41. 蹂躙される平和――死神公爵の「愛している」
「……っ!!!!」
執務室に、紙が凄まじい力で握りつぶされる乾いた音が響いた。
ギルバートの手の中で、王家の紋章が刻まれた親書が無残に歪む。
書かれていたのは、セレスティアの連れ戻し。そして暗に「辺境領の不手際」を責める高圧的な言葉の羅列――その行間からは王家の傲慢さが透けて見えた。
「マキナ、頼みたいことがある」
「……わかった」
ギルバートの瞳に宿る、凍てつくような決意。マキナは表情を引き締め、影に溶けるように姿を消した。
一方、庭園ではそんな不穏な空気とは無縁の、明るい声が響いていた。
「セレス! 歌ができたって!」
ルーナが楽譜を手に駆け寄ると、セレスティアがパッと顔を輝かせる。
「!? 本当ですの!? わたくしの歌が!」
「歌…? 地上でも歌は嗜むのね」
マリーナが興味津々とばかりに首を突っ込むが、その声はどこか強張っており、微かに瞳の奥が揺れていた。
「そうだよ、ヒーローショーでセレスが歌うんだよ! 絶対に最高なステージになるから!」
「とっても楽しみですわ……!」
セレスティアが胸を高鳴らせ、マリーナと地上と海の歌文化について語り合おうとした、その時だった。
足音も荒く、ギルバートとカイルがやってくる。そのあまりに険しい表情に、ルーナの笑顔が凍りついた。
「ルーナ、セレスティア様。緊急事態だ」
「……え」
数日後。辺境領の静寂を切り裂くように、王国騎士団を引き連れた豪華すぎる馬車が到着した。
出迎えるのはギルバート、ルーナ、カイル、そしてセレスティア。
カイルが儀礼的な挨拶を述べようとしたが、馬車から降り立った第二王子ルディウスは、それを手で遮った。
「堅苦しい挨拶はいい。おい、セレス。帰るぞ」
泥で汚れた靴を忌々しげに見つめ、ルディウスは吐き捨てる。
「父上も母上もお怒りだ。全く、こんな辺境まで来させやがって……。あんな気味の悪い魔の森で一日過ごす羽目になった僕の身を考えろ。さっさと帰る準備をしろ」
セレスティアは震える手でスカートをぎゅっと握りしめた。
「絶対に嫌ですわ! どうせお父様もお母様も、私のことなんて駒としか見ていない癖に! 帰りませんわよ!」
「はぁ……我儘を言うもんじゃない。父上からは『手段は選ぶな』と言われているんだぞ」
冷酷な言葉にセレスティアが歯を食いしばる。と、ルディウスは品定めをするように辺りを見回した。
「そういえば、ルーナマリアの姿が見当たらないな。王族が来たというのに挨拶もなしか?」
「……ここにおります」
一歩前に出た女性を見て、ルディウスの動きが止まった。
「は? お前は誰だ?」
「お久しぶりでございます、殿下。ギルバート・フォン・ヴォルフラムの妻、ルーナマリア・フォン・ヴォルフラムと申します」
「お、お前が……あの、ルーナマリアだと?」
ルディウスの目が驚愕に大きく開かれた。
彼の記憶にあるルーナマリアは、醜悪なまでに太り、いつもつまらなさそうな顔をして王子の自分にすら興味が無さそうな――。そんな、不快な塊のような女だったはずだ。
だが、目の前に立つ女性には、その面影は微塵もなかった。
引き締まった身体、凛とした佇まい、艶やかな髪。そして何より、誰かに依存するのではない「自信」に満ちた強い瞳。
ルディウスは、その信じられない変貌を遂げた彼女の全身を、舐めるように下劣な視線で這わせた。
「なんだ、綺麗になったじゃないかルーナ。俺に相応しくなりたくて、死に物狂いで努力でもしたのか?」
「いえ。私はもう、ギルバート様の妻ですので」
冷たく言い放つルーナに、ルディウスは不快げに口角を歪めた後、ふと思いついたように手を叩いた。
「そうだ……セレスティアが帰らないというなら、ルーナ、お前が父上を説得すればいい。お前が一人で王都へ来るんだ」
「……っ、なん……だと」
ギルバートの喉から、唸るような声が漏れる。カイルがすかさず割って入った。
「なぜルーナマリア様お一人なのですか。夫であるギルバート様も同行すべきでしょう」
「王族の僕に意見をするな。守護獣を連れ歩く羽目になったのはどこの誰だ? セレスティアを『丸め込んだ』辺境領に責任があるだろう。責任をとって、ルーナマリア一人が来れば、領地に手は出さないと言っているんだ」
ルーナの拳が、爪が食い込むほどに強く握りしめられた。
「ルーナ! だめですわ! わたくしが……わたくしが帰って説得を……!」
「セレス、帰ったらきっと閉じ込められるわ」
ルーナが静かに諭す。そこへ、我慢の限界に達したシェロンが姿を現した。
「閉じ込められたら、ボクが王国を焼き尽くしてやる!」
「シェロン!」
ギルバートが止めるが、ルディウスは鼻で笑う。
「勝手にしろ。だが、そんなことをすれば『ここ』と戦争になるぞ。それでもいいのか?」
「ぐっ……」
最悪の沈黙の中、ルーナが顔を上げた。
「わかった。行くわ」
「ルーナ!」
「……特撮愛で周りが見えていなかった私にも、責任はある。これは私にしかできないことなの。行かせて。お願い、ギルバート様」
ルディウスは勝ち誇ったように笑った。
「決まりだな。明朝出発しよう。おい、早く中に入れろ。風呂だ。俺は疲れているんだ」
去り際、ルディウスはルーナの耳元で卑俗に囁いた。
「『また仲良く』しようじゃないか、ルーナ。ははははは!」
去っていく王子の背中を見つめ、ギルバートは噛み締めた唇から血を流していた。
その夜。
ルーナの部屋に、静かなノックの音が響いた。
ドアを開けると、そこには月光を背負ったギルバートが立っていた。彼を意識しすぎて避けていたこともあり、一瞬どうしていいか分からず気まずさがこみ上げる。しかし、彼が浮かべていたのは、今にも消えてしまいそうな、縋るような顔だった。
その瞳の奥に宿る絶望的な孤独を見て、ルーナは拒絶することができなかった。
「どうぞ」
ルーナは彼と視線を合わせられず、逃げるように部屋の奥へと入った。
ギルバートは静かに部屋に入ると、重い口を拓いた。
「すまない。俺に力がないばかりに……」
絞り出すようなギルバートの声が背中に刺さる。ルーナは彼を振り返ることができず、棚から旅の荷物を取り出したり、手近な衣類を整えたりと、落ち着かない様子でパタパタと動き回った。
「大丈夫! 私がしっかり、セレスティアの想いを王様たちに伝えてくるから!」
努めて明るい声を作りながら、ルーナは必死に手を動かし続けた。今のギルバートの顔を見てしまったら、決意が揺らいでしまいそうだったから。
だが、背後から近づいた大きな影に包み込まれたかと思うと、強い力で引き寄せられ、そのままがっしりと抱きしめられた。
「!? ちょ、ギルバート様!?」
「愛している」
「!」
「こんな時に何をと思うかもしれないが、愛しているんだ、ルーナ」
ギルバートの腕の力が強まる。
「……ずっと怖かった。愛して、また俺の前から全てなくなってしまうことが。……君に拒絶されることが、怖かったんだ」
吐息とともに漏れ出た独白は、夜の静寂にあまりに脆く響いた。ギルバートの腕の震えが、分厚い胸板越しにルーナの身体へ伝わってくる。彼がこれまで一人で抱えてきた、底知れない孤独と恐怖が、その抱擁の強さに凝縮されていた。
「……本当は、行かせたくない」
低く、押し殺した声が耳元に落ちる。
「このまま閉じ込めてしまえたらと……そう思っている自分がいる」
一瞬だけ、腕に込められた力が理性を失いかけたように強まった。だが次の瞬間、ギルバートははっとしたように息を呑み、わずかに力を緩める。
ルーナは、戸惑いながらもゆっくりとその背中に腕を回した。冷徹な「死神公爵」として恐れられる彼の、ひどく人間らしく、幼子のような怯えを肌で感じる。
「ギルバート様……」
ルーナは彼を安心させるように、その背を優しく、何度も叩いた。
本当は、離れたくない。こんな顔をさせてまで王都へ行きたくなんてない。
胸の奥で小さく疼いた本音を、ルーナはそっと飲み込む。
そして、強く胸に顔を埋めたまま、確かな決意を言葉に乗せる。
「帰ってきます。必ず。私はあなたの妻ですから」
ギルバートは深く頷き、ゆっくりと彼女を腕の中から解放した。
その時、彼の瞳から「怯え」や「迷い」は完全に消え去っていた。
ルーナを見つめるその眼差しには、静かだが苛烈な、底知れない決意の光が宿っている。
それは愛する妻を信じ、同時に、彼女を追い詰めた者たちへの容赦ない反撃を誓う「死神公爵」の目だった。
「……おやすみ、ルーナ。明日、見送りに行く」
背を向けて部屋を出ていくギルバートの足取りには、先ほどまでの危うさは微塵もなかった。
廊下の闇に消えていく彼の背中は、何か重大な、そして恐ろしい決断を下した男のそれであった。
翌朝。
朝靄の中、王都へと続く街道には、一台の馬車を静かに見送る、冷徹な貌をした公爵の姿があった。




