52. その笑顔、偽物につき。
質素な使用人用の部屋。
揺らめく水晶球の前で、銀髪の美女――カイエの姿をしたカイエンは、半泣きで通信していた。
「ネレイス様ぁぁああ! 無理ですって! あの男、こんなにナイスバディなウチが色仕掛けしても、眉一つ動かしよらへん! 鋼のメンタルいうか、これもう『不能』なんちゃいますか……!?」
「このポンコツめ! 私の『闇の脚本』が効かないはずがないだろう! 相手が動かないなら、無理やり動くように世界を書き換えるまでさ!」
ネレイスは椅子に深く背を預け、ゆっくりと目を細める。
「……おかしい」
細く白い指先が、冷たい水晶の表面を愛おしげになぞる。
闇の脚本は、確かに発動している。
“誘惑に抗えない”――その呪術的強制力は、本来なら確実に対象の理性を泥のように鈍らせ、本能のままに動かすはずだった。
それなのに。
「どうして、あの男……一ミリも揺らいでいないんだい?」
低く、地這うような声が落ちる。
ネレイスの口元から、余裕の笑みが消える。
「……まぁいい。役者が下手でも、舞台装置でどうとでもなるさ」
その紅い瞳の奥には、計算を狂わされた者特有の、鋭い“苛立ち”が灯っていた。
ネレイスは、禍々しい紫の光を放つ「闇の脚本」を開くと、そのページへ指先からどろりとした闇魔法を流し込んだ。強引にギルバートの理性を書き換えようと介入を始める。
「溺れなさい……理性の堤防を壊し、目の前の女を『最愛』と誤認するがいい!――その先にある“破滅”ごと」
魔法が発動した瞬間、水晶の中のギルバートの瞳に、怪しい光が灯る。
それを見たネレイスは、裂けたような口元を歪めて低く笑った。
「 所詮、男というものはこういうものさ。一度箍が外れれば、あとは堕ちていくだけ……。さあ、最高の悲劇を演じておくれよ」
◆ 翌朝 訓練場
朝の鍛錬を終え、騎士たちが荒い息を整えている。そこへ、百合の花が揺れるようなしなやかな足取りで、カイエが歩み寄った。
「ギルバート様。タオルをお持ちいたしましたわ」
(来たで……ネレイス様がなんやらいじくってくれたらしいからな。今日こそ、今日こそこの美貌で膝をつかせたる!)
内心でガッツポーズを決めるカイエ。その時だった。ギルバートがゆっくりとタオルを受け取り――。
「……ありがとう」
春の陽光のような、慈愛に満ちた満面の笑みを浮かべた。
「…………は?」
カイエの思考が、落雷を受けたように停止する。
(ど、どないしはったんやこの人……!? 怖っ! 逆に怖いわ!!)
背筋を駆け抜ける、正体不明の悪寒。一方で、周囲の騎士団には激震が走っていた。
「お、おい……今の見たか? 団長が笑ったぞ!昨日の反応とは正反対じゃないか!」
「さすがにあの美貌には勝てなかったか……?」
「あの笑顔、奥様に向けてる時のやつと一緒じゃないか……嘘だろ団長…」
「頭でも打ったんじゃないか?」
ざわめく空気を置き去りに、ギルバートは何事もなかったかのように踵を返した。
◆ 昼 城内廊下
人気のない静かな廊下。一人で歩くギルバートの背中を見つけ、カイエの目が肉食獣のように光る。
(チャンスや!!)
「きゃっ……!」
計算され尽くした角度で、彼の背中に向かって倒れ込む。次の瞬間。
ぐいっ、と。鋼のように強靭な腕が、カイエの細い腰を抱き止めた。
(……か、勝ったぁぁぁぁ!!!! ちょろいもんや!!見てますかネレイスさまぁぁああ!)
カイエの脳内で勝利のファンファーレが鳴り響く。至近距離で見つめる銀の瞳。ギルバートは、愛おしい者を慈しむような低音で囁いた。
「……今夜。訓練場で待っている」
「……っ!」
「人目がない。……二人きりで、ゆっくり話そう」
耳元で響く追撃のヴォイス。カイエの心臓は、成功の歓喜で爆発しそうだった。
水晶でそれを見ていたネレイスは、愉悦に肩を揺らす。
「いいねぇ、いいねぇ! 死神と呼ばれる鋼鉄の男も、甘い罠に抗えない愚かな生き物さ」
だが、カイエンはまだ気づいていない。
その銀の瞳は、カイエを映していない。彼はただ、空想の妻を抱いているだけだということに。
……そして、その様子を物陰から見ていた妻本人は。
(……分かってる。作戦なのは分かってるんだけど……)
ギルバートが「あの笑顔」を自分以外に向けた事実に、胸の奥がチリりと焼けるような不快感――“モヤり”を覚えていた。
◆ 回想:前日の夜・執務室
「……誘いに、乗ってやろう」
書類から目を離さぬまま、ギルバートが低く呟いた。向かいに立つカイルが、静かに片眉を上げる。
「ほう。もう捕獲に動きますか。早かったですね」
「ああ。不穏分子は早めに処理するに限る。……だがカイル。俺はあいつに優しい態度なんて取れそうにない。生理的に無理だ」
執務室の空気が主人の嫌悪感で凍りつく中、カイルは眼鏡を押し上げ、悪魔の囁きを吐いた。
「案ずることはありません。……カイエを――奥様だと思い込めばよろしいのです。そうすれば、自然と顔も綻ぶでしょう?」
「…………なるほど。それなら容易い」
そうして笑う二人の顔は、どちらが「魔女の刺客」か分からないほどに、底知れない不敵さを湛えていた。
そこへ、お盆に乗せた夜食を持ったルーナマリアが、おそるおそる扉を開け、引きつった笑顔で二人を見比べた。
「ねぇ、なんか二人とも闇堕ちしてない? 最終回の一個前で、敵の甘言に乗っちゃった追加戦士と闇の軍師、みたいな顔になってるんだけど、何か企んでるの?」
「ああ。……路頭に迷って保護したあの女だが、どうもきな臭くてな。あまりに稚拙な誘惑をしてくるものだから、あっちの作戦に乗ってやろうかと思ってな。嫌ならやめるが」
「ううん、大丈夫! 完璧に騙して正体を暴いちゃいましょう! 私も全力で協力する! ……でも」
ルーナはトレイを置きながら、少しだけ頬を染めて視線を泳がせた。
「あのカイエさん、とんでもない『爆美女』じゃない? 私が男なら秒で落ちる自信あるけど……ギルバート様よく大丈夫だよね。実際のところ、鼻の下伸ばしてるんじゃない? それに、その……胸も私よりずっと大きいし……」
ギルバートはわずかに目を見開いたあと、ふっと柔らかく目を細めた。彼はルーナの腰を引き寄せ、その耳元で深く、熱い吐息を漏らす。
「可愛いことを言うじゃないか。俺の瞳には、世界で一人、お前しか映っていないと言っただろう。顔や形の美醜など、俺にはどうでもいいことだ。大事なのは、その『中身』が誰のものか、だけだ。俺が愛しているのは、お前という存在そのものなんだよ」
「……っ、あ、あまーーーーーい!!」
あまりの直球に、ルーナの顔が一瞬で茹で上がったように赤くなる。
そんな主君たちの極甘なやり取りを、死んだ魚のような目で眺めていたカイルが、盛大に溜息をつきながら書類を叩いた。
「……あの、旦那様。奥様。お熱いところ大変恐縮ですが、明日も早いので、私もう寝ていいですか? 胃もたれが限界です」
「ああ、すまないカイル。……お前はもう下がれ」
カイルがそそくさと荷物をまとめると、危機感を察知したルーナが慌ててその袖を掴もうとした。
「まって! 私も行く! 寝る! 解散!!」
「ルーナは来たばかりだろう。夜はまだ長いぞ。……お茶でも飲んでいけ」
ギルバートの腕がルーナの肩に回り、ガッチリとホールドする。
「カイルさーーーん! 助けてー!! 二人きりにしないでー!!」
カイルが視線を向けると、ギルバートの瞳が「早く行け。邪魔だ」と強烈な光で訴えかけてくる。
「はいはい、おやすみなさいませ……。あとはお二人で中身の愛でも語り合ってください」
カイルは無慈悲に、しかし流れるような動作で退室した。
――そう。昨夜はあんなに、思い出したくないほど恥ずかしいことを…、それでもいざ目の当たりにすると……。
(……あんなに幸せそうな顔で笑うなんて、聞いてないんだけど、バカ!)
◆ 夜 訓練場
深夜。ネレイスの「闇の脚本」によって、逃げ場のない「舞台」へと誘い出された(と見せかけた)ギルバート。
「……来ましたわ、閣下」
しっとりと微笑むカイエ。だが、そこへ想定外の「乱入者」が現れる。
「おとうさま!!!」
「父上、何をなさっているのですか!!」
扉を蹴破って現れたのは、パジャマ姿のアルスとエルナだった。
「さっき図書室で調べたんだ! マーサが言っていた『浮気』の意味を! 父上、母上を裏切って他の女の人と会うなんて……!」
「うわきなんてしたら、一生……おとうさまと口聞かないんだから!!わーん!」
「ちょ、嬢ちゃん、坊ちゃん!? 待ってや――」
カイエが青ざめる中、エルナの手元のステッキ――『ミラクル・プリンセスロッド』が、彼女の涙と怒りに呼応して眩い極光を放った。
パァァァァァァァァン!!!
「……あ」
光が収まったあと、そこに立っていたのは、銀髪の美女ではなく――背中を丸めた情けない男、カイエンだった。深海の玉座では、ネレイスの水晶球が「パリン!」と音を立てて真っ二つに割れる。
「……変身とけてもうたやんかぁぁあああ!!!」
カイエンは悲鳴を上げ、その場に土下座した。
「すんまへん! 全部魔女の命令なんですぅぅ!! 命だけは堪忍してぇぇ!!」
(……関西弁。関西弁だ……。異世界に関西弁がある……なぜなの……。いやもう、ツッコんだら負けよ。細目のポンコツ憎めない系イケメン……。
戦隊でいう「緑」ポジというか、個性強めの……。
ふーーーーーーーーん、好き。
よし、採用!!)
物陰から飛び出してきたルーナマリアは、ギルバートへのモヤりも忘れ、呆然と地面に這いつくばる男を見つめていた




