53. 愛娘の絶交宣言と魔女の誤算
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「おとうさまの、うわきものぉぉおおお!!!」
――訓練場に、エルナの悲痛な叫びが響き渡る。
あまりのパニックに、自分が何をしたのか、目の前で何が起こっているのかさえ理解できていないエルナ。
だが、戦場では決して揺らぐことのなかった最強の騎士、ギルバート・フォン・ヴォルフラムの肩は、目に見えてガクガクと震え出した。
「エルナ……待ってくれ。これには、その、非常に深く、かつ致し方ない理由があってだな……」
「いやだぁぁあ! おかあさまっていう人がいながら、あんなおんなの人とコソコソ会うなんて! エルナ、もうおとうさまなんて知らない! 一生くちきかないんだからぁぁ!!」
「一生……っ!!」
ギルバートが、まるで致命傷を負ったかのようにその場に膝をつく。傍らでは、アルスが「目の前で女が男に変わった」という超常現象を前に、「え、え、何が起きたの……?」と腰を抜かしたまま固まっていた。
待機していたカイルや騎士たちも、団長のあまりの狼狽ぶりと、敵の正体の情けなさに、もはや突っ込む気力すらなく棒立ちである。冷たい夜風だけが、沈黙の流れる訓練場を吹き抜けていった。
「エ、エルナ~! 大丈夫よ、お父様は浮気なんてしてないからね~?よしよし…」
ルーナが必死にエルナを抱きしめてなだめる横で、土下座していたカイエンが、すっと顔を上げた。
(……あれ? 今、これ逃げるチャンスちゃう? 全員の意識がお嬢ちゃんに向いてる隙に、ウチの得意の脱出術を使えば……)
そろり、とカイエンが膝を浮かせた、その時だった。
ドォォォォン!!!
ギルバートの愛用する銃型の魔道具『ルクシライザー』から放たれた氷の弾丸が、カイエンの頬をミリ単位でかすめ、背後の石壁を粉砕した。砕け散った石の礫がカイエンの首筋を掠める。
「ギャーーッ!!! すんまへん!! 逃げようとしてすんまへん!!!」
「……貴様のせいで。貴様の稚拙な誘惑のせいで、俺はエルナに一生の拒絶を……っ!」
ギルバートが、絶望と殺意が混ざり合った「本当に死神に見える」顔で、カイエンに銃口を向ける。
そこへ血相を変えて走ってきたマーサが、ルーナと視線を合わせた。マーサは「あとはお任せください」と言わんばかりに深く頷くと、泣きじゃくるエルナと混乱するアルスを抱き寄せ、寝かしつけるために部屋へと連れて行った。
「待って待って!! ころさんといて!! ウチはただネレイス様に言われて、放り出されただけの被害者なんですぅぅ!!」
「問答無用……。エルナの涙の代償は、その命で支払え」
「ギル! ストップ!!」
ルーナの声が飛ぶ。ギルバートの肩が、ビクッ! と大きく跳ねた。
初めてルーナに愛称で呼ばれた衝撃と喜びで、先程までの殺意も絶望も、もはやどうでも良くなった。
向けられていた銃口が、目に見えてふらふらと彷徨い始める。
「……る、ルーナ! 今、なんて……」
「コホン! まずは状況を整理して、詳しく話を聞きましょう? その魔女の動向もいち早く知らなきゃ」
ルーナが顔を赤らめつつ平静を装い歩み寄ると、カイエンは文字通り女神を見たような顔で、ルーナの足元に縋り付こうとした。
「お、おくさまぁぁあ! 女神様やぁ! ウチ、この恩は一生忘れへん……!」
「――貴様、その汚い手で誰に触れようとしている」
ピリ、と空気が凍りついた。
次の瞬間、カイエンがルーナの足に触れるよりも速く、ギルバートの軍靴がカイエンの鼻先数ミリの地面を、凄まじい音を立てて踏み抜いた。大地が揺れ、土埃が舞い上がる。
「ひぃぃっ!?」
「……。次はその腕を、付け根から氷漬けにして粉砕してやろう」
「だからストップだってば! もう、今の話聞いてた!? 拷問禁止! 」
先ほど愛称で呼ばれた喜びに浸っていたはずのギルバートだが、「妻に害(あるいは不衛生な接触)を及ぼす不届き者」への排除本能だけは、脳の別の回路でフル稼働しているらしい。
「んふふ~! 女神に見えるのは『今のところ』だけだと思うよ。……カイル、この人を地下の取調室へ。あ、あとで私も立ち会うから」
「あ、は、はい! 畏まりました!」
カイルは即座に返事をしたものの、その心中は穏やかではなかった。
(……奥様、また何か「スイッチ」が入りましたね…嫌な予感しかしない…)
「今のところ……? え、なんか意味深……。おくさま、その目、なんか怖……」
カイエンは、ギルバートの殺意とはまた違う、「獲物を品定めする敏腕プロデューサー」のようなルーナの視線に、得体の知れない寒気を覚えるのだった。
地下尋問室。
湿り気を帯びた石壁と、僅かな灯火が揺れる閉鎖的な空間で、カイエンは借りてきた猫のように丸まっていた。
「……闇の脚本?」
カイルが手帳を片手に問い詰める。
「ああ。魔女…ネレイス様が持っとる、他人の人生を強制的に悲劇へ書き換えるおぞましい魔道具や。今回は『誘惑に抗えず、愛する妻を裏切って破滅する男』の筋書きをギルバート様に被せようとしたんやけど……」
「今回……? 前回はどんな筋書きだったんだ」
「いや、前回も失敗やったんや。マリーナ姫が秘薬を盗んだせいで筋書きが変わってしもうた。……脚本通りにいかへんことが続いて、ネレイス様もカリカリしとったんですわ」
(マリーナはなぜ脚本通りに動かなかった……? 闇の脚本は完璧ではないということか……?)
カイルが思考を巡らせる中、ルーナが尋問室に入ってくる。じろじろとカイエンの足元を眺め、ふと疑問を口にした。
「そういえば、あなたも元は人魚……だったってことでしょ? 魔法が解けても脚があるんだね。その姿で深海にいたの?」
「マリーナ姫の飲んだ秘薬よりも、もっと強いもんを飲んでる。ネレイス様もな。せやから、魔法の源が砕けても、姿までは元に戻らへんのや……」
「なるほど。体の中に入ったものは、光魔法でも完全に打ち消すのは難しいということですね」
カイルが破片を見つめ、冷静に分析する。
(おそらく、閣下に闇の脚本が効かなかったのは以前のリリアとの決戦中に、強力な光魔法を浴びていたからでしょう。聖なる魔力の残滓が、闇の介入を無意識に弾いていたというわけですか)
「……で、結局その魔女は何がしたかったわけ?」
ルーナの問いに、カイエンは肩をすくめた。
「ネレイス様のことはあんまり知らんのやけど、ワイは海のはぐれ者やってん。……拾ってもらう前に聞いた噂では、昔は美女やったらしいですわ。王様に見初められず、愛に絶望したとかいう……」
「ふーん……ようは、盛大な八つ当たり? 迷惑な話ね」
「魔女が攻めてくる可能性は、どれほどだ」
ギルバートが、地を這うような低い声で問い詰める。
その瞳には一切の情けはなく、尋問室の温度が数度下がったかのような錯覚をカイエンに与えた。
「そ、それに関しては安心しときなはれ。ワイにかかってた闇魔法が跳ね返って、あっちも相当なダメージをくろうとるはず。一ヶ月は寝込むかと思いますわ……」
「なるほどな。……自業自得というわけか」
ルーナは腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「とにかく、魔女が目覚めるまで一ヶ月ある。その間にしっかり作戦を練りましょう。……それと、カイエ」
「あ、ほんまはカイエンです」
ルーナが、じり、とカイエンの座る椅子に詰め寄る。
「カイエンね。あなたの『天職』、私が見つけてあげましょうか? ふふふふ、はははははは!!!!!」
地下尋問室の冷たい壁に、ルーナの邪悪な高笑いが反響する。
「ひぃぃっ! 女神様が、悪の女幹部みたいな笑い方しとる……!! こ、この人、ネレイス様より怖いんとちゃうか……!?」
ガタガタと震えるカイエン。その横で、先程まで殺気立っていたギルバートと、冷静に記録をつけていたカイルが、揃って深くため息をついた。
「…………。カイル。……止めた方がいいか?」
「…………。無駄ですよ、旦那様。あのスイッチが入った奥様を止められる人間は、この領地……いえ、この世界に一人も存在しません。あの魔女よりも、よほど質が悪い。」
「……そうか。まあ、ルーナのそういう突飛なところも、俺は嫌いではないが……。むしろ、楽しそうで何よりだ」
ギルバートは、あまりに楽しそうなルーナの横顔を見て、呆れつつも愛おしそうに目を細めてしまった。もはや彼にとって、ルーナの暴走は「可愛らしい日常」の一部でしかないらしい。
「……。仰せのままに。旦那様がそう仰るなら、私はこれ以上何も言いませんよ。……さあ、カイエンさん。覚悟を決めてください。もう逃げられませんから」
カイルは、主人の全肯定ぶりに半分呆れ、半分悟りを開いたような顔で、静かに眼鏡を直した。
カイエンの新たな人生(という名の強制労働)の幕が、今、高らかな笑い声と共に強引に開けられた。
——こうして、辺境伯領にまた一人、厄介な住人が増えたのだった。




