたアルスの表情が一変した。
「そうなんだよ! 男かな? 女かな? どっちに似ても可愛いだろうし、もう今から楽しみで仕方ないんだ!」
いつもはツンツンしているアルスが、デレデレとした表情で身を乗り出す。彼がこんな風に素の顔を見せるのは、だいたいエディを含めた身内の前だけだ。
「もし弟ができたら、俺が直々に剣を教えてやるんだ。妹だったら……悪い虫がつかないように、俺が最強の騎士になって守り抜いてみせる」
「ふふ、アルスは本当にいいお兄さんになりそうだね」
そして、騎士科の授業が本格的に始まった。訓練場は、常に熱気と殺気、そして少しの「妬み」に満ちていた。
特に、王族でありながら一介の騎士を目指すと宣言したアルスに向けられる視線は、必ずしも好意的なものばかりではない。
「……なぁ、聞いたか?」
更衣室の影から、ひそひそと毒を含んだ囁きが漏れてきた。
「俺、親父から聞いたんだけど……アルス様とエルナ様って、今の国王様と王妃様の本当の子供じゃないらしいぞ」
「えっ、マジかよ? じゃあ誰の子なんだ?」
「なんでも、昔の近衛騎士団長と、亡くなった先王の第一王女……つまり今の国王様のお姉さんの子供らしい」
アルスは、扉の陰で足を止めた。握りしめた拳に力が入り、指の関節が白く浮き上がる。
「なんだ、じゃあ純粋な王族じゃないってことか。半分は騎士の……平民の血が混ざってるってことだろ?」
「はは、なんだよ。お高くとまってても所詮は『拾い子』かよ。それで王家のフリをして、挙句に騎士になりたいなんて、血が騒いでるだけなんじゃないか?」
「学園では身分は関係ないって建前だけど、王の血ですらないのに、王子気取りか……」
クスクスと下卑た笑い声が響く。アルスが剣の柄に手をかけ、一歩踏み出そうとしたその時。
「――面白い冗談だね」
氷のように冷たい声が、更衣室の空気を凍りつかせた。現れたのはエディだった。彼はいつもの穏やかな微笑を消し、黄金色の瞳でその生徒たちを射抜くように見つめている。
「……え、エディ様……」
「今の話、僕もアステリアの侯爵次期当主として、陛下に報告したほうがいいかな? ヴォルフラム王国の建国の功労者であり、陛下が何よりも大切にしている家族を侮辱したとなれば……君たちの家がどうなるか、想像できるよね?」
生徒たちは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去っていった。静かになった廊下で、エディは背後にいたアルスを振り返った。
「……アルス」
「……ああ。……分かってる。あんな奴らの言うことなんて、どうでもいい」
アルスは吐き捨てるように言ったが、その肩は微かに震えていた。血筋がどうあれ、自分を育ててくれたギルバートは父であり、導いてくれたルーナは母だ。その事実を、外野の勝手な物差しで汚されたことが許せなかった。
「アルス。君が『騎士』を選んだのは、血筋なんかじゃない。……自分の大切なものを守りたいという、君自身の『正義』からくるものだ。僕はそれを知っているよ」
エディの言葉に、アルスは深く息を吐き、空を見上げた。
「……フン。当たり前だ。あんな雑音、俺の剣で黙らせてやる」
そんなある日の放課後。
アルスは、先日の陰口を叩いていた連中が、エルナを囲んで嫌がらせをしている現場に出くわした。
「おいおい、王女様のフリをして、本当は拾い子だって? 笑わせるなよ」
アルスは血が上るのを感じ、咄嗟に助けに入ろうと一歩踏み出した。だが、その足を止めたのは、エルナ自身の行動だった。
「拾い子……? ふふ、それが何か?」
エルナは怯えるどころか、凛とした表情で魔法を唱えた。彼女の周囲に眩い光の障壁が展開され、男たちの放った卑劣な魔法を易々と弾き返す。
「私は父上と母上の娘、エルナ・フォン・ヴォルフラムです。血筋なんて関係ありません。私には、守りたい家族と、この力がある!」
光の奔流が男たちを押し流し、彼らは尻餅をついて腰を抜かした。
「ひ、光魔法…」
「えー、そんなことも知らなかったの?」
もう、エルナは病弱で、兄に守られるだけの妹ではなかった。彼女もまた、この国の未来を担う一人の「ヒーロー」として、自分の足で立っていたのだ。
(……そっか。エルナも、もう大丈夫なんだな)
アルスの胸に、一抹の寂しさと、それを遥かに上回る清々しい気持ちが広がった。妹の成長を確認できた今、俺がやるべきことは一つだ。
翌日の騎士科の授業。
教官の号令と共に、武器庫から実戦用兵装が運び出された。ルーナがデザインし、マキナたちが調整した「特撮ヒーローの武器」を彷彿とさせる武装が並ぶ。アルスが手を伸ばしたのは、重厚ながらも鋭利な輝きを放つ一振りの大剣だった。ギルバートと同じ大剣。
訓練場に出ると、偶然にも昨日の連中が対戦相手として並んでいた。
「随分と、俺の妹が世話になったようだな」
アルスが剣を構えると、父と同じ灰色の瞳が鋭く輝いた。
「体格に見合わない武器選んで大丈夫か?」
「たかだか8歳のガキに負けるかよ!」
男たちが悲鳴を上げて襲いかかってくる。だが、アルスの大剣が一閃すると、彼らはまるで人形のように次々と吹き飛ばされていった。
「はっ! 魔法なんて使うまでもないな」
血筋がどう、拾い子がどう。そんな「雑音」は、この一撃の前には何の意味も持たない。
握りしめた柄から、熱い魔力が伝わってくる。
未来の弟か妹、成長した妹、そしてこの国の人々。
守るべきものが明確になった少年の振るう剣は、もはや「王子の嗜み」などという甘いレベルを遥かに凌駕していた。
「……見ててくれよ、父上、母上。俺は誰がなんと言おうと、この国の『最強の騎士』になってみせる」
少年の決意は、冷たい陰口を焼き払うような熱を帯びて、更なる高みへと昇っていった。真紅の誓いを胸に、彼は今、真のヒーローへの道を歩み始めたのだ。
あの時の決意を、俺は一度も後悔することはない。




